第一節 旧石器時代

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 地球上に人類があらわれたのは、数十万年以前といわれている。このころの人類は洪積世の人類とよばれ、歴史上の時代区分では旧石器時代にあたるが、わが国では先土器(せんどき)時代とか無土器(むどき)時代ともよんでいる。
 旧石器時代の遺跡は、昭和二十四年に相沢忠洋によって岩宿(いわじゅく)遺跡(群馬県)が発見されてから、日本全土にわたってこの時代の遺跡が分布していることが確認され、栃木県内では栃木市星野遺跡をはじめ、真岡市磯山遺跡、鹿沼市坂田北遺跡、塩谷町諸杉(もろすぎ)遺跡、氏家町狭間田(はさまだ)遺跡、宇都宮市瑞穂野(みずほの)団地遺跡などがあり、那須郡内では那須町迯室(にがしむろ)遺跡、大田原市琵琶池(びわいけ)遺跡、烏山町宮原遺跡、小川町三輪仲町遺跡などが知られている。本村では下侍塚古墳の周湟(しゅうこう)調査の際に一点ではあるが関東ローム層中から石器が検出されている。また、小船渡(こぶなと)地内に所在する二ツ室塚古墳が発掘されたとき、頁岩(けつがん)質の掻器(そうき)、安山岩質の石核(せっかく)、頁岩質の剥片(はくへん)などが出土しているが(第1図)、出土層位は不明である。だが、関東ローム土が石器に付着しているので、旧石器時代の遺物であることは確かであろう。

第1図 二ツ室塚出土の石器
『二ツ室塚発掘調査概報』より

 掻器とは四五度前後以上の厚い刃をそなえた石器で、掻(か)きとったり、荒削りなどに用いた石器で、二ツ室塚古墳出土のものは拇指形の形状を呈している。石核は適当な剥片を剥(は)ぎとるための母体、または剥ぎとったあとの石の芯(しん)である。剥片は母体となる石塊、または石核から剥ぎとった石片であるが、これで十分に石器としての機能は果たしている。
 これまでのところ、旧石器時代の遺跡は、本村では湯津上地内の下侍塚古墳と小船渡地内の二ツ室塚古墳付近に存在するのみである。ここで注目すべきことは、那須郡の旧石器時代の遺跡が、那珂川とその支流域の段丘上に分布することである。とくに那珂川沿岸の段丘上には、本村の二遺跡をはじめ、隣町の小川町三輪仲町とか、烏山町宮原などの遺跡が分布している。これは、一般には旧石器時代人が洞窟や岩陰などを利用して生活していたのではないかと考えられがちであるが、発見された遺跡の立地からみて、河岸段丘や真岡市磯山遺跡のような、山麓の孤立した丘の南斜面などに多く住んでいたことを証明するものである。
 旧石器時代の遺物が含まれる関東ローム層とは、火山灰層のことである。阿久津純(宇大教授)の研究によれば、関東ローム層は宇都宮付近の土層を標準にして細分され、上位の層から田原(たわら)ローム・宝木(たからぎ)ローム・宝積寺(ほうしゃくじ)ローム・戸祭(とまつり)ロームの四層に大別されている。本村の二遺跡出土の石器は、表土層(黒色土)直下のローム層に含まれていたものと思われるので、最上層の田原ローム層中のものとみてよいだろう。そして、これらの石器は、その形状からみて旧石器時代後期に位置づけられるので、その年代はおよそ二万年以前ころのものと思われる。このころから本村の歴史ははじまるのである。
 那珂川の段丘上に点在して住んでいた旧石器時代人は、住居の付近の樹木をきり開いて見晴らしをよくし、外部との関係や獣類の動きを監視し動物を捕獲したりしていた。この意味で段丘上に住居をかまえることは大変好都合であった。かれらの主な生活は、食糧の獲得と、そのために必要な道具・武器をつくることであった。食糧は狩猟・採集および捕獲によったから、この時代の石器はほとんど狩猟具であったといえる。本村に旧石器時代人が住みはじめた二万年以前ころから、気候はしだいに暖かくなり、一万年位まえになると気温は急に上昇し現在の状態に近づいた。気温の上昇はこれまでの氷河をとかして海面の上昇をひきおこし、日本列島は最終的にアジア大陸から離れていまの姿となった。そして高山の氷河はとけ、亜寒帯の針葉樹は北方へ、あるいは高山の方へ移り、温帯林や暖温林が本州全土に広がった。氷期に生きた動物は他に移ったり、死滅したりしたが、このころ本州から姿を消した動物には、ヒグマ・ヒョウ・ジャコウジカ・オオツノジカ・野牛・ナウマン象などがいた。
 旧石器時代の研究は、多くの研究者によってすすめられているが、まだ十分にはわかっていない。数十万年続いたと思われるこの時代の文化の移り変わりは、さまざまな見解が示されている。芹沢長介(東北大教授)は次のような編年を考えている。つまり、前期・後期・晩期の三時期にわけて、前期旧石器時代(約三万年以上前)はチョパーと剥片尖頭器(はくへんせんとうき)文化、後期旧石器時代(約三万年~一万三千年前)はナイフ形石器文化→細石刃(さいせきじん)文化、晩期旧石器時代(約一万三千年~一万年前)は有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)文化であるという。
 これに対して杉原荘介(明治大教授)は、わが国には前期旧石器時代は存在しないという前提にたって、旧石器時代という名称は使わず、芹沢長介の後期旧石器時代を先土器時代とよび、晩期旧石器時代を原土器(げんどき)時代とよんでいる。また山内清男(成城大教授)は、芹沢長介の前期旧石器時代を旧石器時代、後期旧石器時代を無土器時代とよんでいる。
 このように、この時代の研究は名称の使用から、さまざまな異説があるくらい、まだ十分に文化の内容については理解されていない。しかし、本書ではその性格上、こみいった異説をさけて、単に繩文時代以前のものを、新石器時代に対するものとして、旧石器時代という名称を用いることにした。
 それにしても、栃木県における旧石器時代の研究は、繩文時代以降のそれに比較し、はなはだ遅れており、近年ようやくその緒についた段階であって、個々の遺跡における石器の組成なり、遺跡相互間の編年的問題については、十分に整理・理解されていないという(大和久・塙『栃木県の考古学』)。したがって本村においても、旧石器時代の石器が湯津上と小船渡地内の遺跡から発見されているとはいえ、それは偶然に検出されたものであり、まだ本格的な調査はなされていないので、今後の研究にまつところが非常に大きいといえる。旧石器時代の文化は、文化の黎明を示すものであるので、地質学の研究成果を十分にとり入れて幻の旧石器文化の様相を追求する必要があろう。これには幾多の資料不足が研究を遅滞させていることも事実である。