繩文時代の食生活

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繩文時代に土器が製作されたことは、食生活に大きな変革をもたらした。それは、土器を使って食物を煮(に)る方法が現われたからである。生では食べることのできなかったものは、旧石器時代には焼いて食べたろうが、煮ることによって新たな食生活が展開した。また、岩船台や片府田富士山などから発見されている石皿や磨石(すりいし)は、植物の根や種子をつぶして粉にしたりするための石器であり、生でも、焼いても、煮(に)ても、かたい繊維が多くとても食べられそうもないものから、石皿・磨石を利用すれば澱粉をとることは容易である。この時代は、シカやイノシシが豊富に生息していたので、狩猟が盛んであった。いっぽう本村は那珂川が近くに流れているため、漁撈も盛んであったから、岩船台遺跡から網漁に使用した石錘(せきすい)が出土している。とくに、漁撈は夏がもっとも適していた。魚は食べてしまうだけでなく、干物として貯蔵されることも多かったはずである。秋口に那珂川をのぼってくるサケ・マスなどの多くは干物や薫製として貯えられたにちがいない。
 秋には、多くの植物が種子をみのらせ、球根や根には多くの澱粉が貯えられた。繩文時代人はこれらを見逃すはずがない。クリやトチ、クルミ、ドングリにいたるまで木の実を拾い集め、これを袋状土壙に貯蔵し、冬の生活に備えた。品川台遺跡などで発見された袋状土壙は、まさに、これら秋の収穫物を貯蔵するための遺構(いこう)なのである。冬には狩猟がなされたが、漁撈はほとんどなされなかった。春から初夏にかけては、多くの植物が芽ぶく時期であるから、この時期には、植物の芽や葉、茎などが食用とされたことであろう。
 本村は那珂川や箒川という河川とその段丘、山間地域という自然環境であったから、繩文時代人にとっては生活しやすい条件を備えていた。このため食糧を求めることは容易であったと思われる。