第16図 下侍塚8号墳測量図
『栃木県埋蔵文化財調査報告書』第21集より
八号墳は那珂川右岸より西に約二〇〇メートルの河岸段丘上にあって、微地形では南北に走る第二段丘の東崖線端、下侍塚古墳の東北東約五〇メートルのところに位置する。八基の古墳の中では、もっとも下侍塚古墳に近い位置にある。この古墳は県教委文化課(橋本澄朗担当)によって、昭和五十二年十一月から十二月にかけて、周湟(しゅうこう)の確認と、古墳の範囲を知るための調査が行われた。その調査結果について、橋本は次のように述べている(『栃木県埋蔵文化財調査報告書』第二一集)。
古墳の周囲は現在水田・畑である。このため墳丘裾部はかなりの破壊をうけており、墳丘北には盗掘の痕跡もみられる。墳丘南は実測図でも明らかなように、ひどい崩れがみられる。しかし、段丘崖線に沿って構築されている墳丘東は、ほぼ、原形を保っているといえる。全体的には予想以上に原形が保たれており、墳丘北東隅では稜(りょう)が明瞭にみられ、これまで八号墳は円墳とされていたが、方墳としての形状を想定することができる。現存する墳丘では、東西長さ一三メートルで、墳丘北の水田面からの比高は約二・三メートルである。
本墳の周湟確認のために六箇所にトレンチが設定された。第一トレンチは墳丘の西側に設けられた。墳丘裾より二メートルのところで、表土層下二〇センチで、上端幅三メートル、深さ六〇センチを示す比較的整然とした周湟が検出された。第二トレンチでも、表土層下二〇センチで、上端幅三・五メートル、深さ七〇センチの周湟が認められた。しかし、第三トレンチでは周湟を確認できなかったので、第四トレンチを第三トレンチの北側に設けて調査したところ、周湟の一部が認められた。第五トレンチは墳丘南に設けたが、この結果、上端幅四・二メートル、表土層下一・五メートルを測る周湟が検出された。そして、周湟内側は急に立ちあがるのに対して、外側は比較的緩やかなカーブで立ちあがっていることがわかった。しかも、断面図に示した第五層の下部からは土師器の器台片が発見された。第六トレンチは墳丘北に設定し、調査をすすめたところ、ここでも周湟が存在することがわかった。なお発見された器台(きだい)片は脚部(きゃくぶ)の一部と器受部(きうけぶ)がわずかに残るものであるが、脚部には六個の円孔がみられる(第17図)。
第17図 『栃木県埋蔵文化財調査報告』第21集より
以上のことによって、墳丘の遺存状態や周湟のあり方を考えたとき、この八号墳は方墳としての可能性がきわめて大きく、それは、一辺一七メートルのものであり、出土した器台片から想定し、築造された時期は五世紀前半に位置づけられる。この古墳が方墳であり、五世紀前半のものとすれば、下侍塚古墳(前方後方墳)とも考え合わせ、大変重要なものといえる。那珂川沿岸には小川町に富士山古墳(県指定史跡)とよばれる方墳があるが、本村にも方墳が存在することになり、那須の古代文化は一層面白くなってきたといえるだろう。
なお、下侍塚一号墳とよばれている前方後円墳に、前方部が一部破壊されているが、この古墳は、埴輪(はにわ)が伴うようである(第18図)。ここから出土した円筒埴輪に現在笠石神社に所蔵されている。二号墳から七号墳までの円墳と推定されているものも(第19図~第21図)、八号墳が方墳であることを考えたとき、もう一度、墳丘の測量や周湟調査を行い、その築造時期や墳形について再吟味の要がありそうである。
第18図 下侍塚1号墳出土の埴輪
第19図 下侍塚1号墳(上)・2号墳(中)・3号墳(下)
第20図 下侍塚4号墳(上)・5号墳(中)・6号墳(下)
第21図 下侍塚7号墳(上)・8号墳(下)