さきにも触れたように、那須地方は那須国から那須郡にいたる間、多くの古墳が築造され、その中心地域は古墳の分布状態や那須国造碑、那須官衙(かんが)跡、古代寺院跡などから考えて、湯津上村から小川町にかけた一帯であった。そして、この両町村の周囲に位置する那須町南部、黒羽町西部、大田原市東部、馬頭町、烏山町、南那須町などが、古代の那須国として、あるいは那須郡として包含されていたわけである。したがって、湯津上村内に分布する古墳の築造年代を考えるとき、これら全域に分布する古墳をも含めて考えなければ、無意味なものになってしまうので、ここでは那須地方の古墳として述べることにしたい。なお、これを述べるについては、大金宣亮の研究成果を参考にしたことを明らかにしておきたい(大金「那須地方における古墳の分布と展開」『下野古代文化』創刊号)。
那須地方における発生期(前期)の古墳は、小川町の駒形大塚古墳と那須八幡塚古墳をあげることができる。駒形大塚古墳の内部主体は木炭槨(かく)であり、内部朱塗りの割竹形木棺か組合せ式木棺と推定され、画文帯四獣鏡(がもんたいしじゅうきょう)、銅鏃、直刀、短剣、ガラス小玉、蕨手状刀子(わらびてじょうとうす)、鉄斧などが出土している。また、那須八幡塚古墳の内部主体は粘土塊によるもので、鋸、鎌、〓(かんな)、小斧、間透(あいすき)、夔鳳(きほう)鏡などが副葬品として検出されている。この両古墳からは古式土師器も出土しているので、総合的にみて東国に古墳が築造されはじめた四世紀後半の古墳ということができる。いわゆる発生期のものであり、この時期に茨城県地方では丸山古墳、勅使塚(ちょくしづか)古墳、狐塚古墳などが築造されている。しかも、那須地方のこれらの古墳は茨城県地方のものと類似し、同じ北関東でも、群馬県地方の前期古墳の副葬品(三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が主体)とは相違しているので、古墳の那須地方への伝播は、那珂川沿いに北上したものといえそうである。小川町には、この両古墳のほか、吉田地内に温泉神社古墳があり、短冊形鉄斧が出土し、大金らの調査によれば前方後方墳であるようである。
このように、那須地方における発生期の古墳は、前方後方墳を主体としたものが、那珂川右岸の小川町南部地域に築造された。それは四世紀後半から五世紀初頭にかけてであった。このころの集落が那珂川右岸の段丘端部や権津川、西川の流域にみられる。つまり、発生期の古墳が立地する地域を中心に小川町中部から南部にかけて散在している。
小川町南部付近に古墳を築造した人びとは、那珂川をさかのぼり湯津上村地内に古墳築造の場を移し、湯津上地内に定着した。この地域に古墳を築造したものが、上侍塚古墳、下侍塚古墳、上侍塚北古墳である。そして、これらの古墳はいずれも小川町南部に築造された前方後方墳と同じ墳形であり、これまでの発生期古墳にくらべて二倍近い大きな前方後方墳を築造した。このことについて、大金宣亮は、上侍塚古墳にみられる巨大化現象を古墳文化進展のなかでとらえるとすれば、第一次専制体制の確立の様相として、まさに専制首長としての強大な権威を誇示したものとして理解されなければならないと説明している。そして、このような現象は同時に専制体制の崩壊と共同体の分解をはじめる時期を意味するものであり、専制体制の頂点を上侍塚古墳、下侍塚古墳を中心とした五世紀前半から後半期に求めている。
首長層による強大な専制体制の崩壊と、共同体の分解によってもたらされた新たな階層的身分秩序の形成は、古墳被葬者層の拡大を意味し、これが後期古墳に出現する群集墳である。那須地方の古墳において、このような様相は湯津上古墳群にみることができる。岩船台古墳は下侍塚古墳北方から岩船台、小船渡にかけて分布する湯津上古墳群の一つであるが、岩船台古墳は箱式石棺である。
湯津上古墳群の中には、下侍塚北古墳、小船渡二号墳の前方後円墳や観音塚古墳の大形円墳をふくめ、一〇余の古墳が現存する。とくに下侍塚北古墳や観音塚古墳をはじめとする数基の円墳からは、円筒埴輪が発見されている。那須地方の古墳で、埴輪の存在が指摘できるのは、本古墳群だけである。また、この時期には、これまでの粘土槨(ねんどかく)、あるいは木棺直葬(じきそう)による内部主体の構造とは異なって、岩船台古墳のように、石材使用による新しい手法が採用される。そして、四世紀後半から五世紀代に築造された前方後方墳・方墳という本地方における従来の墳形から、前方後円墳というわが国古墳の主流的形態が出現したことは注目されよう。この意味で、那須地方の後期古墳への進展の基盤を湯津上古墳群のなかにとらえ、古墳群形成開始の時期を五世紀末から六世紀はじめに求めることができる。そして六世紀代の盛期に埴輪が採用され、湯津上古墳群の終末を、七世紀はじめに位置づけるのが妥当のようである。
湯津上古墳群にみられる様相は、やがて、箒川左岸の蛭田富士山古墳群へ飛躍的に進展する。古墳時代初期にみられた小川町南部の前方後方墳の分布とは異なって、かなり、せまい地域に古墳は群在して築造された。つまり、古墳が家族墓としての性格をもって営まれるのである。ここに蛭田富士山古墳群の特色が存在する。当地方における群集墳のあり方をもっともよく示しているといえる。内部主体も簡略化した箱式石棺、粘土槨、礫槨、竪穴式石室、横穴式石室など、きわめて多様な形態を共存させている。一つの古墳に多数の埋葬施設をもち、横穴式石室への追葬もみられるところから、本古墳群は家族墓としての機能をよく現わしている。ここから出土した遺物によって七世紀代に中心がおかれた古墳群のようである。
このような家族墓にみられるさまざまな埋葬方法は、東国における七世紀代の終末期古墳が示す複雑な様相をあらわし、那珂川左岸を中心に所在する横穴群と密接な関係をもっているようである。このことについて大金宣亮は、蛭田富士山古墳群にあっては、前方後円墳の富士山古墳が、他の古墳をみおろす段丘端に立地し、外面的にはこの古墳群の盟主的位置を占めている。馬頭町川崎古墳については、石室の構造技術に胴張り手法がみられることから七世紀後半期に求め、時間的にも同じである那珂川左岸の近距離に分布する北向田・和見地区の横穴群と関連するとのべ、両者の示す様相が、ともに渡来人との関連において求められるとすれば、川崎古墳と横穴群との関係のように、富士山古墳と蛭田富士山古墳群との関係をもたせるわけには行かないだろうかと言及している。
また大金は、那須地方における古墳の終局を次のように説明している。川崎古墳、小川町梅曽大塚(うめぞおおつか)古墳、同町新屋敷古墳は、これまで古墳が築造されてきた地域からは離れ、新たな場所に独立して築造されている。川崎古墳にみられる横穴式石室が、七世紀後半における古墳時代終末期の地域的様相として、渡来人との関係のもとに理解されるとすれば、本地方にも同様な関係をみいだすことが可能であろう。つまり、那須国造碑文は、七世紀末ころにおける渡来人居住の問題を提起している。また梅曽大塚古墳の立地する付近には古墳群の築造はみられない。しかも、この地はこれまでの古墳築造の地とは異なって、山にせまる山間の地である。そして、この古墳は、前方部が後円部を上まわる後出する様相をもって突然築造されており、二つの横穴式石室をもつ特殊性と相まって、七世紀末に距離的に接近して建立される浄法寺廃寺(じょうぼうじはいじ)、那須官衙(かんが)との関連で、きわめて特異な存在である。この特異な存在こそ、特殊な被葬者の古墳であり、那須国造韋提の墓は、この梅曽大塚古墳である可能性が強いようである。そして、この古墳の築造年代も韋提の没年(七〇〇年)ということができる。そしてまた、那須地方における古墳築造の終局ということができるかも知れない。以上は、大金宣亮の見解である。
以上をふりかえってみると、湯津上村から小川町にかけた那珂川中流域が、古代における那須文化の中心であったことは多言を要しない。そして仏教文化の伝播とか渡来人(とらいじん)の居住によって、この地方の文化は他の地域の文化とは異なったものを形成したといえる。これが、この地方が全国的に考古学上注目を集めている大きな要因なのである。