前後三十有五年間中等教育に尽瘁した功績は大きい。
銚子時代佐々木信綱の竹柏会に入り、短歌の指導を受けた。京都在職中俳句の道を志し、辻冬史庵に師事し俳誌「祇園」の同人となる。
大田原在職中大正十三年(一九二四)俳誌「枯野」の主幹長谷川零餘子の門に入り同人となり後、選者となる。又地方俳誌広島の「冬青」神戸の「青柿」等の指導者となる。昭和三年零餘子の死により、長谷川かな女主幹の「水明」の同人となり活躍をした。この間「黒羽俳句会」「黒磯俳句会」芦華吟社(ろかぎんしゃ)、大田原「蛙吟社(あぎんしゃ)」の指導者として地域の文化向上につとめた。昭和十八年から二十年まで栃木県俳人会長となり、すばらしい活躍をつづけた。昭和二十九年より四十年まで、下野新聞社の俳壇選者となり、その向上発展に輝かしい足跡を残した。昭和三十九年十一月三日、栃木県文化功労章を受賞した。昭和三十七年四月大田原市籠城公園に、規魚子の句碑が建立された、規魚子自筆の「囀(さえづ)りに、ためらいもなく 身をまかす」の句が刻まれてある。
規魚子は郷土愛の強い俳人で、那須塩原にかけて、くまなく作句している。自然に敬虔繊細(せんさい)に、しかも深く自然を見つめていた。頭脳明晰、文字に精通し一句の端正さ、緩みない語法は誰もが敬服していた。教育者として、又俳人として、名利にはしらず、真実の美を追求し続けてきた、人格高潔な人柄と言うことができよう。
昭和四十六年(一九七一)四月十五日、今市市の自宅で卒した。行年八十三歳。