那須の古代文化の繁栄は渡来人(とらいじん)によるところが大きいことはいうまでもない。渡来人のことをかつて帰化人(きかじん)とよんでいたが、このよび名は正しい表現ではない。本書では渡来人という名称で表現することにした。帰化(きか)という言葉は『日本書紀』にはあるが『古事記』にはない。『大宝令』には帰化と同じ意味をもつ、投化という用語が用いられている。『日本書紀』にも使われている。
ところで、渡来人についての記事は『日本書紀』持統天皇元年(六八七)三月の条に、
以二投化新羅十四人一、居二于下毛野国一、賦レ田受レ稟、使レ安二生業一
とある。これによると、新羅人を下毛野国に居住させ、田と食糧を給し、生業につかせたという。ここに、下毛野国とは『日本書紀』(七二〇年完成)の編者が、編集当時には那須国が下野国になっていたための記載誤りであって、那須国居住のことである。また、持統天皇三年四月の条にも、
以二投化新羅人一、居二于下毛野一
とあり、さらに持統天皇四年(六九〇)八月の条にも、
以二帰化新羅人等一、居二于下毛野国一
とある。
渡来人は古墳の分布状況から判断して、那珂川中流域の湯津上村から小川町を中心とした地域に居住したのであろう。かれらは新しい文化と知識・技術をもって那須国の開拓に尽力した。これは、傍証として那須国造碑をはじめとし、唐木田(からきた)(那須町)、唐御所(からのごしょ)(馬頭町)という地名の存在によって明らかである。那須地方に渡来人が居住したことについては、斎藤忠博士の研究(「古代東国における帰化人安置に関する二、三の考察」『日本古代遺跡の研究』論考編)があるので、これによって、以下、その概要を記してみたい。
長い期間にわたって渡来人は東国に安置されたが、渡来人が東国に安置された事情については多くの史家によって考察されている。たとえば、丸山二郎は、渡来人を西国や北陸におかなかった一つの理由は、本国から遠ざけて、かれらに落着きを与えるためと、遅れた東国諸国の開発に利用するためであったとのべている。令(りょう)の規定にも、渡来人が寛国(かんごく)に安置すべきことを触れている。寛国とは、土地寛く人口の少ない国のことである。渡来人は未開拓の地におかれ、その地の開発に従事した。その際、かれらは、本国の農業技術をもって事にあたったに相違なく、それがまたわが農業に影響したにちがいなく、かれらの、わが国の農業発展の上になした貢献は甚大であった。また関晃(せきあきら)は、渡来人が大てい東国に移されたのは、養老律令(ようろうりつりょう)に、凡そ蕃使の往復する大路の近傍には、その国の人や奴婢を置いてはならないという規定があるように、種々の問題が起こることを防ぐ意味もあったろうが、当時、東国には未墾の原野が多く、かれらの手でこれを関発しようとしたためであろうとのべている。
この考えに対して、斎藤博士はいずれも適切な考察とみとめられるとし、次のようにのべている。
古代の渡来人の東国における安置は、大和を中心とした摂津・河内・山城等における渡来人の居住とは、かなり異なる性格のあったことはいうまでもない。つまり、畿内における古くからの渡来人の居住の場所は、朝廷をはじめ中央豪族の厚遇と庇護を背景としたものであり、しかも、これら渡来人は政治・経済・学芸・技術等のあらゆる面に大きい活躍をなした。いっぽう、東国における安置の場合は、閑地が択ばれ、農業生産の増大をねらい、いわば、開発者として利用された傾向が大きいのである。しかし、渡来人を東国に安置する場合、閑地、あるいは不毛の地ということのみを前提とし、その開発のために無計画に行われたものであったろうかという疑問をいだく。実際の問題として、この種の閑地に渡来人の集団がはじめて移住した場合、そこにはいろいろな支障や並々ならぬ労苦がともなうことであろう。
後述する那須国造碑は、那須国造を思慕する渡来人によって建碑されたものである。碑文中に「一世之中、重被二弐照一、一命之期、連見二再甦一」とあるのは、渡来人が大陸における苦難の生活から脱し、再び那須国造の恩顧をうけたことを記しているものであるが、これら渡来人の一集団が那須国造の統治圏内に居住していたことは疑う余地はない。そして、『日本書紀』の記載からみると、渡来人は新羅人であったろうし、那須国造碑を建立した人たちは新羅人であったとみるのが穏当である。
このころ、朝鮮半島の国々から多くの集団が渡来したことは、半島における動乱に関係したことはいうまでもない。すなわち、新羅は次第に勢力を強大にし、唐との連合によって百済を圧迫し、ついに百済は六六〇年に滅んだ。いっぽう、高句麗もまた六六八年にいたって、唐の高宗によって併合された。このような動乱によって、百済や高句麗から渡来する者が多かったことは当然であるが、躍進的な勢力をもっていた新羅の人たちが、なぜ、わが国に渡来しなければならなかったのであろうか。それは『続日本紀』天平宝字三年(七五九)九月の詔の中に、
頃年新羅帰レ化舳艫不レ絶、規-二避賦役之苦一 遠棄二墳墓之郷一
とあることから考えると、動乱の渦中にあったため賦役などによる圧迫が著しく、必ずしも新羅の地は安住の土地ではなく、このため距離的に近い日本に渡来するものが多かったのであろう。
那須国造の統治圏内に渡来した者が新羅人であることを知るとき、国造碑文の冒頭の年号が唐の年号であることは不思議ではない。当時、新羅の間にあっては唐の年号を用いることは通例であったからである。
那須国に新羅人が居住していたのは、天武天皇から持統天皇のころであったことは、文献や碑文によって明らかである。しかも渡来人は那須国造によって大きい庇護をうけていた。那須国造韋提の徳をたたえ、しかも「弐照せられ云々」の文を記していることも、これを示しているであろう。このことについて斎藤忠博士は「この文意からくみとられることは、その移住にあたっては、政府と那須国造との間に十分な了解があり、那須国造が、その誘引に力を致したということである。単なる政府の閑地利用という無計画性でなく、その国の有力関係者とのあらかじめ折衝と合意とがあった」とのべ、さらに「那須国造がこれを誘致した一つの動機は、既に、その先輩である新羅渡来人(原文には、帰化人とある)が、この地域に安住していたことではないかということである。もし、そうであったならば、為政者(いせいしゃ)にとっても渡来人の対策には経験ずみであり、また、それが文化の向上や生産力の増大にも利することを認識していたし、一方、新来の渡来人にとっては、これほど安住の適地であることはなかろう。もとより那須国造の統治圏内に、これに先だって渡来人の移住したという徴証は不十分である。しかし、考古学的にみると、これらの地域の古墳文化が案外、特殊な発達をなしているという事実は、何かこの考証に示唆を与える如くである」と述べている。確かに、那珂川中流域の湯津上村から小川町にかけた一帯には、前方後方墳・方墳といった特殊な墳墓が分布し、他の地域とは異質の文化が形成されていた。この地域には少なくとも四世紀末から七世紀を中心に、顕著な古墳文化が展開していたのである。