略歴としては、明治三十一年三月二十九日(一八九八)栃木県師範学校卒業、小学校本科教員免許状をうけ、同日付をもって足利尋常高等小学校訓導に任ぜられた。明治三十五年五月九日(一九〇二)足利郡菱尋常高等小学校長に任ぜられる。明治四十二年五月三十日(一九〇九)県立感化院長に任ぜられた。大正十年十一月十日国立感化院長に任ぜられる。
大正十四年四月二十三日(一九二五)高等官八等待遇を内務省よりうけ、大正十一年三月三十日(一九二二)正八位に続いて、大正十四年四月二十三日従七位の叙勲をうけた。
原田氏が国立感化院長(現在の矢板市大字澤)をしていた時、大字両郷字磯上星田金之助氏(現在全一太鼓主宰者嗣子忠良氏)が、大正元年(一九一二)那須学院に養蚕講習会があり、これに参加した折、倫理の講議をうけ、非常に感銘を深くし、終了後日頃の悩みを訴え、その指導を請うた。星田氏は、当時十七歳の多情多感な青年であった。これが抑〻共存道場を開くまことに不可思議な機縁をつくるに至った。両氏の意義深い邂逅であった。両氏はその当時盛んに行われた禁酒会運動に参加していた為益々両氏の交わりは深まり、遂に星田氏は、生来の情熱と忍耐心とをもって、両郷村のみならず近隣の町村の開発振興を期して、原田氏の招聘を強く要請、これが実現をみるに至ったのである。そして共存道場は、大正十四年四月三日創設された。初め大字両郷字田中故井上祐宅を仮道場として開かれ、全一道場或いは私立公民館とも称した。その間星田氏が中心となり、多くの同志を翕合し浄財を一般に募金し、大正十五年三月二十一日現在の共存道場が新築された。因に間口十三間、奥行八間、一六三坪1/4の建物で総工事費は五千余円であった。共存道場の起りは、中根東里の書いた共存道から出ており、これを学則とした。
教科書は「中学講義録」を中心とし、和服洋服の教授は夫人が担当された。
教育の指針は、全一経、農民道、内観和讃でありその誠に深遠な宗教的、哲学的教えを至って易しく、青壮老年を問わず誰にも親しまれるよう教えられた。両郷村は勿論近隣の町村から遠くは会津、朝鮮からも参学している。その参学者の数は資料消失のため明らかではないが、二百と言い、三百、六百とも言われている。その卒業生は今や地域の中心人物として、町、団体の要職に就かれた者等立派な先輩として尊敬されている者が多い。このように一青年との出合いによって、一切の要職を抛って山村教育に、生涯を捧げた原田氏の功績は誠に偉大である。全一経の教え農民道は、星田忠良氏によって農民太鼓として、今なお命脈を続け、より輝かしいものとして人々の警醒を続けている。