那須国の成立

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四世紀代に大和国家が成立したころ、栃木県は毛野国(けぬのくに)と那須国(なすのくに)とに分かれていた。ここにいう毛野国とは、いまの河内・上都賀南部・下都賀・足利の諸郡と群馬県一帯をさすが、のちに毛野国は下毛野(しもつけぬ)と上毛野(かみつけぬ)の二国に分かれた。下毛野国になってからも、那須国は独立して存在していた。七世紀の終りになって、那須国は下毛野国と合併し下野国となるが、合併後は那須郡として、これまでの社会、経済、文化を継承し発展した。
 湯津上村が小川町とともに那須国の中心地域として、大和国家、つまり大和朝廷の支配下に入るのは、前章でふれたように前期古墳の成立する四世紀後半からである。それは、小川町南部に築造された駒形大塚古墳、那須八幡塚古墳、温泉神社古墳などの分布がこれをよく証明している。そして、これを基盤として湯津上村地方に上侍塚古墳、下侍塚古墳、上侍塚北古墳、下侍塚八号墳などの前方後方墳や方墳が築かれた五世紀代に、那須国は完全に成立したものと思われる。ここに、那珂川と箒川を中心とした河川を核として独特の那須古代文化が展開するのである(第74図)。

第74図 那須国の中心地域

 『国造本紀』那須国造の条に、建沼河命(たけぬかわのみこと)の孫大臣命(おおおみのみこと)を国造に定め賜わったと記されている。建沼河命とは『古事記』にいう建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)であろう。この那須国造の統治した中心地域の一つが本村であった。斎藤忠博士は那須国造の統治地域を推定し「倭名抄に下野国那須郡那須郷とあり、今日の栃木県那須郡地方と考えてよい。湯津上村には那須国造碑があり、この地域から小川町を含む那珂川流域にわたる一帯の地がその中心と見られる」とのべ、この地域における古墳文化の特色については「那須郡小川町大字吉田に前方後方墳があり、近年調査されて粘土塊の間から夔凰(きほう)鏡・鉄製工具・鉄製剣身等が出土した。また湯津上村には上侍塚・下侍塚といわれる二基の前方後方墳があり、元禄五年の発掘の際甲冑・石釧・鏡等が発見された。また付近の岩船台古墳は円墳で竪穴式石室の構造をもつが、鹿角製(ろっかくせい)刀装具や短甲等の見出されたこともある」と記している(斎藤忠「国造に関する考古学上よりの一試論」『古墳とその時代二』)。
 那須国が下毛野国とは異なった文化をもって発展したのは、この地方が大和朝廷と深い結びつきがあったほかに、大陸から渡ってきた渡来人(とらいじん)の居住が大きく左右したと思われる。大和朝廷との深い結びつきとは、対蝦夷(えぞ)政策の拠点という政治的な面のほかに、砂金が産出するという経済的な背景も無視することはできない。砂金が馬頭町の武茂川から発見されると、これは高度な技術を必要とするので、当然のことながら渡来人の特殊技能を必要とするわけである。『延喜式(えんぎしき)』に、
  下野国砂金百五十両、練金八十四両
とあり、下野国の砂金は徭夫(ようふ)に採らせることを記しているが、はじめは、渡来人の技術と、その指導に負うところが大きかったろう。だから、那須国は古代における数少ない産金地の一つとして重要視されたから、大和朝廷との結びつきが深く、その技術者が那須直(あたい)という姓を称するようになったのであろう。これが那須国が広義の毛野の地域にありながら、毛野国、あるいは下毛野国とはならず、特殊地域として、那須国が七世紀の終りまで存続したのであろう。このため、大化前代の那須氏は毛野氏のように君(きみ)姓ではなく、直姓を称したものと思われる。『続日本後紀』の承和二年(八三五)二月の条に、
  下野国武茂神奉従五位下、此神坐沙金之山
とある武茂神とは、『延喜式神名帳』にある健武山神社のことである(第75図)。この神社は八溝山麓にあるが、砂金を採る山の神として注目されていた。砂金の採取には、渡来人に関係のある那須直の祖が深いかかわりあいをもっていたであろう。

第75図 健武山神社(馬頭町)

 砂金産出地として馬頭は重要なところであったが、那須国の中核とならず、湯津上村から小川町一帯が中心地であったのは、地理的諸条件によるものであった。馬頭は、当時の幹線ともいうべき東山道から離れていたのである。