三、植竹春彦

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 植竹春彦(政治家)は、明治三十一年(一八九八)二月東京市本郷区根津町藤井鼎の七男として誕生した。大正八年(一九一九)東京商科大学本科入学、在学中に日本大学、明治大学の講師を経験、同大学卒業後、東邦電力株式会社に入社した。同社において社長松永安左衛門から電力関係について種々の指導をうける。その間川西町植竹三右衛門の養嗣子となり植竹と改姓した。



 昭和十年(一九三五)東野鉄道株式会社支配人、つづいて専務取締役に就任、実業界に入る。当時同社は西那須野・小川間の鉄道列車を運転中であったが、黒羽・小川間の営業成績が悪かったので、その区間を鉄道からバス運転に切り換えることで経営の合理化に成功した。昭和二十年(一九四五)父三右衛門が死去、その後をついで同年五月より三ケ年間、東野鉄道株式会社社長として、終戦前後の輸送困難期の経営に当った。昭和二十三年栃木県経営者協会会長(初代)となり、本県産業発展のため貢献した。
 昭和二十二年(一九四七)第一回参議院議員選挙が行なわれるにおよび、進歩党より立候補、当選して政界に入る。以来連続五回当選、二十七年間にわたり国会議員として国政に参加した。その間、民主党電力対策委員長、運輸政務次官、参議院運輸委員長、自由民主党党紀委員長等の要職を歴任し、昭和三十四年(一九五九)六月より翌年七月まで岸内閣に郵政大臣として入閣し、国務の最高責任者として国政の運営に従事、ジュネーブで開催された万国電気会議には首席全権として出席した。
 二十七年に及ぶ政治生活の中で特に記憶されるべきことは九電力問題についての貢献である。当時彼は民主党電力対策委員長という役職にいたので、日本の電力事業は適正規模の民有民営の地域別発送配電会社が望ましいという立場(九分割案)を主張し、その成立を図った。この電力問題はその後各方面から種々の案がだされて紛糾し、国会では収拾のつかない状態となり、遂に政府はポッタム政令をもって解決を図ったのであるが、彼は地域別構想を党内、政府、GHQなどの関係者に精力的に説明、説得に努めたのである。
 このほか昭和二十二年(一九四七)より三十八年(一九六三)まで十六年間にわたって、栃木県体育協会長(初代)をはじめ栃木県剣道連盟会長、全日本剣道連盟副会長、栃木県バレーボール協会長、栃木県長刀連盟会長として本県スポーツの振興のためにも尽力した。とくに剣道に関しては、「剣道は軍国主義に通ずるもの」として戦後学校教育においては禁止されていたのに対し、剣道は「青少年の心身の健全なる発達育成に有効である」との見地にもとずき、文部省に体育教材として許可するよう働きかけ、昭和二十八年(一九五三)その実現を果すなど、功績が大きい。