本村には旧石器時代から古墳時代にいたる多くの遺跡が分布している。旧石器時代に那珂川右岸の段丘上に生活の場を求めて居住した人びとが最古である。その痕跡は、二ツ室塚古墳や下侍塚古墳が存在する箇所から発見された石器によって知ることができる。偶然にも、旧石器時代人が居住したところに、後世古墳が築造されたのである。旧石器時代に続く新石器時代である繩文時代になると、那珂川や箒川、その支流域を中心として、狩猟・漁撈生活に適していた本村地方には多くの繩文時代人が居住し、岩船台遺跡をはじめ各地に数多くの遺跡をのこした。とくに繩文時代中期は、本村の繩文文化の最盛期であり、硬玉製有孔玉斧の出土は、他市町村にみられない特色といえる。
華やかな繩文文化の展開とは裏腹に、弥生時代になると本村の文化は衰微した。それは、この地方が水田耕作には適さない地理的な諸条件があったからである。一般に、那須地方は弥生文化が開花しにくい地域であった。しかし、古墳時代に入ると、稲の品種改良や農耕技術の進歩によって、沖積地や低地を利用して積極的に水田耕作が行われ、各地に豪族が出現し、古墳が築造された。この古墳文化こそ、湯津上村の歴史を飾る最たるものである。上侍塚・下侍塚・上侍塚北の諸古墳にみられる前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)、下侍塚八号墳のような方墳(ほうふん)の築造は、那須古代文化の核として注目されるものである。本村の前方後方墳の特異性は、多くの考古学者によって注目視され、これまでにどれ程多くの学者が湯津上地方を訪れているか計り知れない。
栃木県内には湯津上村の上侍塚古墳・下侍塚古墳・上侍塚北古墳、小川町の駒形大塚古墳・那須八幡塚古墳・温泉神社古墳の六基の前方後方墳のほか、宇都宮市愛宕塚(あたごづか)古墳、藤岡町山王寺大桝塚(さんのうじおおますづか)古墳、足利市藤本古墳などの前方後方墳が十余基分布している。『栃木県史』考古一によると、益子町狐塚(きつねづか)古墳を前方後方墳として詳しく説明が付されているが、外観上からの推測によって墳形を観察しているため、大きな誤りを犯している。久保哲三(宇都宮大助教授)の調査によって、狐塚古墳は前方後方墳が一転して円墳となった。これまでに前方後円墳と前方後方墳の間違いは時としてあるが、円墳と前方後方墳とを間違えた例は全国でただ一例である。久保助教授が、前方後方墳ではなく円墳であることを学術的調査によって確認した功績は大きい。遺跡は素人判断によって勝手に考察されると、歴史の流れを全く変えてしまう結果を招くよい例である。古墳研究のなかで、前方後方墳について論述できるものは、古墳研究に精通したものでなければ無理である。
それにしても、湯津上村の原始・古代文化は、他の地域とは異質のものであるので、正しい考察を試みようとするならば、かなり長期にわたる調査研究を要するであろう。全国的に著名な地域であるので、本書をもとにして、他日、本格的な湯津上村の正史を編さんする必要があろう。ここでは、ごく初歩的な叙述にとどめておきたい。