下侍塚古墳の周湟調査

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昭和五十年十二月に本村教育委員会は、国県の補助をうけて、下侍塚古墳の周湟調査を実施した。この調査は三木文雄(前東京国立博物館考古課長)・大金宣亮らによって行われた。大金らが執筆した報文(『下侍塚周湟発掘調査概報』)によって、その概要を次に記しておこう。
 この古墳の周湟調査は、湯津上地区一帯にわたる土地改良事業が、下侍塚古墳が位置する地区にまで及んだためである。この地区には、下侍塚古墳をはじめ八基の古墳が分布するため、土地改良事業を進めることは様々な問題がふくまれていた。国指定史跡である本古墳は、墳丘のみが公有地であり、周湟は民有地である。
 下侍塚古墳は那珂川の段丘端から西に一七〇メートル寄ったところに位置し、前方部をほぼ南面させている。標高は一四四メートル前後で、段丘端と川の沖積地面との比高差は約一一メートル位である。墳丘の北および北西部は一・二~一・三メートルの崖によって画され、崖下は本墳の周湟の跡をとどめている。これらは、周湟築造時に自然地形を削平したものと思われ、周湟外での標高差は古墳の北西部と南東部では約二メートルであり、自然地形を加えて本墳が築造されたのであろう。
 調査は、それぞれ幅一・五メートルのトレンチを基本とし、墳丘の東側に九本、北側に二本、西側に四本、南側に四本、北西に一本の、都合二〇本を設定した。この調査によって、墳丘上面にみられる葺石(ふきいし)は、墳丘の立ちあがりにまで及んでいることがわかった。
 墳丘の範囲についてふれてみよう。東側は墳丘麓に幅三〇メートル前後のV字溝が五本のトレンチで確認され、その溝の内側端から葺石が敷かれている。北東隅では、この溝はみられないが、明確に方形コーナーの立ちあがりがみられた。北西部は現存する墳丘コーナーの外側二メートルのところに、東側で確認された溝と同じものが検出され、これが、本来の墳丘の範囲を示すものと思われる。墳形測量によっても、この部分は北東隅の張りに比較しやや弱くなっており、後世の田畑耕作によって削平されたことがわかる。墳丘北側のトレンチでも葺石が検出され、葺石の外側と葺石に混入して底部穿孔(せんこう)の壺形土器片がやや多く集中して出土した。他のトレンチでも、同じような土器片が量的には少ないが出土している。これらの土器は上部墳丘から崩落したものと思われる。
 後方部西側のトレンチでは、葺石と封土との関係をもっとも明確にすることができた。前方部南側では、周湟内側のローム層が鋭く立ちあがる一方、墳丘からみられる葺石は同様な傾斜をもって立ちあがるローム層の外側、つまり、周湟内にもおよんでいることがわかった。
 また前方部の両コーナーは、この麓を利用する形で農道と水路が設けられ、一部は水田として墳丘が削平され、とくに、水路などは長期間に何度も修復がなされ、調査によって明確な原形は検出できなかった。
 次に、周湟であるが、自然地形からも観察できるように、北および北西部は一・二~一・三メートルの比高差で、墳丘との間に低地が存在する。これは本古墳の周湟施設であることは十分に理解できる。北西のトレンチ調査によって、周湟の限界が、ほぼ現在の土手に沿うことがわかった。しかし、周湟の外形は隅丸方形となり、墳形と同じような方形とはなっていない。これと同じことは北東部でも確認されている。墳丘東側は現在の畦道に沿っているが、正確には周湟の外縁は二~三メートルほど畦の外側になっている。このあたりは、数年前に東側の農地を改田しており、この際にも土壌は移されているが、さらに長い間にあまり段差のない低い周湟内に土が流れ、その端部が畦(あぜ)道になっていたと思われる。もともとは周湟の外側を利用する形で農道があったものと思われる。
 周湟の幅は前方部あたりでせまくなるようである。
 以上の調査によって下侍塚古墳の規模を計測すると、墳丘の全長は八四メートル、後方部幅四八メートルである。この数値を後方部長さにあてはめると、中軸線上の前方部と、後方部のあいだのもっとも低い地点に位置し、後方部長さも、後方部幅と同じ数値で設計されたようである。後方部高さは九・四メートルである。また前方部幅は三六メートルで、その高さは五メートルを記録する。周湟については、北側で約一五メートル、北隅部で一一メートル、後方部東側の中央で一一メートル、前方部東側中央で九メートル、南側で九メートルである(第40図)。

第40図 下侍塚古墳の測量図

 ここに示した下侍塚古墳の計測値は、周湟調査によって測定されたもので、これまでに測量によって発表された数値を訂正するものである。したがって、本書に示した数値を今後基本とすべきであろう。とくに『栃木県史』(資料編考古一)に示された数値は、全長八三メートル、後方部幅四六メートル、同高さ九・三メートル、前方部幅三四メートル、同高さ五・六メートルとなっているが、これは誤りで、訂正の要があろう。
 なお、周湟調査によって発見された土器片は数十に達するが、わずかな須恵器(すえき)のほかは、すべて土師器(はじき)片である。とくに注目されるのは壺形土器である。土器片は葺石中と、その付近から出土しており、周湟内に埋納(まいのう)あるいは投げこまれたものではない。広範囲にわたって検出されているところから、墳頂部付近に並置されていたものが、周湟内に崩落したものであろう。壺形土器は器肉が厚く、胎土には小礫を多量に含んでいる。深い段を有する口縁、直線ないしは、やや外反気味に立ちあがる頸部、胴の張りに球形に近い。底部には焼成前の穿孔(せんこう)がみられる、土器の表面には櫛目痕(くしめこん)が一部にみられるが、その後に、指先でそれを消すように平滑に調整されている。土器の表面全体と内面は、口縁部から頸部にかけて朱彩(しゅさい)がみられる。内面も最終的には指先によって平滑に調整されている。器高は四〇センチ前後を示すものである。
 このほか、坩形(かんがた)土器や口縁部に棒状浮文(ぼうじょうふもん)が付されたものなどが出土している。棒状浮文のある土器は破片であるため、浮文全体の構成などは不明であるが、注目される土器である。
 これらの土器のうち、確実に下侍塚古墳の築造にともなうものは壺形土器である。これ以外の土器については、慎重を期さなければならない。
 この古墳調査にあたった大金宣亮は、本古墳の規模、周湟を明らかにすることができたとし、ことに、墳丘についてはこれまでの数値に多少の変更ができ、全体の設計は後方部四に対し、前方部三の比率で築造され、等分値も一二メートルを示し、それが晋尺の五〇尺に相当する可能性が強いと指摘している。