第三節 弥生時代

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 数千年間続いた繩文時代の次に、弥生時代が位置づけられる。繩文時代から弥生時代への移行は紀元前三~二世紀ごろといわれている。この新しい弥生文化は、これまでの繩文文化を基盤として、大陸文化の影響をうけて西日本の北九州地方に発生し、紀元前後のころ東日本の本県地方に波及してきた。
 弥生時代は前期・中期・後期の三時期に大別されるが、本県など、東日本には前期文化はなく、中期と後期文化が存在するのみである。これは、西日本から東日本への弥生文化の伝播(でんぱ)時期が遅れたことを示すものである。弥生時代は繩文時代にくらべるときわめて短時期であり、紀元後三〇〇年ころには終わりをつげる。したがって、弥生時代の存続は約五~六〇〇年間位であり、本県のごときは、およそ四〇〇年余ということになる。
 弥生文化の特色は、水稲耕作の開始と金属器(青銅器・鉄器)の使用ということであるから、繩文時代の石器を主に使った文化とは大きなちがいがある。もちろん、水稲耕作が開始されたとはいっても、これまでの狩猟・漁撈や植物採取の生活をやめたわけではない。また、金属器が製作・使用されても石器は使われていた。この傾向は東日本に顕著であり、この時代の弥生土器の文様にも前時代的な様相が強くみられる。つまり、弥生土器でありながら繩文が器面全体に施されているのである。
 湯津上村内には、弥生時代の遺跡が新宿地内にある(県遺跡通番号一六八六)。本書で新宿A遺跡とよんでいるものである。この遺跡は繩文時代の遺跡と重複している。この遺跡は弥生時代の後期に位置づけられるものであり、茨城県地方に分布している十王台式(じゅうおうだいしき)(茨城県十王台遺跡出土土器標式)に似た文様の土器が出土している。この土器は宇都宮付近にみられる二軒屋式(にけんやしき)(宇都宮市二軒屋遺跡出土土器標式)にも似ている。十王台式とか、二軒屋式とよばれる弥生土器は、紀元後二〇〇年代のものである。このころになると、弥生文化も本県内に根をはり、かなり積極的に農耕文化を展開するようになる。これまでのところ、本村内には弥生時代の遺跡は新宿地内で発見されているのみであるが、今後の精査では少なくとも三~四箇所の遺跡が確認されるであろう。とくに、本県内に伝播したころの、紀元前後の弥生時代中期遺跡は発見されていないが、この中期遺跡は山間地域の那須・塩谷両郡などに比較的多いということが報告されているので(塙静夫「弥生時代」『栃木県史』資料編)、これからの調査によっては発見される可能性が十分にあるといえる。確かに、本村周辺地域では、馬頭町古館、烏山町八が平、那須町上田の諸遺跡をはじめ、黒羽町内にも分布しているので、中期遺跡の発見は当然考えられることである。
 本県の弥生土器の編年学的研究は、主に塙静夫によって進められている。この研究成果によれば、次のような編年表が作成されている。
地域北関東東部
時期栃木茨城
波及期茂呂川西(鹿沼)女方Ⅰ
上仙波(葛生)女方Ⅱ
中期野沢Ⅰ・出流原女方Ⅲ
野沢Ⅱ
中小代足洗Ⅰ・Ⅱ
岩崎
(+)
後期(+)磐船山Ⅰ(東中根・長岡)
磐船山Ⅱ
二軒屋十王台
(+)(+)
(注)(+)は型式名が付されていないものと,目下検討中の資料であるものが含まれる。(昭和48年11月30日現在)
   塙「栃木県における弥生土器の編年試論」『栃木県史研究』7による。

 この編年表はその後の研究によって若干補筆訂正されているようであるが、ここでは文献にある最新のものを転載し参考に供したい。
 この表によると、二軒屋式と十王台式の土器は、時間的には並行するものであるが、土器の文様にわずかばかりの相違がある。十王台式土器の櫛目(くしめ)文様は、二軒屋式土器に比較して細かい文様がみられる。
 二軒屋式土器は、宇都宮の以南と鬼怒川以東に濃密な分布を示している。その主な地域は宇都宮を含む、河内郡・芳賀郡・下都賀郡地方などである。これに対して、時期的には並行関係にある十王台式土器は、那珂川中流域の小川町から湯津上村にかけた地域に分布している。この異なった二つの土器文化のあり方は、後期弥生文化の伝播経路を知る上に大変重要なことである。宇都宮付近に分布する二軒屋式土器は、おそらく、群馬県地方から伝わったものであろうが、那珂川中流域に分布する十王台式土器に似たものは、茨城県地方から那珂川を北上し伝播したものと思われる。ここに、県中央部以南の弥生文化とは異質の文化が形成されたわけである。
 本村はもとより栃木県全体からみても、弥生時代の遺跡は非常に少ない。その理由は、時間的に繩文時代にくらべて短かったことと、稲の品種改良がなされていないために、冷涼な気温の地方には水稲耕作は不適であったからである。那珂川中流域の本村地方に農耕が普及するのは古墳時代に入ってからである。
 今後、本村内から数箇所の弥生時代の遺跡が発見されたとしても、その規模は小さいものであり、前時代の繩文文化の伝統を強く残したものといえる。それは、これまでに栃木県内から発見された遺跡によって十分に理解できる。さきにも触れたように、弥生時代ではあっても、狩猟・漁撈や植物採取の生活が主体であり、農耕文化はきわめて幼稚なものであり、土器の文様には繩文を施したものがみられ、そこには、繩文時代とあまり異ならない文化を観取することができるであろう。