土師器とよばれる土器は、時代とともに変化しているので、多くの研究者によってその編年が試みられている。ここでは杉原荘介(明治大教授)らの編年区分を採用することにしたい。杉原らは次のように細分している。
これによると、土師器は五領式→和泉式→鬼高式→真間式→国分式という変遷になる。本村内からは、まだ最古の五領式(ごりょうしき)は発見されていない。
杉原荘介『原史学序論』より
湯津上地内の下侍塚八号墳の周湟(しゅうこう)内からは、和泉式(いずみしき)が検出されている。これは、器台(きだい)片であるが、脚部の一部と器受部がわずかに残っているもので、茶褐色を呈し焼成は不良である。脚部には六個の円孔(えんこう)が認められ、脚部上位に対面する形で二個の円孔を有し、その円孔を三角形の頂点にする形で二個ずつの小円孔がある。
和泉式の土器は下侍塚古墳の周湟調査の際にも検出されている。第64図―2は壺形土器で、器肉は厚く胎土には小礫を多量に含んでいる。これらの土器は口縁が深い段を有し、頸部は直線ないしは、やや外反気味に立ちあがり、胴の張りは球形に近いものである。また、底部には焼成前の穿孔(せんこう)がみられる。器面には櫛目痕が一部にみられるが、その後、指先でそれを消すように平滑に調整されている。器の内面も指先によって平滑に調整されている。なお、器の内外両面には口縁部から頸部にかけて朱彩されている。4は口縁部に棒状浮文が付されている。5は口縁部と胴部が直接接合しないが坩(かん)形土器であろう。この土器は沈線文と「ハ」字状の陰刻文様が特徴的である。
第64図 下侍塚古墳出土の土器実測図
『湯津上村埋蔵文化財調査報告』第2集より
蛭田富士山古墳群内からは多量の和泉式土器が出土している。第65図・第66図に示したものがそれである。第65図1~10の土器はD―一五区から出土したもので、3・4の坏、7・8・9の〓、10の坩は周溝から、1の甕、2の高坏、5・6の坏は南西部住居跡からそれぞれ出土した。2の高坏の脚部は欠失しているが、伴出状態から同一個体のものである。全般的に口縁部は横ナデ、胴部から下半はヘラ状工具によって削り、整形痕が目につく。周溝から出土した二個の坏は平底で、とくに4の坏は歪(ゆが)みながらも底をつくり出している。11の甕と12の高坏は周溝南西部の外側にあるピット上面から出土したものである(D―一四区)。甕の胴部外面には櫛状具による整形痕が全面にみられ、高坏の脚部内面には整形時の巻き上げ痕がはっきりみられる。
第65図 蛭田富士山古墳群出土の土師器
第66図1~10はD―一八区の住居跡から出土したものである。高坏・台付甕は胎土焼成がよく、赤褐色を呈している。整形は横ナデとヘラ状工具によっている。8・9は小形土器で所謂手づくねの土器である。高坏は坏下部に稜を有するもの(1・2)、稜が著しく円板状になるもの(3)、稜のつかないもの(4)の三種がある。台付甕は外面に櫛状工具による整形痕がみられる。
11・12はD―五区の周溝内から出土した坏である。12は手づくねで、歪みがひどく、ヘラ状工具による削り方も雑である。11の坏は、やや外湾して立ち上がる口縁部下に稜を有し他の坏にみられる作りとは異なっている。なお、13・14は土師器ではなく須恵器である。これはC―二区の横穴式石室の前庭部から出土した直口壺と坏であることを付記しておくにとどめたい。
第66図 蛭田富士山古墳群出土の土師器
第67図の高坏は高野(こうや)遺跡出土のもので、和泉式でも古いものである。第68図のものは岩船台遺跡のものであり、6・7は高坏の脚部で、和泉式に比定されるものであるが、ほかは鬼高式(おにたかしき)の土器である。とくに2は和泉式末から鬼高式初頭に位置づけられるもの、1・5は鬼高式中頃、3は鬼高式末ころのものであろう。
第67図 高野遺跡出土の土師器
第68図 岩船台遺跡出土の土師器
第69図の二個の土器は鬼高式初頭の甕形土器で、佐良土小学校々庭から出土したものである。第70図は岩船台遺跡から出土した甕形土器で、九世紀前半に位置づけられる国分式(こくぶしき)である。
第69図 佐良土小学校校庭出土の土師器
第70図 岩船台遺跡出土の土師器
湯津上村内からは、ここに示した土師器のほか、かなり多くの土器が畑耕作中に発見されているようである。土師器には文様が施されたものがほとんどないため、一般に保管されることなく捨てられてしまう場合が多いが、古墳時代から平安時代までの庶民の生活を知る貴重な資料であるので、大切に保管して欲しいものである。
土師器には、壺・甕・台付甕・甑(こしき)・坏・高坏・皿などの器形がある。壺は穀類や液体などを貯蔵するための容器として使用されたが、なかには、底部付近に煤が付着しているものもあり、煮沸用に使われたのであろう。甕や台付甕などは、炉やカマドを使って煮沸するために用いたもので、底部には煤が多く付着している例がみられる。甑は甕と組み合わせになって蒸し器(炊飯具)として使われた。とくに、カマドが住居内に設けられてからは甑はさかんに使用された。坏・高坏・皿などは副食物の盛り物用に使われたが、これらの土器の内外面などに赤色に塗彩されたものは、祭祀・儀礼用、あるいは供膳用に使用されたものであろう。
ただ、下侍塚古墳の周湟内から出土した底部穿孔(せんこう)の壺形土器は、日常使用の容器とは性格を異にするものである。底部穿孔の土器には、焼成前に穿孔したものと、焼成後に穿孔したものとがある。下侍塚古墳出土のものは前者に属する。これは祭祀用に使われたものである。下侍塚八号墳の周湟内出土の高坏形器台は供膳用と思われる。蛭田富士山古墳群内から出土した坩(かん)(小形丸底壺)も、おそらく、供膳用に供されたものであろう。
弥生土器の流れをうけた土師器に対し、須恵器とよばれる灰白色を呈する硬質の土器が存在する。この須恵器は古墳時代中期以降、奈良・平安時代にかけて製作使用されたものでロクロが使われ、還元焔(かんげんえん)焼成によるものである。焼成度は千度以上であるから、窯(かま)の施設を必要とする。湯津上村内からは須恵器が発見されているが、その窯の有無はわかっていない。那須郡内では、烏山町中山地内に窯が存在している。
本村内で須恵器が出土している遺跡には、湯津上地内の岩船台、下河原、西ノ根、入山、田中の諸遺跡や佐良土地内の中嶋、蛭田地内の蛭田富士山古墳群内の遺跡がある。これらの中には古墳から出土したものが、古墳の削平によって付近の畑などに散乱したものもある。第71図に示したものは岩船台遺跡出土のものであるが、五世紀後半の〓(はそう)形土器で、本村はもとより県内でも古式の須恵器に属する。頸部と肩部に櫛描波状文(くしがきはじょうもん)が施されている。第72図は蛭田富士山古墳出土の平瓶(へいへい)と広口壺である。これは七世紀代のものかも知れない。平瓶は酒宴(しゅえん)には欠かせない供膳用の容器で、一方に偏して口頸部を取りつけたもので、酒などの液体を注ぐのに適した形をしている。これは七世紀前半に初現し、その後奈良・平安時代まで存続するが、初期のものは器体が丸味をもっており、奈良時代以後になると肩部に明瞭な稜がつくられ、体部は扁平になっていく。口頸部とならぶ位置に大きな把手(とって)のつくものが増えるのは、奈良時代以後である。したがって、蛭田富士山古墳出土の平瓶は七世紀前半に位置づけてもよいであろう。第73図も平瓶で、中嶋遺跡出土のものである。
第71図 岩船台遺跡出土の古式須恵器
第72図 蛭田富士山古墳群出土の須恵器
第73図 中嶋遺跡出土の須恵器