ここで、東京国立博物館に所蔵されている湯津上村出土と伝えられている硬玉製(こうぎょくせい)の有孔玉斧(ゆうこうぎょくふ)(重要文化財)について触れなければならない。この遺物が出土した遺跡名は笠石神社付近とか、岩船台ともいわれ、正確な記録は残っていなかった。ただ最近某氏の追憶談により考察するに、「坊の内」付近から発見されたというのが有力のように思われる。
硬玉製大珠(たいしゅ)は、鰹節型と緒締型のものが一般的な型であるが、本村出土のもののように定角式玉斧はきわめて稀である。まさに珍品といえるものである。
これまでのところ、硬玉製大珠は栃木県内で発見された約八割が、この那珂川とその支流域の遺跡から出土している。たとえば、本村以外では大田原市長者平、同市湯坂、馬頭町岡平、同町馬頭高校敷地内の遺跡などから出土し、いずれも繩文時代中期の遺跡である。馬頭高校敷地内からは三個発見されている。
昭和十五年に新潟県糸魚川市の姫川(ひめかわ)流域で硬玉原石が発見されてから、国内に産することが明らかになり、ほかの地域にも、その原石の産地があるのではないかといった機運がおこった。本県の場合、那須郡地方に多く発見されているため、那珂川左岸の八溝山塊中に硬玉原石の産地を仮定するむきもある。これに対して、江坂輝弥(慶大教授)は、八溝山塊中に原産地を求めることは早計であるとしている。その理由として、真直な穿孔(せんこう)をなし、あれだけ整形された鰹節型大珠を、硬度のあるほかの硬玉で製作することは容易な業ではない。これを作るには、かなり専業的に大珠など玉類を製作するのであるから、そのような遺跡からは多くの原石と玉砥石(といし)のような製造工具が発見されなければならない。したがって、硬玉製大珠の分布状態が稠密だからとのことで、原石産地を付近に求めることは早計であろうと述べている(江坂「所謂硬玉製大珠について」『銅鐸』所収)。
しかし、県内から発見された約八割が、本村・大田原・馬頭付近に集中していることは、大変重要なことである。つまり、八溝山塊中に原石の産地を求めることが不可能であるとすれば、かなり遠方の地から製作された製品を求めてきたのであろう。その場合、湯津上・馬頭・大田原などに住む繩文時代人が共同で遠隔地から求めてきたのか、あるいは、ある集落の繩文時代人が沢山手に入れて、これを付近の集落の人びとに分配したかのいずれかであろう。入手する際には、おそらく物々交換という手段によったことはいうまでもない。繩文時代人の交易は、現代人が想像する以上の遠隔地との取りひきがあったことは事実である。
黒曜石や塩を手に入れるために、かなり遠方まで足を運んでいるのである。