二ツ室塚古墳

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小船渡地内にある前方後円墳で、かつて、小船渡一号墳とよんでいたものである。近年これは二ツ室塚古墳とよばれるようになった。発掘調査の結果、横穴式石室が二つ検出されたために墳名がかわったのである。この古墳は昭和四十九年八月から九月にかけて、県教委県史編纂(さん)室によって調査された。いま、ここに辰巳四郎(宇大名誉教授)らの調査報文の概要を記してみよう(『二ツ室塚発掘調査概報』)。
 二ツ室塚古墳は(第22図)、小船渡にある湯津上古墳群の支群である小船渡古墳群の一基である。那珂川右岸に位置し、標高約一六〇メートル、杉林に覆われた舌状形をなす河岸段丘上に立地する。下位の段丘面からの比高は約六メートルである。下位の段丘面にはかつて数基の円墳があったというが、開田工事によってこれらは湮滅し、いまでは本墳より北東約六〇〇メートルのところに小円墳一基が残っているのみである。しかも、この円墳は、破壊がひどく、河原石を使った小口積みの側壁と天井石の一部が露出している状態である。

第22図 『二ツ室塚発掘調査概報』による

 ところで、二ツ室塚古墳は前方部を西北西に向けているもので、後円部は截頭円錐形(せっとうえんすいけい)をなし、前方部は前面にほぼ平行にのびている(第23図)。この古墳はところどころに原形を変えた痕跡がみられる。つまり、前方部南側から前面にかけて農道によって切られている。このため、本墳の形状をみると、特異な前方後円墳のように観察されがちである。この古墳の特徴は、後円部が前方部より高いことと、前方部裾が開かず、等高線がほぼ直線になって前面にのびていることである。また、くびれ部はほとんど認められないといってもよいほど、だれた状態である。したがって、柄鏡(えかがみ)状の前方後円墳とも思われるが、一般的なそれと比較してみると、前方部の幅が大きいのでこれにあてはめることはできない。

第23図 二ツ室塚古墳全景と石室

 後円部には葺石(ふきいし)が存在するが、前方部には認められない。後円部の葺石は整然としたものではなく、しかも後円部全体に葺石したものでもない。
また、前方部と後円部とのくびれ部分にも葺石は認められない。
 二ツ室塚古墳の全長は約四六・五メートルであるから、栃木県内に分布する前方後円墳の大きさから考えると中型のものといえる。後円部の復原径は約二二メートル、前方部の復原幅は約一六メートルであり、くびれ幅は前方部幅とほぼ同じである。後円部の平坦面はほぼ楕円形を示し、長軸九・五メートル、短軸七・二メートルである。また、原地表面からみると、後円部高さは四・五メートル、前方部高さは二・二メートルで、後円部の方が二・三メートル高い数値を示している。くびれ部の高さは一・八メートルを測る。なお、前方部前面裾は標高一五九メートル、後円部後方裾は同一五八・三メートルであるので、前方部先端の方が後円部のそれより〇・七メートル高いことになる。
 発掘調査の結果、前方部と後円部の双方から横穴式(よこあなしき)石室が発見された。石室が二つ存在することは類例が非常に少ない。
 後円部にみられる横穴式石室は、後円部中心の直下に奥壁をおき、南南西に開口する袖無型(そでなしがた)石室である(第24図)。石室の底面は、墳丘裾より約一メートル高いところに位置し、水平に設けられ、石室は狭長な形を呈している。石室の東壁と西壁には、ともに壁石が落ちた部分があり、玄室(げんしつ)内は落石で充満していた。とくに、西壁の崩れはひどく、その大部分が崩落していた。また、この石室はすでに盗掘されており、その痕跡が認められる。

第24図 後円部石室実測図及び遺物出土状態
(1鉄鏃)
『二ツ室塚発掘調査概報』による

 この石室の平面形は羽子板(はごいた)状を呈するが、奥壁と側壁との間にはもう一つの面があって、奥壁周辺は台形状を呈している。玄室と羨道(せんどう)との間には間仕切石がおかれている。石室内の底面は、扁平な河原石をみごとに敷きならべ、その表面には約五センチほどの厚さをもって小砂利が覆っている。奥壁は一枚石を立て、その両側には河原石を小口積みにしている。両側壁は河原石で持ち送り、小口積みに築いているが、両側壁とも奥壁に接する部分の基底部には、大きな砂岩の割石一枚を据えおいている。また、両側壁の幅は羨門(せんもん)に近づくにつれて狭くなっている。天井石は七枚の巨石で、奥壁より羨門にむかって三枚の山石、一枚の砂岩、三枚の河原石が使用されている。奥壁より三枚の石は原位置にあったが他の四枚は石室内に転落していた。
 この石室は、全長七・一三メートルであるが、羨道部の前面が消失しているので、構築時には推定約八・五メートル位あったようである。玄室の長さは約六メートルで、その底面幅は間仕切石(まじきりいし)のところで〇・九五メートル、中央部で一・二五メートル、奥壁よりで一・六二メートルとなっている。羨道の長さは、現存部で一・一三メートルであるが、消失部分をふくめると推定約二・五メートルである。羨道部幅は現存する先端部で〇・八八メートルである。
 この横穴式石室は、さきにも触れたように、盗掘にあっているので、出土遺物はきわめて少なく、わずかに鉄鏃(てつぞく)が検出されたのみである。鉄鏃は尖根(とがりね)式のものと思われる。
 前方部から発見されたもう一つの横穴式石室は、前方部の墳頂部直下あたりに奥壁をおき、南南西に開口しており、後円部の石室と同じように袖無型石室である(第25図)。石室の底面は墳丘裾とほぼ同じ位置にある。石室のうち、玄室の部分はほぼ原形を保っているが、玄室前面の側壁上面の壁石は崩落していた。玄室は側壁がわずかに外方に張り出し、いわゆる胴張(どうば)りの形状を示している。玄室の底面には扁平な河原石を敷きならべ、後円部の石室と同様に、その上面には約五センチの厚さに小砂利が覆っている。また、玄室と羨道との境には間仕切石がおかれている。両側壁は河原石を持ち送り小口積みであるが、石と石との間には、小石をつめて小口積みの安定をはかっている。奥壁は二枚の石を重ね、その上に、さらに二個の長大な河原石を重ねている。

第25図 前方部石室実測図及び遺物出土状態床面上出土遺物

 天井石は五枚の石を使用し、先端部の一枚は崩落していたが、他の四枚の石は原位置にあった。この石室の羨道部は明らかにすることができなかったが、玄室の長さは約四・八メートル、その幅は、奥壁寄りのところで一・四二メートル、奥壁の位置で〇・九メートル、間仕切石のところで約一・〇五メートルである。
 この前方部に構築された石室は、道路によって羨道部が切断されている。玄室内から出土した遺物には、次のようなものがある。つまり、奥壁寄りの玄室中央部からは内反刀(うちぞりがたな)が検出された。これは、刀身(とうしん)の先端をわずかに欠失しているが、全長約八五・五センチ、刀身長は六九・七センチで、その断面は二等辺三角形を呈している。直刀は奥壁寄りの東壁下で発見された。現存する長さは六七・九センチ、刀身長は五八・三センチで、その断面は二等辺三角形である。もう一口の直刀は玄室のほぼ中央の東壁下で発見された。これは、刀身の先端をわずかに欠失しているが、鍔が残存し、茎部には目釘穴(めくぎあな)が二個認められ、それぞれに鉄製の目釘を挿入している。この直刀は全長が七三・一センチ、刀身長は六三・七センチで、その断面は二等辺三角形である。このほか、刀子(とうす)・柄(とも)・鍔(つば)・鉄鏃・留金(とめがね)具・鉄環(てっかん)・脛巾(なかご)・鞘尾(さやじり)金具などが出土している(第26図)。

第26図 前方部石室遺物出土状況平面図

 二ツ室塚古墳とは、前方部と後円部の双方から横穴式石室が発見されたために付された古墳名であるが、これは、これまで大金宣亮(県教委文化課)らが小船渡一号墳とよんでいたものである。この古墳の築造年代については、後期古墳として位置づけられている。そして、具体的年代については、後円部の石室は六世紀後半に、前方部のそれは六世紀末から七世紀初頭ころに設けられたものとされている。
 二つの石室に年代的差を認めたことについて、調査担当者たちは、はじめ円墳として築造し、ある時間的経過をもって円墳に前方部を付加して前方後円墳としたと考えている。このことは、円墳と方墳との組み合わせによって前方後円墳が築造されたとも解されるので、一考する問題があるようにも思われる。