老師は岡山県上房郡賀陽町大字豊野、藤井久衛門の八男として、明治四年(一八七一)九月十七日生まる。幼名を永造という。
明治十五年(一八八二)八月二十日、兵庫県明石郡魚住村大字清水、臨済宗妙心寺派西福寺住職植木祖俊の弟子となる。
同十六年五月二日、植木祖俊のもとに入籍。同年十月八日祖俊につき得度す。同十八年魚住村浜西小学校高等科を卒業す。
同二十六年(一八九三)二月から同年四月まで神戸市臨済宗祥福寺僧堂にて修業す。
次いで翌年九月より明治四十四年(一九一一)六月まで、京都花園の本山妙心寺僧堂において厳しく修業を重ねる。
褝は自らの実参実究なくして根源的体得はあり得ぬ。衆生は無辺である。度することを誓い、無尽の煩悩を断ずることを願う。僧堂の修行に専念、『坐禅小僧』――『妙心の俊秀』の称あり。自己を取り巻く「物」、すなわち他者・環境の一切からの超越は、禅者「憲道老師」の終生の願いである。
大正四年(一九一五)六月二十三日、東山雲巌寺第五十八代の住職を拝命す。東山は鎌倉円覚寺開山仏光国師の法嗣で、仏国応供広済(ぶっこくおうぐこうさい)国師が開山した一大禅刹(ぜんさつ)で、古道場として天下に知らる。
憲道老師は仏天の加護と烈祖の遺徳、諸尊宿の宗盟と檀信徒の信任を得て、瓜〓綿綿たる東山諸堂の修復に営々として当り、仏道に精進し法灯の輝きを増す。
昭和十五年(一九四〇)住職を退く。(、第五十九代に忘路庵大敬(古鑑)老師が就任す。)
昭和二十二年(一九四七)雲巌寺閑栖三無室憲道老師(水月庵とも号す)は、仏国国師開創の道場(注、日本の四大道場といわれた)の衰微を憂い、再興のため、妙必寺派専門道場を開単し、臨済禅に徹し、幾多の人材を世に送る。
(注)昭和五十二年=一九七七、現住鈴木元昭師は、三代の懸案を実らせ、禅堂を建立す。妙心寺僧堂厳師暮雲老大師の命名揮毫の扁額「獅子窟」(ししくつ)と〓(れん)「雲は嶺頭(れいとう)に在って関不徹(かんふてつ)、水は〓下(かんか)を流れて太忙生(たいぼうせい)」を掲く。
老師、あらゆる栄達を望まず、青少年教育にその余生を捧げ尽す。
毎年度、夏期、学童・生徒を対象に、静座を主とする宿泊訓練の場「林間学校」を開設し、「誠」の教育を実践す。即ち「自己の本性を悟らせ、これを鍛え、磨き、真実を尊び、慈悲の心深く、親切心を培う。」ためである。『信心銘』に「至道無難、唯(ただ)、〓択(けんじやく)を嫌う」とある。
また、社会環境が青少年の魂をむしばむ現状を精神的貧困と嘆き、真の愛情教育を提唱す。
老師「只管打坐(しかんだざ)」(ひたすらに坐る)を推奨す。真に無心になり、その境涯で人間としての生活を尊ぶことを好しとす。遺墨に「忍、これ無くしては何事も成就せぬ」とある。これは「いかなる不安にも、どのような困苦欠乏にも「忍」で打ち勝ち、いらいらせず落ち着き、みんなが仲よく暮すことであり、世の平安を念願としたからである。
山村の健康教育に意を用い、カルシウム等を採り栄養改善を提唱し、無医村解消のため、医師を招き診療所開設に努力す。
昭和二十八年(一九五三)雲巌寺簡易高等学園(注、宇都宮高等学校の通信教育)を開設す。これは山村教育の一環である。
翌二十九年、須賀川村内三つの中学校統合に際し、その精神的支柱となる。校地『二光台』(注、「心と体を磨く」学園、講堂『一真館』(注、「皮膚離脱して一真実のみあり」)、通学橋『三和橋』
(注)「三」は統合三校のこと、「和」は「和 此の一字人類の至宝なり」の意、「三和」は統合の心である。
老師は、村の教育振興会誕生に尽し、育英にも心を傾け、共成会の座禅会を開く。また中卒者の「就職報告祭」を営み、勤労青少年の精神を鍛え大成に期待す。
老いと繁とを厭(いと)わず、県内各界各層の法話・研修会に出講し、聴衆に多大の感動を与え、その人生訓は胸底の琴線を触発す。
墨跡の中に「水五則」(注、自ら活動して他を動かしむるは水なり。以下略)「モット正直でありたい。モット……でありたい」「和敬清寂」「先哲の言葉」があり、「温顔愛語よく回天の力あることを信じ、是れを実践躬行すべきなり」と訓じ、自我の語「俺(おれ)が危(あぶな)い」(注、自利利多の行)は、交通安全教育の座中の銘となす。
老師の徳化は高く、その温顔は慈父の如く仰がれ、わが町に雲巌寺あるを誇り、老師が御座しますことを安らぎとし、宗教と教育関係者のみならず政財界人も恵沢に心酔す。
黒羽町は昭和四十一年(一九六六)二月、名誉町民(第一号)に推挙し、その功績と栄誉を称える。
植木憲道老師の生涯は「吾道一以貫之」に徹し、昭和四十二年(一九六七)五月二十六日、九十七歳の長寿を全うし、雲巌寺で遷化す。同月二十九日密葬。十月七日本葬を執行す。