二十五 岸良雄

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 岸良雄の本名は、植竹喜四郎。筆名は本名の喜四郎(きしろう)を捩ったものである。明治十七年(一八八四)一月十七日、黒羽町大字黒羽向町(元川西町)の素封家植竹三右衛門(別項目に記載)の三男として生まれた。長兄は熊次郎、次兄は龍三郎。年譜に拠れば、岸良雄は十二歳のとき、常念寺の墓地で遊戯中、墓石が倒れ、後頭部に重傷を負い、奇蹟的に助かるも後年持病となった不眠と神経症はこれに基因するとある。



 川西小学校卒業後、東京の日本中学校に入学したが、病気のため退学。この頃(明治三十四年)から歌に親しみ、歌誌『明星』に投稿した。その多感な青春の日々を、療養に送ることが多く、十九歳、出家を志したが、両親に許可されず断念した。その後しばらく糠塚の植竹農場で、悶々の空白の歳月を過ごした。
 明治四十四年、彼は二十八歳、青雲の志を抱いて上京、神田佐久間町に、文芸出版社「植竹書院」を創設した。同書院の本の特徴は、縮刷と称し(小形の四六版に六号活字)、現代代表作叢書と題して、当時の流行作家の作品を次々に出版していった。良心的出版であったが経営に行き詰まり、大正六年(一九一七)には閉業となった。金銭的には失うものがあったが、当代の一流芸術家たちとの親交を得、後年彼が歌壇進出の絆となったといわれている。
 郷里に帰り、東野電力、丸K製材、丸K運送の経営に当った。このうち丸K製材は、娘婿に引き継がれ、現在営業されている。
 歌への思慕は青年時代から、その胸中に然え続けてきたが、本格的な作歌活動は、彼が三十七歳ごろからである。歌集『花蓮』後記には「比較的晩学である」と述べている。彼の歌壇遍歴は『出現』(編集谷邦夫、発行人須藤忠蔵)とその協力(大正十二年)に出発するもののようである。以後作歌に歌論に、精力的な活動が三十余年に亘って続けられた。
 大正十三年には、『吾妹』の同人となり、以後『芸術と自由』、『自然』、『下野短歌』『沃野』等の同人として遍歴。また『つきくさ』、『立春』を主宰した。特に『立春』は地方歌壇(昭和九~同十四)の有力誌として世人から注目された。
 昭和三十二年(七十四歳)に歌集『花蓮』が刊行された。その歌風は「一気呵成に詠みおろして、高い格調を特徴としている」(谷邦夫)といわれている。長歌に独自性を発揮しており、更に歌論家としては中央歌壇に名をなした。
 昭和三十八年十二月三日、八十歳の生涯を終った。地元の有志や故人と親交あった人びとの手によって、昭和四十一年十月、黒羽神社境内に歌碑が建てられた。『花蓮』から一首を選び
  寒日和定まりにけり吾が里に
    昨日も今日も風花のちる