第二節 繩文時代

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 旧石器時代には土器の製作はみられなかった。土器を製作し使用するのは繩文時代になってからである。土器を作る技術が現われたのは、およそ一万年まえからであり、地質学上からみれば沖積世の初頭からである。これから以後の数千年間を繩文時代とよんでいる。放射性炭素の年代測定法によると、繩文時代の実年代は九五〇〇年前から二三〇〇年前(紀元前三〇〇年)のあいだということになる。この時代の人びとは、狩猟(しゅりょう)・漁撈(ぎょろう)・植物採集の生活が主であり、湯津上村内にも数多くの繩文時代の遺跡が分布している。
関東東北南部
草創期大谷寺Ⅰ日向
大谷寺Ⅱ一の沢Ⅰ
大谷寺Ⅲ一の沢Ⅱ
井草(大丸)一の沢Ⅲ
夏島
稲荷台
花輪台Ⅰ
早期花輪台Ⅱ
三戸
田戸下層
田戸上層
子母口大寺・常世
野島
鵜ケ島台
茅山下層素山
茅山上層
前期花積下層室浜
関山大木1
(文蔵)大木2a
黒浜大木2b
諸磯a大木3
諸磯b大木4
諸磯c大木5
十三菩提大木6
中期五領ケ台・下小野大木7a
阿玉台Ⅰ・勝坂Ⅰ
阿玉台Ⅱ・勝坂Ⅱ大木7b
阿玉台Ⅲ・勝坂Ⅲ
加曽利EⅠ大木8a
加曽利EⅡ大木8b
加曽利EⅢ大木9
大木10
後期称名寺
堀之内Ⅰ
堀之内Ⅱ南境
加曽利BⅠ
加曽利BⅡ室ケ峰
加曽利BⅢ
曽谷
安行Ⅰ(新地)
安行Ⅱ金剛寺
晩期安行Ⅲa大嗣B
安行Ⅲb大洞B―C
安行ⅢC大洞C1
杉田Ⅱ大洞C2
千綱大洞A
大洞A′

 数千年間続いた繩文時代は、土器の型式区分などによって、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六時期に大別されている。これらの各時期は、さらにいくつかの土器型式に細分されている。
 ここに示した編年表は塙静夫(作新学院教諭)が『日本原始美術I』を参考にして作成したものを掲載した。この表について塙は「関東地方の編年表は南関東を中心としたものである。繩文土器の編年は早くから南関東を中心にすすめられ、これが各時期の型式名をうみ、関東地方の土器の編年として固定化した。とくに、北関東における繩文時代の研究がはなはだ遅れていたために、南関東の土器の型式細分が関東全域に用いられるようになり、いまだにこれを踏襲し、北関東中心の型式名をうむまでにいたっていない。また、繩文土器に地域的なちがいがあるとはいえ、そこには共通した要素が認められるために、南関東の編年を大きく改変する必要がないことも事実である。なお、東北南部の編年表を併記したが、本県は東北地方と隣接しているために、東北地方の土器文化の影響もみられ、とくに、繩文時代中期以降、これが顕著であるからである」と述べている。
 確かに、湯津上村内から発見されている土器は、南関東的な要素と東北南部の要素がみられるので、両地方の文化影響をうけていることが認められる。次に、本村内に分布している繩文時代の遺跡について、『栃木県遺跡地図』(栃木県教育委員会刊)を参考にして表示してみよう。(註)備考の番号は県遺跡通番号である。
遺跡名所在地立地・現状時期備考
岩船台湯津上・岩船台段丘・台地中・後・晩期535村指定史跡
萱場蛭畑・萱場丘麓・山林 水田時期不明1685
新宿A新宿段丘・水田 畑前期1686
大清水蛭田・品川山麓・畑中期1687
上野原湯津上・下河原段丘・畑中期1688
大林湯津上・西ノ根丘麓・畑中期1689
品川A蛭田・品川丘麓・畑中期1690
上ノ台湯津上・西ノ根丘麓・畑 宅地中期1691
刈又蛭畑・刈又段丘・畑後期1692
新宿B新宿丘麓・畑後期1693
新宿C新宿丘麓・畑 水田後期1694
佐良土A佐良土段丘・畑後期1695
佐良土B佐良土沖積地・畑後期1696
星の宮佐良土・星の宮沖積地・畑 宅地時期不明1697
品川B蛭田・品川丘麓時期不明1698
銀内佐良土・銀内段丘・畑 宅地前期2738
蛭田蛭田段丘・宅地時期不明2748
新宿D新宿段丘・畑2751
新宿E新宿丘陵・畑前・中期2752
新宿F新宿段丘・畑時期不明2753
田尻湯津上・田尻段丘・畑・水 田・宅地2756

 本村内の繩文時代の遺跡は、これによると二〇余箇所あることになるが、地形上の観察からみると、実数はこの数よりはるかに多い遺跡が分布していることは確かであり、今後の精査によっては、五〇箇所以上の数に達するであろう。次に主な遺跡について略述してみたい。