同三十四年(一九〇一)三月栃木県師範学校を卒業し、川西[尋常高等]小学校訓導、栃木県師範学校訓導・同助教諭心得を歴任した。
同四十四年(一九一一)文部省教員検定試験に合格して、中等学校国語及び漢文科教員免許状を受領し、師範学校教諭に任ぜられた。
ついで川西[尋常高等]小学校長・栃木県立大田原中学校教諭となり、この間大田原実科高等女学校・那須郡立那須実科高等女学校の国語科教授の嘱託として、勤務した。
大正十三年(一九二四)四月、願いにより栃木県立大田原中学校を退き、翌年一月福島県立安積中学校教授嘱託、昭和四年(一九二九)同校教諭を経て、昭和十四年(一九三九)三月六十歳にて定年退職した。
その後福島県立白河高等女学校教授嘱託、川西町公民館運営委員長、黒羽町文化財保護委員会の委員長の職に在った。
この履歴が示すように同氏はまさに大教育家である。しかし彼の真骨頂は、郷土史家としての業績である。
蓮実長は余瀬の旧家に生まれた。この地は牧歌的な田園地帯で、関街道の粟野宿で、史実と伝承の宝庫である。彼は青年教師のころから、研究調査活動に情熱を傾け、県内きっての郷土史研究の先駆者であった。
その成果は次にあげるように多くの著書を生んだ。主な著書に『那須郡誌』(大正十三年=一九二四、初版、発行・那須郡教育会。昭和二十二年=一九四七、改訂版三共印刷刊。同四十五年=一九七〇、改訂再版下野新聞社)・『故郷の先人(せんじん)』(大正七年=一九一八、三共印刷刊)・『わがふるさと』(昭和二十六年=・発行・那須地区小中学校第三班校長会)・『那須国造碑考』(明治四十三年=一九一〇初版、発行・朝陽堂。大正三年=一九一四改版、発行・笠石神社。大正十五年=一九二六、改訂増補、発行・大田原印刷)などがある。
特に『那須郡誌』はその金字塔である。郡内隅なく踏査し、足で誌した貴重な文献である。
その他『修養道歌日訓』『国語綜説』『獅子林余影』など多彩である。
なお彼が執筆した論稿を登載した刊行書に『下野勤皇列伝』(前篇昭和十五年=一九四〇、後篇昭和十九年=一九四四、発行・栃木県教育会)『栃木県教育史』全五巻、(昭和三十二年=一九五七、栃木県教育会)『創垂可継』(昭和四十三年=一九六八、発行・黒羽町教育委員会)などがある。その他『下野史学』など学術雑誌などに登載された論稿は枚挙にいとまがない。
同氏の研究内容をみると、その専門とする国語・漢文の力量が随所に駆使されその文体もユニークである。
また彼ほど郷土を愛し郷土を謳歌した人はいない。『故郷の先人』の作為がそれであり、那須与一出生地や大関増裕(ますひろ)死因などの諸説にもみられる。さらに昭和三十四年(一九五九)町主催の〝芭蕉祭〟が執行されたとき、『芭蕉翁と黒羽』というパンフレットを作成し、観光協会による句碑建立にも尽力した。その他彼の撰文した碑も数多く造立をみている。
彼が本県文化の興隆に尽した功績が認められ、昭和三十年(一九五五)十一月文化功労章を贈与され、また同四十一年(一九六六)黒羽町名誉町民に推戴された。ついで翌年春の叙勲に勲五等瑞宝章を受章した。
蓮実翁は九十七歳の長寿を全うされ、昭和五十一年(一九七六)二月一日大終焉を遂げた。