関東 | 東北南部 | |
草創期 | 大谷寺Ⅰ | 日向 |
大谷寺Ⅱ | 一の沢Ⅰ | |
大谷寺Ⅲ | 一の沢Ⅱ | |
井草(大丸) | 一の沢Ⅲ | |
夏島 | ||
稲荷台 | ||
花輪台Ⅰ | ||
早期 | 花輪台Ⅱ | |
三戸 | ||
田戸下層 | ||
田戸上層 | ||
子母口 | 大寺・常世 | |
野島 | ||
鵜ケ島台 | ||
茅山下層 | 素山 | |
茅山上層 | ||
前期 | 花積下層 | 室浜 |
関山 | 大木1 | |
(文蔵) | 大木2a | |
黒浜 | 大木2b | |
諸磯a | 大木3 | |
諸磯b | 大木4 | |
諸磯c | 大木5 | |
十三菩提 | 大木6 | |
中期 | 五領ケ台・下小野 | 大木7a |
阿玉台Ⅰ・勝坂Ⅰ | ||
阿玉台Ⅱ・勝坂Ⅱ | 大木7b | |
阿玉台Ⅲ・勝坂Ⅲ | ||
加曽利EⅠ | 大木8a | |
加曽利EⅡ | 大木8b | |
加曽利EⅢ | 大木9 | |
大木10 | ||
後期 | 称名寺 | |
堀之内Ⅰ | ||
堀之内Ⅱ | 南境 | |
加曽利BⅠ | ||
加曽利BⅡ | 室ケ峰 | |
加曽利BⅢ | ||
曽谷 | ||
安行Ⅰ | (新地) | |
安行Ⅱ | 金剛寺 | |
晩期 | 安行Ⅲa | 大嗣B |
安行Ⅲb | 大洞B―C | |
安行ⅢC | 大洞C1 | |
杉田Ⅱ | 大洞C2 | |
千綱 | 大洞A | |
大洞A′ |
数千年間続いた繩文時代は、土器の型式区分などによって、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六時期に大別されている。これらの各時期は、さらにいくつかの土器型式に細分されている。
ここに示した編年表は塙静夫(作新学院教諭)が『日本原始美術I』を参考にして作成したものを掲載した。この表について塙は「関東地方の編年表は南関東を中心としたものである。繩文土器の編年は早くから南関東を中心にすすめられ、これが各時期の型式名をうみ、関東地方の土器の編年として固定化した。とくに、北関東における繩文時代の研究がはなはだ遅れていたために、南関東の土器の型式細分が関東全域に用いられるようになり、いまだにこれを踏襲し、北関東中心の型式名をうむまでにいたっていない。また、繩文土器に地域的なちがいがあるとはいえ、そこには共通した要素が認められるために、南関東の編年を大きく改変する必要がないことも事実である。なお、東北南部の編年表を併記したが、本県は東北地方と隣接しているために、東北地方の土器文化の影響もみられ、とくに、繩文時代中期以降、これが顕著であるからである」と述べている。
確かに、湯津上村内から発見されている土器は、南関東的な要素と東北南部の要素がみられるので、両地方の文化影響をうけていることが認められる。次に、本村内に分布している繩文時代の遺跡について、『栃木県遺跡地図』(栃木県教育委員会刊)を参考にして表示してみよう。(註)備考の番号は県遺跡通番号である。
遺跡名 | 所在地 | 立地・現状 | 時期 | 備考 |
岩船台 | 湯津上・岩船台 | 段丘・台地 | 中・後・晩期 | 535村指定史跡 |
萱場 | 蛭畑・萱場 | 丘麓・山林 水田 | 時期不明 | 1685 |
新宿A | 新宿 | 段丘・水田 畑 | 前期 | 1686 |
大清水 | 蛭田・品川 | 山麓・畑 | 中期 | 1687 |
上野原 | 湯津上・下河原 | 段丘・畑 | 中期 | 1688 |
大林 | 湯津上・西ノ根 | 丘麓・畑 | 中期 | 1689 |
品川A | 蛭田・品川 | 丘麓・畑 | 中期 | 1690 |
上ノ台 | 湯津上・西ノ根 | 丘麓・畑 宅地 | 中期 | 1691 |
刈又 | 蛭畑・刈又 | 段丘・畑 | 後期 | 1692 |
新宿B | 新宿 | 丘麓・畑 | 後期 | 1693 |
新宿C | 新宿 | 丘麓・畑 水田 | 後期 | 1694 |
佐良土A | 佐良土 | 段丘・畑 | 後期 | 1695 |
佐良土B | 佐良土 | 沖積地・畑 | 後期 | 1696 |
星の宮 | 佐良土・星の宮 | 沖積地・畑 宅地 | 時期不明 | 1697 |
品川B | 蛭田・品川 | 丘麓 | 時期不明 | 1698 |
銀内 | 佐良土・銀内 | 段丘・畑 宅地 | 前期 | 2738 |
蛭田 | 蛭田 | 段丘・宅地 | 時期不明 | 2748 |
新宿D | 新宿 | 段丘・畑 | 〃 | 2751 |
新宿E | 新宿 | 丘陵・畑 | 前・中期 | 2752 |
新宿F | 新宿 | 段丘・畑 | 時期不明 | 2753 |
田尻 | 湯津上・田尻 | 段丘・畑・水 田・宅地 | 〃 | 2756 |
本村内の繩文時代の遺跡は、これによると二〇余箇所あることになるが、地形上の観察からみると、実数はこの数よりはるかに多い遺跡が分布していることは確かであり、今後の精査によっては、五〇箇所以上の数に達するであろう。次に主な遺跡について略述してみたい。