昭和二十七年十月一日、旧須賀川村教育委員会発足に伴って、推されて初代の委員長に就任し、町村合併の三十年二月十日まで在職した。
在職中最大の事業は、新制中学校を須佐木地内に建設することであった。山峡の平地の少ない地区に、広大な面積の中学校敷地を物色することは容易でなかったが、誠実と努力は見事にこの難問を解決して、当時、本県に範たる校舎を建設した。この総事業費七千万円は、奇しくも父銀次郎と、当時の村民の汗の結晶である村有基本林の伐採収入で賄なわれた。更に、村内の須賀川、須佐木、川上三小学校の増改築も実行された。
昭和二十九年二月二十二日、本県の町村合併案が公表されるや、村内にも合併促進協議会が発足したが、学識経験者として委員の一人に推され、村の進路に誤りなく新町への軌道に乗せた。
昭和三十年七月六日より三十五年四月十六日まで、合併後の新町の助役として、更に三十五年四月二十日より四十三年四月十九日まで、新町の町長に選ばれ、経済に教育に福祉に難問題山積の町政の挽回に尽力した。
昭和四十四年四月二十九日、多年の功績が認められて、勲六等単光旭日章を授与され、更に五十二年四月一日、黒羽町名誉町民に推挙された。