徳川光圀と上・下侍塚古墳の発掘

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湯津上地内の上侍塚・下侍塚の両古墳が、元禄五年(一六九二)に徳川光圀によって発掘されたことは、日本の考古学史上に残る古墳発掘の先駆として著名である。しかも、調査後出土品を埋めもどし、墳丘を修理し保護の策を講じたことは文化財保護の最たるものであり、現在ですら、これに優る策はない。
 光圀が発掘を試みた理由は、近くで那須国造碑(なすこくぞうひ)が発見されたことによる。これらの経緯について斎藤忠(大正大教授)の「古墳発掘の先駆」(『日本の発掘』所収)と『栃木県史』(史料編古代)所収の文書類を参考にし、以下、その概要を記すことにする。
 延宝四年(一六七六)四月、奥州磐城(いわき)の僧円順(えんじゅん)が湯津上地方を訪れ、石碑のあることに気づき、梅平村(馬頭町梅平)住の大金重貞(しげさだ)にこの旨を伝えた。重貞はこの碑を調べ、那須国造碑であることがわかると『那須記』の中にこれを記した。天和三年(一六八三)六月七日、徳川光圀が那須郡内をまわり馬頭村に宿泊していたので、大金重貞は光圀の宿にいき、侍臣(じしん)を通じて『那須記』をみせた。光圀はこれによって碑の存在を知り、これを判読して那須国造なるものの存在を明らかにした。しかし、碑文中の那須直韋提(いて)の判読には疑問があった。儒臣佐々宗淳(ささそうじゅん)(光圀の近侍)らはこれを那須宣事提と読解し官名となした。光圀も同じ見解であったろう。このため、その名を明らかにするためにも、傍証資料を他に求める必要があった。それは石碑の近くに存する上侍塚(上車塚)・下侍塚(下車塚)といわれていた二基の古墳に注目し、これらの古墳のどれかが那須国造の墓ではないかと考えた。
 那須国造碑の保存工事がすすんでいた元禄四年(一六九一)には発掘の計画があったが、同年十二月覆堂が竣工した後、翌元禄五年正月三日に、その計画が佐々宗淳から大金重貞に寄せられた。『大金重徳家所蔵文書』に次のような書状がある。
一くるまづかほり申候事も所之者共へ少々内意可被申聞候、石碑ノ下ニ何も書付申たるもの無之候、もしくるまづか本のつかニ而碑ばかり湯津上へうつし候やと被存候、左候ヘハくるまづかほりて見申度候、尤(もつとも)もとのことくニつき候而かへし可申候、少も所のやくかいニかけ申まじき由可被申候、是も所之者共同心申候ハヽ、其上ニ而御代官へ断可申候間、其様子くハしく可被申越候、但くるまづかハ湯津上内ニ而無之候哉。(後略)

 この史料によってわかるように、車塚を発掘したい旨を伝え、たとえ発掘しても、もとのようにして少しも迷惑をかけないことを述べている。そして調査は二月に実施された。
 元禄五年二月十三日、佐々宗淳は上車塚・下車塚の前で、墓の霊に対して謹んで告辞をなした。発掘開始の儀式である。告辞の文は次のようなものである(原漢文)。
元禄五年歳は壬申に在り。春二月辛巳の朔、越えて十三日癸巳。前権中納言従三位源朝臣光圀、儒臣佐々宗淳に命じて謹んで清酌庶羞の奠を以て、敢えて昭(あき)らかに湯津上村の墓中の霊に告ぐ。曰く、惟みるに霊世を謝して幾百年、墳墓荒廃して狐兎窟を為す。姓名を知らず。故を以て今塋域を鑿開せんとす。若し誌石有りて其の姓名を勒すれば、則ち新たに碑を建て以て不朽に伝えん。或いは誌石なくんば謹んで封を加え、樹えてすべてその蔵する所まさに旧に仍るべし。伏して願くは昭鑑せられよ。

 二月十六日には人夫を使って下侍塚古墳の発掘に着手したようであるが、二月二十一日付の佐々宗淳から大金重貞にあてた書状によると、いよいよ下侍塚古墳にとりかかったことが記されている。
一下之塚五尺程御ほらせ候由、とかく地ぎは迄御ほり付可被成候、地ぎは迄掘不申候而ハ残念ニ存候、明日ハ何とそ参候而可申承候。

 これによると、二月二十一日以前に上車塚の発掘は終了していたようである。また、実際の発掘にあたったのは大金重貞のようで、佐々宗淳は光圀の意をうけて書状で指示し、時折、現場を訪れたようである。
 ところで、上車塚の発掘については、
右ノ塚五尺余掘申候所ニ矢ノ根石拾八本(但シ壱寸一分、広サ四分、鳥ノ舌也)、甲鎧破五ツ、其下ヲ掘候所ニ、先へな土ニテヌリ、其内ヲ黒土也、漆ノねり土也、其内ニ朱少々有リ、其土ノ外ニセとモノ壱寸ノクタ有、又やきものニテ虎ノ嶋ノ如ニテ、高サ七分、下ノ指渡弐寸四分、上ノ指渡壱寸八分、輪ノアツサ三分、色トイロタツスチ有、横ニ帯筋有、此外ニ鉄の折有、長四寸五分壱ツ、但シ蝋如ノイホ壱寸弐分有モノ付申候、鉄折、三寸四分、廻四寸、中ニ穴長ク有、穴脇ニねコノ手ノ如成モノ付申候、指渡シ弐寸三分ノ鏡有、裏ニ絵有、糸ヲタクミユイ申候ヤウニ見へ申候、高つき壱ツ、大矢根壱本、三寸、広サ壱寸一分有、鎧板一枚、弐寸八分、横八分、此外ニ鎧破レ弐拾弐、太刀ノ折一ツ、ツカの方一ツ有。

と記している。これによると五尺余掘り下げている。これは、今でも後方部の墳頂中ほどに浅い凹地があるので、この部分を掘ったことはいうまでもない。この結果、鉄鏃・甲冑(かっちゅう)の破片が出土し、その下に「へな土」と記している。これについて斎藤忠は「へな土すなわち粘土による構造物があったようである。あるいは、これは遺骸(いがい)を収めた粘土施設でなかったろうか。朱少々あるということもこの考えを裏書きするであろう。しかも、その土のそとに、管玉・石釧(いしくしろ)があり、このほか鉄器の破片や、径二寸三分(約七センチ)の鏡や、高坏、大型の鉄鏃、鎧板(よろいいた)等があった。とにかく遺骸を収めた粘土施設を中心として、これらの副葬品があったことが知られる」と述べている。
 下侍塚古墳は、元禄五年二月十六日から発掘された。佐々宗淳は二月二十一日付の大金重貞あての書翰で、
下之塚五尺程御ほらせ候由、とかく地ぎは迄御ほり付可被成候、地ぎは迄掘不申候而ハ残念ニ存候、明日ハ何とそ参候而可申承候。

と述べている。これは上侍塚古墳の調査では、那須国造の姓名を刻んだ墓誌が発見されなかったため、下侍塚古墳の調査に期待をかけ、徹底的に解明し誌石を検出しようとする意欲を知ることができる。そして、この古墳から出土した遺物などについて、次のように記している。
此塚五尺掘申候ヘハ、五寸弐分鏡、甲破レ、鎧破レ、太刀ノ折拾五、此外ニ陣ナタノ如ナルモノ弐ツ有、ホコノやウニも見へ申候、高つき四ツ、高四寸五分おき付、三寸五分鉢の指渡八寸、塚ノ頭より五間掘入テ、四尺余ノ鉄ノスアマノ如クナル器有、其内(五尺四方)ニ漆ノねり土ノやうナルニテ積(ツメ)申候、其内ニ又鉄ノ器有、長三尺、横壱尺八寸、是ハ黒土ニテ漆ノねり土ニテ積、中ニ壱尺四方計も可有之、茶くり有、其内ニ水有、築出ノ土手横土手ヨリ花ヒン出申候、(中略)築続土手ニ高九寸、指渡シ壱尺、中ノクビレノ廻壱尺四寸五分有、其外陣なた折レヤウ成物弐ツ花ひん出ル。

 以上は上・下侍塚古墳の発掘状況であるが、国造の姓名を知る墓誌は発見されなかった。調査後、出土遺物は図工に縮図させて記録し、遺物は木箱に入れてもとのところに納め入れ、墳丘は旧に復している。この間の状況については、二月二十四日付の宗淳から大金重貞にあてた書簡に記されている。
車塚より出申候物共ノ事、西山(筆者註、光圀が退隠している西山荘のこと)へ伺申候へ者、御覧被成候ニ及不申候間、箱ニ入もとの所へ納メ申候様ニと被仰出候間、箱御申付可被成候、箱ハ板を成程あつく丈夫ニ可御申付候、箱ノふたの内ニ書付可仕候間、箱出来申候ハ、御左右可被成候。

 『元禄五年二月湯津上村車塚御修理帳』によると、上侍塚古墳より出土したものは、次の大きさの箱に納められた。
長壱尺八寸、横壱尺、高サ八寸ノ松板ノ箱ニ入、釘付ニシテ、松やにを四方へとろめかけ、墓ニうつミ申候。

 また、下侍塚古墳出土のものは、
松板ノ長壱尺、横七寸、高さ七寸箱ニ入、松やにヲとろめかけ、右塚へ三月一日ニ両所ニ納申候。

とあるので、箱の大きさと上・下侍塚古墳に納め入れた日まで明らかである。これらの箱の蓋の内がわには、徳川光圀みすがら銘文を書きつけた。ここにこの銘文(原漢文)を記しておこう。
下野那須郡湯津上村に大墓有り、何人の墓なるかを知らざるなり、其の制度たるや是れ侯伯連師の墓なり、是の歳元禄壬申の春、儒臣良峯宗淳に命じて塋域(えいいき)を啓発せしむ、若し誌石有りて其の名氏を知らば、則ち碑を建て文を勒して、不朽に伝えんと欲するなり、惜しい哉唯折れたる刀、破れたる鏡の有るのみにして銘誌有るなし、是に於いて瘞蔵(えいぞう)して旧による、新たに封を加え四周を築き、松を栽えて其の崩壊を防ぐと云う。

        前権中納(言脱か)従三位源朝臣光圀識す
 なお、出土した遺物についての記載文と図とのあいだには間違いが多いが、このことについて斎藤忠は次のように説明している。
錯誤の原因は、恐らく発掘当時、上車塚・下車塚のそれぞれの出土品を厳密に区別することをなさなかったため、これを見た図工が、図絵を描写するとき、早くも誤り写したことにあったのでないかとも考えられる。したがって、これらの資料の中で、むしろ最も信拠できるのは『車塚御修理』の記録の記事の方でなかろうか。記事はやはり大金重貞のみずからしたためただけに真実を伝えたものとみなされよう。しかし、重貞自体が、図の方の誤りを何故気付かずに、そのままに記録したかなど疑問の点もあるが、一応、このような私見を述べておきたい。なお、この考えをあらためて整理すると、次のようになる。
 上車塚出土品
鏡一(捩文鏡か)。管玉二。石釧(いしくしろ)一。鉄鏃十八。鉄鋒(てっぽう)又は鉄斧(鉄塊付着)一。鉄甲(てっこう)片。不明鉄器片。高坏一。その他。

 下車塚出土品
鏡一(盤竜鏡(ばんりゅうきょう)かだ竜鏡か)。鉄製刀身(とうしん)残欠。土師器(高坏)四。土師器(鉢か)一。その他、封土中より須恵器(有頸壺)二。

 さらに斎藤は、『車塚御修理』記録の出土品の記載に関しては、図よりも文の方が正しいとする私考に誤りがなければ、上侍塚古墳から石釧(いしくしろ)等が出土している点などから、下侍塚古墳よりは上侍塚古墳の方が編年的には古いという時間的位置づけを行っている。

第37図 上侍塚古墳の出土品
『大金重徳家所蔵文書』より


第38図 下侍塚古墳の出土品
『大金重徳家所蔵文書』より


第39図 侍塚古墳の出土品『那須記』より