五、吉成隆

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 吉成隆は両郷村大字大輪二七九番地、吉成峯之助長男として明治二十八年一月二十四日(一八九五)に生まれる。大正二年三月二十三日県立大田原中学校卒業、続いて大正三年三月二十四日栃木県立師範学校を卒業する。



同年四月金田村本科正教員として、同村市野沢尋常高等小学校訓導に任ぜられた。
 そして一年後の大正四年三月三十一日、両郷村尋常高等小学校訓導に転任された。昭和八年九月三十日をもって同校校長に補せられ昭和十三年九月十五日従七位に叙せられた。そして終戦後間もなく昭和二十一年三月(一九四六)校長を辞職され約三十三年間の、永い間の教育者としての功績を残し、ここに終止符が打たれた。
 其の後憲法改正による第一回の村長選に出馬され、昭和二十二年四月(一九四七)村長に当選され、昭和三十年二月(一九五五)町村合併時迄二期に亘り村長職を務めた。
 両郷尋常高等小学校教員時代、昭和の初期には青年団長を兼務し青年団活動に情熱を燃やし、当時全国的に蓮沼門三、後藤静香等の修養団活動が活発化された時であったので、いちはやくこれに共鳴し青年団の育成に力を入れた。これが青年団員の資質向上に役立ち現在の青年団活動の基礎を築いた力は大きなものがあった。
 村長になって間もなく、終戦時の人心の不安を安定させるため、国、県はこの対策として全国的に、公民館建設運動を展開し、昭和二十二年(一九四七)県下二ケ町村を指定し、モデル的に建設を推進し、両郷村がその指定をうけるや喜んでこれを引きうけ、直ちに大字両郷を始め各大字に分館を設け、昭和二十五年(一九五〇)には中央公民館に主事一、書記一を置き両郷村の社会教育を始め幾多の振興に寄与すること誠に大きいものがあった。昭和二十七年(一九五二)土地改良法の改正により大川用水が土地改良区になり、初代の理事長として、昭和三十七年(一九六二)迄五期に亘り頭首工の災害復旧工事による改修、取り入れ口より約二百米近い用水路の捲き立て工事、隧道の改修等数多くの事業を実施した。昭和三十年二月(一九五五)には、永年の懸案であった川田と当時の伊王野村稲沢との間に、用地等架橋位置等、種々の難問題があったが良くこれを克服して川田橋を着工、同年その完成をみた。その後両郷村長時代に、県と充分検討を重ね、高館城西側の険阻な、急坂な小道を車道に開削することの決定をみ、昭和三十年(一九五五)約六〇〇米の改修に着工、町村合併後昭和三十四年(一九五九)その竣工をみている。こゝは非常に危険な箇所であったため、誰もが念願していたところであり、これが美事に叶えられ、その功績は誠に大いなるものがある。なお町村の合併には、関係町村長と協力、そのリーダーとして、その促進に活躍、円滑にその実現がみられた。以上の功績により昭和五十五年一月十二日(一九八〇)名誉町民に推された。