明治三十三年十二月、画家寒川雲晁師に遭う。その絵を見るに及んで、天性好むところ禁ずる能わず。再び画道への執着再然する。然し生活は豊かでない。ここに四か年計画をたて、その間絵筆を採るを禁じ、狂奔奮斗余財貯蓄の道を講ず。明治三十八年四月両郷村役場に出仕するも同四十年二月十一日、隣家の火災により類焼す。同年両郷村収入役となる。しかし四か年計画は画餅に帰し、一層逆境に陥ったが、画道への執念益々熾烈となる。大正元年、笈を負うて上京、南画の大家小室翠雲に師事し研鑚努力し南画の玄境を極める。その業蹟は大正五年南画会出品作が宮内省御用品となる。大正平和賞を受け、大正十一年仏国サロン展に選抜、大正十二年三月より五月まで南画研究のため支那に遊学しその源泉を探りその薀奥を極める。文展入選三回、帝展入選四回、昭和四年日仏展入選、同年日本南画院院友となる。昭和十七年大東亜戦争のため郷里に疎開する。早くより「生長の家」に帰依し信仰の生活に入りその道を極むると共に画風は一段と飛躍をみせる。昭和十六年開眼第一回展を華族会館に開催。昭和二十一年五月郷里黒羽国民学校にて第二回展を開く。同二十三年二月東京銀座シバタギャラリーにて第三回展。その他度々個展を開催し新しい画風を披露し研鑚に励むと共に「生長の家」の講師として各地に布教の足跡を残す。八十八歳まで絵行脚を続け、昭和四十三年十一月二十二日、九十歳をもって郷里大字河原に歿す。