翁は、小学校卒業後黒羽の私塾で漢学を学び、更に同十八、十九の両年には隣村大山田村の煙草講習所で修業して煙草の栽培法をひろめ、同二十年より二十二年の三年間、野崎村の県立農事講習所に学んで、稲の品種改良と普及につとめ、又特産の蒟蒻貯蔵法を発見してその栽培を盛んにした。
更に、須賀川農林会長、下野産馬組合長、或は栃木県馬匹畜産組合連合会副会長等の要職につき、農業畜産業の発展につとめた。
翁が生涯の間に最も心血を注いだのは、政治を通しての村政の発展であった。少壮三十二歳の明治三十一年村長に就任以来大正十年村長職を辞するまでの十三年間、家業を見る遑もなく、僻村の振興に努めた。
特に、村長在職中に、村の将来の財産として残された村有基本林こそ、畢生の大事業であった。
明治四十二年十二月、大田原に出張の夜、隣室にて村内加良美上国有林の払下に関して談合しているのを耳にし、帰村して村会の承認を得る遑がないので、独自で払下申請書と、村会決議書を作成して大林区署長に郵送した。然し難問題は山積していた。村会の事後承認。内藤郡長の猛反対、払下申請地八十九町の代金八千円の捻出、当時役場には一円の金もなかった。不撓不屈の精神はこれを乗り越え、四十三年五月、大林区署との間に払下契約を結ぶことができた。植栽は四十四年より始め大正四年に終了したが、杉・桧・松六十七万本を植栽した努力と共に、村民の協力も大きかった。来る年も/\も腰弁当で五キロ、十キロの山道を通ったのであった。然後、基本林は伐採されてその収入で、中学校新築、三小学校の増改築、教員宿舎建設、スクールバス購入、消防自動車の購入、部落公民館の建設、診療所の維持管理、特に須賀川教育振興会は、伐採収入四千万円、寄付二五〇万を合せて発足し、広く新黒羽町全土の学生に無償の奨学金を支給している。右の大事業は、村民より一円の寄付もなく基本林の伐採収入より賄なわれたのであった。
昭和三十年七月二十五日、八十九歳で永眠されたが、昭和四年には公共事務勤勉者として知事表彰を受け、須賀川中学校校庭に立てられた胸像は、偉大な功績と遺風を永遠に物語っている。