岩船台遺跡

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村指定史跡である岩船台(いわふねだい)遺跡は、那珂川右岸の段丘上に立地し、湯津上小学校の敷地と、これに南接する地域一帯にひろがる大集落跡である。大正十二年に県道改修工事がなされたときには、多数の土器や石器類が出土し、これらの遺物は小学校に保管されていたが、校舎の火災によって、その大部分は失われてしまった。その後、小学校敷地の拡張工事や、付近の畑耕作などによって出土した遺物の一部は、小学校や公民館、あるいは個人が所蔵しているので、これらの資料によって岩船台遺跡の時期や性格を知ることができる。
 この遺跡から出土した石器類には、石鏃(せきぞく)・石匙(せつび)・打製石斧・磨製石斧・磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)・凹石・石皿・石錘・石棒・独鈷石(どっこいし)などがあり、その種類は多種である(第2図・第3図)。打製石斧には、揆(ばち)形のものと分銅形のものとが出土しているが、後者が圧倒的に多い。狩猟具としての石鏃は有柄と無柄のものとがあり(第4図)、とくに目立つのは石皿が多いことである(第5図)。これは磨石や敲石などによって、木の実などをくだいたり磨ったりするときに使用された石器である。また、石棒のなかには精巧なものが出土しており注目される。土器は繩文時代中期のものが主体であるが、後期・晩期のものも出土している(第6図・第7図)。

第2図 岩船台遺跡出土の石器


第3図 岩船台遺跡出土の石器


第4図 岩船台遺跡出土の石器


第5図 岩船台遺跡出土の石器


第6図 岩船台遺跡出土の土器


第7図 岩船台遺跡出土の土器

 土器や石器類などから判断すると、この遺跡は繩文時代中期が最盛期であり、土器型式からみると、若干の阿玉台式のほかは大部分が加曽利(かそり)E式(I式~Ⅲ式)であり、とくに加曽利EI式が主体である。このほかに、後期や晩期の土器も出土しているので、中期以降晩期前半までここに集落が形成されていたことがわかる。独鈷石や精巧な石棒は晩期の石器であろう。石棒は長い棒状の磨製石器であるが、精巧なものは亀頭部に彫刻されている。その形状は男根に類似している。独鈷石はその形態が仏具の独鈷に似ているため付された名称であるが、石棒と同じように非実用的な石器であり、晩期に所属するものと思われるが、その用途は不明であり、祭祀的要素の強いものといえそうである。
 岩船台遺跡は学術的な発掘調査はなされていないが、これまでに発見された土器・石器・装身具などからみて、屈指の繩文時代遺跡として後世まで保存したい遺跡の一つである。