蛭田富士山古墳群

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この古墳群は蛭田(ひるた)字塚原に所在する。昭和四十四年十二月に、付近一帯の大規模な水田の基盤整備事業が実施されたとき、箱式石棺(はこしきせきかん)や横穴式石室などが発見された。箱式石棺は巻川土地改良区内からも点在して露呈したようであるが、集中的に存在するらしいと判断されたのは、箒川の低い段丘面にあたる蛭田地区である。明治年間になされた開墾の折には直刀などが出土している。箒川の左岸段丘の崖端には、帆立貝式(ほたてがいしき)古墳である富士山古墳(村指定史跡)がある(第43図)。

第43図 富士山古墳(村指定史跡)

 この古墳群の調査は県教委文化課(大和久震平ほか担当)によって昭和四十五年二月に行われた。次に『蛭田富士山古墳群』(大和久ほか著)によって、その概要を記してみよう。
 蛭田富士山古墳群は、那珂川と箒川とが合流する地点から約五キロ、箒川に沿ってさかのぼった左岸に位置している。この古墳群の主墳は富士山古墳で、帆立貝式とよばれる前方後円墳である。前方部が普通の前方後円墳よりも短いつくりの墳形で、側面からみた形状はあまり格好がよくない。帆立貝式とよばれるものには、前方部がきわめて小さく、円墳に方壇をとりつけたような形の古墳(群馬県太田市女体山古墳)と、これよりも前方部が長いが、普通のものよりも短く、しかも前方部前縁があまり開かない形の古墳(本県壬生町牛塚古墳=国指定史跡)の二形態がある。富士山古墳は後者の形に似ているので、牛塚(うしづか)型の帆立貝式古墳の範疇に入るものである。
 富士山古墳は崖に接近して築造されており、墳丘の西南側面は、傾斜がそのまま崖に連なっている。周湟は存在しないようである。墳丘の裾が不明瞭であるので、正確な古墳の規模はわからないが、全長は約四〇メートル、後円部直径約二七メートル、同高さ三・五メートル、前方部幅約一〇・五メートル、同高さ一・三メートルで、古墳の大きさからみれば県内では中規模以下の前方後円墳といえる(第44図)。

第44図 富士山古墳全図
『蛭田富士山古墳群』による

 この富士山古墳以外は、地表面が基盤整備工事によって削平されているために、墳丘の状態はまったくわからない。削土後の調査によって判明した遺構は、円形周溝四基、周溝内外から礫槨(れきかく)一基、粘土槨(ねんどかく)一基、小形竪穴式(たてあなしき)石室一基、箱式石棺十四基、横穴式石室八基、土壙墓(どうこうぼ)一基などであり、住居跡は三軒検出されている(第45図)。

第45図 遺跡全体図

 円形周溝四基のうち、D―五・東周溝(第46図)とよんでいるものは、最大径が外径で一二・六メートル、内径九・六メートルで、周溝幅は北側で二メートル、深さ六〇センチである。東側の周溝底からは、鬼高期(おにたかき)の坏形土器・高台付坏形土器が出土している。また周溝内には二基の石棺があり、ほぼ中央にあるものを一号石棺(第47図)、この石棺と周溝内縁とのほぼ中ほどに位置するものを二号石棺とよんでいる。墳兵が削平されているために推測の域をでないが、一号石棺の被葬者がはじめに埋葬され、その後に二号石棺の被葬者が追葬された可能性が強いようである。

第46図 D-5東周溝


第47図 D-5-1号石棺

 この一号石棺の内法(うちのり)は、主軸長で一・三メートル、幅は東端で三〇、西端で一九、深さは東端で三〇、西端で一八各センチである。石棺は一〇枚の板石で構築しているが、蓋石(ふたいし)は三枚使われている。二号石棺の主軸長は一・四二メートル、幅は東端で三五、西端で二四、深さは東端で二三、西端で一七各センチである。蓋石は一枚だけ残り、ほかは削土(さくど)の際に失われた。
 D―五・西周溝(第48図)は、東周溝のすぐ近くに構築されたもので、外径約一三メートル、内径一一・一メートルの規模で、周溝幅は北東部が最大で一・六メートルあるが、南西部はせまくなっている。深さは約五〇センチである。この周溝内には三基の箱式石棺があり、いずれも主軸を東西方向にむけ、底面には泥岩の板石を使用している共通性がある。

第48図 D-5西周溝

 西周溝内の三基の石棺のうち、もっとも保存状態が良好であるのは一号石棺(第49図)である。これは主軸長一・五六メートル、幅は東端で三八、西端で三〇前後、深さは中央で二五、東西両端で二一各センチである。東小口(こぐち)は板石を三枚重ね、その外側に三個の河原石をおき、さらに外側に一枚の泥岩を配している。西小口は板石一枚であるが、外側には河原石と板石をおいている。側壁は二重になっており、内側は北壁四枚、南壁三枚の板石を、外側では北壁は不明であるが南壁に二枚の板石と補助石を一個使っている。

第49図 D-5-西1号石棺

 D―一四周溝(第50図)は、箒川寄りの段丘上に構築されたもので、全掘されてはいないが、外径一五メートル、内径一二メートル前後と推定されている。周溝幅は東側で最大一・六メートル、深さ三六センチである。この周溝遺構の中央には粘土槨が一基存在し、周溝外北側のところには箱式石棺一基がある。

第50図 D-14周溝

 ここで検出された粘土槨(第51図)は、本古墳群では唯一のものである。粘土槨とは木棺のまわりを粘土で巻いた設備で、木棺は腐朽(ふきゅう)消滅し、この跡が粘土の面に残っている。棺は小口の立ちあがりからみて、割竹形(わりたけがた)木棺であったとみられている。この粘土槨の全長は四・四四メートル、内法(うちのり)の幅は中央部で九〇、深さ二〇~二五各センチである。遺物は粘土槨のほぼ中ほどから発見されたが、これには、刀子(とうす)・平根式(ひらねしき)鉄鏃・尖根式(とがりねしき)鉄鏃などがある。

第51図 粘土槨実測図

 D―一五周溝(第52図)は、外径が南北一八・三、東西一六・九各メートル、周溝幅は南で二・六、西で一・一一各メートル、その深さは七〇~八〇センチである。東と西の周溝のなかからは和泉式(いずみしき)の土師器が出土している。この周溝内部からは三基の箱式石棺と礫槨(れきかく)一基が検出されている。また、周溝外からは南側に四号石棺とよんでいるものと、北側に小形竪穴式石室一基が発見された。

第52図 D―15周溝

 本古墳群では唯一の例である礫槨(第53図)は、全長が内法で約四メートル、中央部あたりでの上部幅は八五、深さ約五〇各センチで、底面には小礫を敷いている。この小礫の上面は水平ではなく、浅い湾曲が認められる。また河原石を組んだ側面は下部の幅約五〇、上部幅八五各センチで、上にゆくにつれて逆八字形に開き、これも浅い湾曲面になるように石が組まれている。この礫槨に納められた木棺は、割竹形木棺ではないかと推定されている。遺物は鉄製利器の残片が中央部から検出されている。

第53図 D―15礫槨

 この周溝内から発見された三基の石棺のうち、三号石棺とよんでいるものは、構築法にほかのものとは異なった特色がみられる(第54図)。つまり、この箱式石棺は小形で、内法は主軸長八五、幅は北端で二二、南端で三〇、深さは両端とも一六各センチである。また、厚い板石を用いており、小口で一四、側壁二〇各センチであり、本古墳群で発見されたものでは最大である。構築法は、北小口一枚、西で二枚の板石を用い、側壁は東で一枚、西で二枚用い、側壁が小口の内側に入る形をとっている。底面には礫を使っている。

第54図 D―15―3号石棺

 さきにも触れたように、本古墳群からは、箱式石棺は都合一四基検出されている(第55図)。これらをすべて本書に掲載することはできないので、そのいくつかを記述してみた。ここで、箱式石棺について総括すると、遺跡全体図によってわかるように、D区に集中して検出されている。これらの石棺の石材は、花崗岩質の石棺一例以外はすべて泥岩(でいがん)であり、泥岩は崩れやすいために厚目に切った板石をもって構築している。石棺の規模は大きいもので、内法が主軸長二・〇七メートル、最大幅五五、深さ二九各センチから、小さいもので主軸長七八、最大幅二二、深さ一九各センチのものまである。これは、被葬者の肩幅にあわせて構築したものであろう。箱式石棺の底面は地山を利用しているもの三基、礫を用いているもの四基、泥岩の切石を使用しているもの六基、河原石を敷いたもの一基である。

第55図 出土石棺全図

 次に小形竪穴式石室は、D―一五周溝の北縁外側から一基検出されている(第56図)。これは周溝に接しており、この石室は長径三〇センチ前後の河原石で構築されている。内法の全長は、上端で九八、底面で八三各センチ、中央部での幅は三〇、深さは一三~一八各センチである。側壁は河原石の平積みで、小口は河原石が縦に使用してある。蓋石(ふたいし)は五個の河原石が横に並べられ、蓋石のまわりを河原石が覆っている。石室内外からは遺物はまったく検出されていないが、石室の大きさからみて小児用のものと思われる。

第56図 小形堅穴式石室

 本古墳群からは、横穴式石室が八基確認された(第57図)。その主なものの規模は次頁の通りである。

第57図 C―1号横穴式石室

 これらの横穴式石室は、いずれも墳丘はもとより石室の大部分が失われたものであり、周湟の存在や古墳相互の先後関係を知ることは不可能である。石室内から出土した遺物は少なく、C―一号墳から刀子・小玉、C―二号墳から直刀・鉄鏃・勾玉・切子玉(きりこだま)、D―一号墳から刀子・耳飾が検出されたにすぎない(第58図~第61図)。

第58図 蛭田富士山古墳群出土品(鉄製品と装飾品)


第59図 蛭田富士山古墳群出土の勾玉


第60図 服飾品実測図(縮尺不明)


第61図 蛭田富士山古墳群出土の鉄製品実測図

墳名主軸方向現存石室長さm玄室長さm玄室幅m
奥壁前中央部付近玄門部付近
B―一号墳N28°W四・七〇四・〇〇一・一五一・二〇〇・九〇
C―一号墳N20°E四・八〇三・四〇〇・八五〇・九五〇・八〇
C―二号墳N20°E四・七〇二・七五一・〇〇一・二〇一・〇〇
D―一号墳N80°W四・五〇三・二〇〇・九〇一・〇〇〇・九〇

 上記の横穴式石室は、すべて河原石を使用した小口積みのもので、胴張りがほとんどみられない縦長の袖無型である。玄室(げんしつ)と羨道(せんどう)は間仕切石によって明確に区別されるが、両者間の高低差はほとんどみられない。玄室の底面は玉石を敷いたものと、地山の礫(れき)層をそのまま使用したものとがある。石室の前庭には浅い掘り込みによる溝があり、ここからは須恵器や土師器が出土している。ここで墓前祭が行われたことを示すものであろう。
 横穴式石室が構築された時期は平根式鉄鏃や石室前庭部(ぜんていぶ)出土の須恵器の壺、「コ」字形の勾玉などから考えて、六世紀後半以降で、七世紀中葉ぐらいの間に位置づけられよう。もちろん、石室の個々の先後関係についてはわからない。
 なお、この古墳群内からは土師期の住居跡が発見されている。一号住居跡とよばれているものは、一辺が七メートルの正方形のもので、壁高は、大部分が削平によって失われ不明であるが、現存する高さは約一五センチである。柱穴は四本検出されたが、規則正しくは配されていない。柱穴の深さは四〇~五〇センチである。住居跡の南隅には直径九〇センチの穴があり、ここからは、高坏形・坩(かん)形・鉢形などの土師器が出土し、和泉式のものである。床面は褐色の沖積土で、比較的やわらかである。炉は確認されていない。北西壁と北東壁には、壁に直交して〓(たるき)と思われる木炭片が検出されている。これによって、この住居跡は火災にあったことがわかる。
 一号住居跡の北西地区からは二号住居跡が検出された。これは完掘されていないが、規模は一辺が一〇メートル前後と思われる大きなもので、出土した土師器片から和泉式期のものである。三号住居跡はD―一五周溝の西側から発見されたが、住居跡の一部を調査したにすぎない。ここからは、甕形・高坏形・坏形の土器が出土し、いずれも和泉式に比定されるものである。
 以上が蛭田富士山古墳群調査の概要であるが、調査担当者らはこれらを総括し、次のように考えている。
 箱式石棺は、これまで海洋に面した諸県に発見例が多く、関東地方では茨城県が主要な分布県として知られていた。弥生時代に九州から四国、畿内まで広範囲に分布していたこの石棺は、古墳時代になると、中部から関東、東北地方にまで分布が拡大する。この場合、内陸にあっては古墳文化がよく発達した地方には箱式石棺は受け入れられず、海辺の集団に関係するものとして考えられる面が強かった。しかし、湯津上村で発見されたことによって、箱式石棺の分布については再考されるものがあろう。蛭田地内で発見されてから後に、那珂川・荒川水系では喜連川町鷲宿、矢板市片岡、塩谷町泉地内などからも箱式石棺が発見されている。
 蛭田富士山古墳群は、五世紀後半に箱式石棺や木棺葬などの施設をもった古墳がつくられはじめ、やがて、六世紀後半から横穴式石室をもった古墳が、同じ墓域に継続して造営されたとみてよい。このため、この地域には多くの古墳が群在していたため、塚原という地名が起こったのであろう。この塚原に立錐の余地もないほど古墳が群在していたが、明治年間に蛭田地内の開墾が広範囲にわたって行われ、このときに古墳はほとんど削平されてしまったわけである。主墳と思われる富士山古墳が破壊されずに今日にいたったことは何よりであった。
 なお、参考までに箱式石棺の小規模なものは墳丘をもたなかったことが最近判明している。塙静夫らは、五行(ごぎょう)川沿岸の芳賀町西高橋地内で、低丘陵上に墳丘をもたない平坦部から、本古墳群から検出された箱式石棺と同じ規模のものを発見している。遺物はまったく伴出していないことも、同じであることを付記しておこう。