二十三 関谷雲崕

1133 ~ 1134
 明治十三年四月二日、黒羽町大字河原、関谷平左衛門の長男として誕生。本名を登一郎という。両郷小学校卒業後、伊王野[尋常高等]小学校高等科に学ぶ。同校卒業後家業(農業)をつぐ。幼少より画才勝れ、家業に励みつつも画学を忘れ得ず。彼が滝沢喜平治翁に送った書簡の一節に「不肖幼より画を好み、専ら心を之に傾注するも家もとより貧しく、加ふるに父病に臥し師に就いて学ぶを得ず。荏苒歳月を送る云々」と。時を経て父を失う。時に十七歳。追っての書簡に「老祖父及び母、妹あり、以て養わざる可からず。然るに資産亦微少、生一度心を馳らせんか。遺族立所に衣食に窮す。何ぞ画の不生産的なるや、斯かる事に心を傾けんには、一家の滅亡知るべきなり。如かず。断然其志を捨てんと斯より念を断ち一意専心母妹と耕し以て家を保ち云々」と。



 明治三十三年十二月、画家寒川雲晁師に遭う。その絵を見るに及んで、天性好むところ禁ずる能わず。再び画道への執着再然する。然し生活は豊かでない。ここに四か年計画をたて、その間絵筆を採るを禁じ、狂奔奮斗余財貯蓄の道を講ず。明治三十八年四月両郷村役場に出仕するも同四十年二月十一日、隣家の火災により類焼す。同年両郷村収入役となる。しかし四か年計画は画餅に帰し、一層逆境に陥ったが、画道への執念益々熾烈となる。大正元年、笈を負うて上京、南画の大家小室翠雲に師事し研鑚努力し南画の玄境を極める。その業蹟は大正五年南画会出品作が宮内省御用品となる。大正平和賞を受け、大正十一年仏国サロン展に選抜、大正十二年三月より五月まで南画研究のため支那に遊学しその源泉を探りその薀奥を極める。文展入選三回、帝展入選四回、昭和四年日仏展入選、同年日本南画院院友となる。昭和十七年大東亜戦争のため郷里に疎開する。早くより「生長の家」に帰依し信仰の生活に入りその道を極むると共に画風は一段と飛躍をみせる。昭和十六年開眼第一回展を華族会館に開催。昭和二十一年五月郷里黒羽国民学校にて第二回展を開く。同二十三年二月東京銀座シバタギャラリーにて第三回展。その他度々個展を開催し新しい画風を披露し研鑚に励むと共に「生長の家」の講師として各地に布教の足跡を残す。八十八歳まで絵行脚を続け、昭和四十三年十一月二十二日、九十歳をもって郷里大字河原に歿す。