川西小学校卒業後、東京の日本中学校に入学したが、病気のため退学。この頃(明治三十四年)から歌に親しみ、歌誌『明星』に投稿した。その多感な青春の日々を、療養に送ることが多く、十九歳、出家を志したが、両親に許可されず断念した。その後しばらく糠塚の植竹農場で、悶々の空白の歳月を過ごした。
明治四十四年、彼は二十八歳、青雲の志を抱いて上京、神田佐久間町に、文芸出版社「植竹書院」を創設した。同書院の本の特徴は、縮刷と称し(小形の四六版に六号活字)、現代代表作叢書と題して、当時の流行作家の作品を次々に出版していった。良心的出版であったが経営に行き詰まり、大正六年(一九一七)には閉業となった。金銭的には失うものがあったが、当代の一流芸術家たちとの親交を得、後年彼が歌壇進出の絆となったといわれている。
郷里に帰り、東野電力、丸K製材、丸K運送の経営に当った。このうち丸K製材は、娘婿に引き継がれ、現在営業されている。
歌への思慕は青年時代から、その胸中に然え続けてきたが、本格的な作歌活動は、彼が三十七歳ごろからである。歌集『花蓮』後記には「比較的晩学である」と述べている。彼の歌壇遍歴は『出現』(編集谷邦夫、発行人須藤忠蔵)とその協力(大正十二年)に出発するもののようである。以後作歌に歌論に、精力的な活動が三十余年に亘って続けられた。
大正十三年には、『吾妹』の同人となり、以後『芸術と自由』、『自然』、『下野短歌』『沃野』等の同人として遍歴。また『つきくさ』、『立春』を主宰した。特に『立春』は地方歌壇(昭和九~同十四)の有力誌として世人から注目された。
昭和三十二年(七十四歳)に歌集『花蓮』が刊行された。その歌風は「一気呵成に詠みおろして、高い格調を特徴としている」(谷邦夫)といわれている。長歌に独自性を発揮しており、更に歌論家としては中央歌壇に名をなした。
昭和三十八年十二月三日、八十歳の生涯を終った。地元の有志や故人と親交あった人びとの手によって、昭和四十一年十月、黒羽神社境内に歌碑が建てられた。『花蓮』から一首を選び
寒日和定まりにけり吾が里に
昨日も今日も風花のちる
昨日も今日も風花のちる