二十一 大平初太郎

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 大平初太郎は、慶応元年(一八六五)七月二十五日両郷村大字川田四六番地、大平清三郎の長男として生まる。明治二十七年七月(一八九四)両郷村収入役に選任され、同三十年六月続いて助役となり敏腕をふるわれ、其の後間もなく村長の更迭に当り、村民の強い衆望を担って、明治三十四年六月(一九〇一)村長に推選された。大正六年七月(一九一七)迄二十有四年の長年月に亘り、自治の発展振興に尽力されたその功績は誠に偉大なものがあった。



 次に村長辞任後間もなく当時の、消防組頭から記念品が贈られた「贈呈の辞」を抜粋し、これを轉載する。「古人曰ク其本乱レテ末治マルモノハアラジ、其厚フスル所ノモノヲ薄フシ、ソノ薄フスル所ノモノヲ厚フス未ダコレ有ザルナリト、信哉語ヤ前村長大平初太郎氏者資性温厚篤実敏才ノ士ナリ………明治三十四年六月本村長ノ更迭ニ当リ、氏ハ上下ノ衆望ヲ負フテ村長ニ推選セラル。当時本村ハ最モ政界ニ熱狂シ、其の政見ヲ異ニスルモノハ、父子兄弟ノ親ト〓モ離間シ、諸税渋滞の悪風ヲ醸シ、村治弛ミ混淆トシテ本郡中最モ難村ノ称アリ、然ルニ氏ハ、蹶然起テコノ難局ニ当リ其根本ヲ治メ、厚薄ソノ中ヲ得精励以テ治ヲ謀リ幾多ノ難関モ、幾多ノ辛酸モ之レヲ耐エ、刻苦黽勉遂ニ平和ノ曙光ヲ認ムルニ至レリ。鳴呼氏ハ今ニ至ルマデ在世二十有四年日月猶一日ノ如ク、夙夜ニ蹇々トシテ懈ルコト匪ク、治化日ニ進ミ益々上下ノ嘱望ヲ荷ヒ、自治ノ施設其ノ宜キヲ得、学校役場ノ新築道路溝渠ノ改修、用水路ノ開鑿等、大小ノ事業ヲ起シテ利便ヲ図リ、殊ニ東奔西走シテ消防ノ公設ニ尽力シ、第六部迄ノ設置ヲ見ルニ至レリ以下省略」以上は大平氏の資性、村長として実施した事業の全貌を知るのに参考になるものと思う。此処にも記されておるとおり村長就任時は、政友会憲政党が二大政党として、勢力が強かったため、村が二派に分かれ非常に政争が激げしく、色々と村政の面に支障を齎らし、確かに那須郡一位の難村として知られた。これを氏は忍耐強くこの解消に、全身全霊を傾け平和な村造りの基礎を開いたのである。何と言っても大平氏の村民に与えた遺業は黒羽町と両郷村を結ぶ、長峯道路の付け替え事業であった。文字どおり大塩から山に入り久野又に至り両郷村の中央部に結ばれ伊王野芦野方面に通ずる県道である。黒羽町長と共に強く県に陳情を続け、非常に難所であった峯越し道路を大塩高戸屋を通り久野又に通ずる道路への付け替え事業を敢行した功績は実に大きい。県の採択への陳情と大塩高戸屋方面の人達の耕地の潰地の同意を得ることとの二つの問題は、非常に難行を極め正に忍び難きを忍び、耐え難きを耐えた広き心がこの大事業を数年の年月を以て、遂に明治四十二年(一九〇九)完成した。
 その他幾多の功績を残し昭和二年八月三十日(一九二七)宇都宮市長男義雄氏宅で逝去した。