あとがき

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『黒羽町誌』は、編さん準備委員会による編さん目標・方針・委員会規則・編さん要綱案の作成と、委員委嘱などの諸準備を経たあと、昭和五十一年(一九七六)九月一日『町誌』の編刊を目的とする黒羽町誌編さん委員会規則の施行によりその活動を開始した。
 ついで、同年十二月二十日黒羽町誌編さん委員会と専門委員会の合同会議で、黒羽町誌編さん要綱を確定した。
『黒羽町誌』は、数々の資料をもとにし、考古―古代より現代に至る黒羽地方の歴史の流れを求めるとともに、ひとびとと風土とのかかわりを明らかにし、わがふるさと黒羽の姿を浮き彫りにした。更に変転してやまない現実を見つめることによって、未来に生きる手がかりともなればと考えた。「町史」といわずに、あえて「町誌」と名づけたわけもここにある。
 黒羽町誌編さん専門委員会の委員は、本町在住の各分野に活躍中の人たちを充てて、各々分担執筆したもので、いわば手づくりの『黒羽町誌』である。わたくしはじめ浅学を自覚しながら研修を積み重ね、励まし合って、編さん作業に全力を傾注してきた。
 町誌編さん専門委員会では、先づ編さん要綱に基づき、左記の部会を構成し、編さん内容の具体案を作成した。( )主任者〈補正したもの〉
 総括(阿久津)・原始(田野)・古代(阿久津)
 中・近世(蓮実)・近現代(池沢正)
 拾遺(個別に主任者を定める)

 なお編集内容の具体案は各時代毎に、節・項・目・見出し・内容の骨子・所要頁数・資料・図版などを記載したものである。
 この計画の段階で、栃木県史編さん室と県立図書館、先進市町村史編さん担当者など各位の御指導を仰ぎ、大きな示唆を得ることができた。
 各委員はそれ/゛\編さん要綱と内容の具体案に基づき分担執筆したが、その段階で研究と適切な資料の収集を重ねたことは申すまでもない。
 また都合により執筆分担の細分化をしたためか、執筆者間の連絡調整が不十分で、重複と欠落とがみられたことは私の責任である。しかし予めこの『町誌』のどこをひもといても、他所を照合しなくとも一つのまとまりをみせようと意図したことも事実である。
 執筆内容は学術的にみて価値高いものをめざしたが、親しみをもたせるため説述が平易に過ぎ、冗漫になったり、紙面の関係上、例示が限定されたり短絡化したところがある。了承していたゞきたい。
 この『町誌』は考古―古代から現代まで一巻に収めた。さらに、人物・拾遺も挿入し網ら主義をとった。また特定なものについては古文書等も提示した。従って各内容領域のスペースの限定のため、記載事項も一部に限らざるを得なかった。そのため旧蔵大関家文書など膨大な資料と町内各位から御提供をいたゞいた古文書なども、不本意ながらその引用はその一部に限られ、大部分を割愛せざるを得なかったことは惜しまれた。
 ことに貴重な資料の提供とご指導をいたゞいた各位に心からなる感謝の意を表する。
 拾遺のうち各集落のようすは、『広報くろばね』に連載した稿の一部を載せたものである。
 また人物については黒羽地方の歴史のなかで、特に多くの人々から尊敬され、信頼をうけ、かつ有能で社会の進展に尽した人々の業績を各時代の領域にわたり、これをとりあげ、その概要を記述した。採り上げた人物名は、町民の声を聞き、編さん委員会で確定した。
 それにしても長期間にわたり黒羽町当局をはじめ各関係者の多大な御協力をいただいた。厚く御礼申し上げる次第である。
 終りに執筆事務など延引したにもかゝわらず、終始面倒をみていたゞいた東京印書館の関係者に深甚な謝意を表するものである。
 このようにして『黒羽町誌』は多くの方々の御協力によって編刊することができた。こゝに皆様のご愛読と今後のご指導を乞うて擱筆する。
  昭和五十七年三月
            黒羽町誌編さん専門委員長阿久津正二