二十四 石川寒巌

1134 ~ 1135
 石川寒巌は、明治二十三年黒羽町大字北野上、石川渉(先代)の二男として誕生。本名を寅壽という。明治四十一年、県立大田原中学校(現大田原高校)を卒業すると間もなく上京し、佐竹永邨氏について絵の手ほどきを受ける。病気のため僅か二年ばかりして帰郷。彼は、小学校の教員をつとめるかたわら参禅十年の修業をしているが、二度目の上京をするまでがこの時機である。当時、雲照律師という名僧が建立した西那須野町、雲照寺の第三世住職釈戒光の許に弟子入りしたのである。彼は、大正九年、同郷の関谷雲崕氏の紹介で小室翠雲の門下となり薫陶をうけ、昭和の初頭には南画院の同人となり、南宗画界一方の将星として画壇に輝いていたのである。南画院に初めて出品したのは大正十三年であるが、翌十四年には院友となり、翌々年大正十五年には一躍同人に推せんされたのである。昭和五年、同人になってから五年目の彼は、南画院展に「四時読書楽」「一芳四鮮」「閑庭」の三点を出品したが、この年から彼の画風に一転換をきたした。これより以前は、主として従来の南画風な山水ばかりを描いていたが、この年を境とし、彼は素晴らしい飛躍をした。人物画に手を染めたいなどと思ったのもその一つである。彼は今までの殼を破って遮二無二突き進んだ。そしてその具体的成果は、昭和七年南画院第十一回の出品作「碧巌画冊」がそれであった。この作品は、東洋芸術の醍醐味を満喫させるものとして、その手法に伝統を貴び、尚且つ彼独自の感趣を盛り、しかも宗教的な荘重味を汪溢せしめた。東洋主義者の随喜の的となるような至芸として傑作の刻印を付せられた。昭和九年南画院出品の作、「六曲一双」に雉を描いた大作「永春」は写実的手法が多分にとり入れられており、しかもこれに装飾的な佳韻もあり、その洋画風の手法と色彩感は、今までの南画という概念を小気味よく粉砕したものである。しかも彼は、決して南画の骨法を逸脱せず、伝統の尊さを墨守しながらも概念的な南画の約束から脱出し、彼独自の境地を開いたのである。そして世俗におもねらない態度は、東京の真ん中にいて、尚且つ一草庵の生活を続け、所謂南画道の三味境に安住するものであった。



 昭和十年(一九三五)急性盲腸炎を病み、翌十一年三月、四十六歳の生涯をとじた。