本村内のその他の古墳

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本村は小川町とともに那須国の中心であり、那須国と下毛野国が合併し、下野国となってからは、那須国は那須郡となったが、特異な那須古代文化を形成していた。このため、これまでに記した古墳以外に多くの古墳が築造された。数多くの古墳は、明治時代以降の開墾によって湮滅したが、以下、いくつかの古墳を列挙しておこう。
 佐良土の中嶋地内には、古墳の奥壁または天井石と思われるものがある(第62図)。石室の構造や墳丘、年代的なものは一切不明であるが、古墳に関係あるものであることは間違いない。また、湯津上地内の石田には横穴が存在する。これは石田横穴として知られているもので、那珂川右岸に立地している。

第62図 中嶋古墳の露呈した天井石

 横穴は古墳時代の後期に発達したものであり、栃木県では凝灰岩のある台地や丘陵などにみられ、那須郡内では本村の石田横穴(第63図)のほか、小川町岩谷内横穴、馬頭町唐御所(からのごしょ)横穴(国指定史跡)、同町北向田横穴、烏山町中山横穴、南那須町葛城横穴、同町入野横穴、同町小志鳥横穴、同町向山横穴、同町鴨毛横穴、同町岩穴横穴、同町芝下横穴などが知られている。これらの横穴の分布状況によってわかるように、那珂川と、その支流域に集中している。町村では本村、馬頭町、小川町、烏山町、南那須町にのみに限られる。この地域は芳賀郡北部の市貝町に分布する横穴とともに群在するところとして注目されよう。時期は、後期から終末期にかけてのものであろう。

第63図 石田横穴の近景

 横穴は横穴式石室を祖型として発生したものといわれている。そして、六世紀後半から七世紀代にかけて全国的なひろがりを示すが、横穴の被葬者はどんな階層の人たちであったかが問題となる。横穴が横穴式石室を祖型とし、略化形態として発生したところからみると、横穴の被葬者は横穴式石室の被葬者にくらべ、階層的には低い地位のものといえそうである。
 この意味で、石田横穴の被葬者は、蛭田富士山古墳群―群集墳―の被葬者と考え合わせ、家族墓的な性格をもつものといえよう。