氏姓制度

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大和朝廷の成立した四世紀代から大化改新(六四五年)が行われる間の社会組織を、氏姓(しせい)制度とよんでいる。このころ、政治的・社会経済的な単位となっていたのは、氏(うじ)または氏族(しぞく)とよばれるものであった。那須国が成立・発展していたころの社会は、この氏姓制度であったわけである。
 氏は、原則的には、同一血縁につながるものと考えられる人びとによって構成されていたが、この氏を構成する人びとを氏人(うじびと)といい、その族長を氏上(うじのかみ)といった。氏上は、外に対しては氏を代表し、内においては族長として氏人を統率するとともに、氏族の守り神である氏神(うじがみ)を祭ることに当った。氏人はそれぞれ家をなし、その家長として家を率いていた。その家を戸(こ)といい、一戸あたりの家族数は、現在残っている八世紀ごろの戸籍から推算すると、少なくとも十数人、多いものは百人以上に及んでいたようである。この氏人の率いる戸が単位となって氏を構成するわけであるが、その戸数は氏によっては数十戸から数百戸に及ぶものもあったようである。なかには、数戸にすぎないものもあった。湯津上村には、古墳時代の庶民集落跡が多く分布しているので、これらを発掘調査し、当時の集落規模を復原すると、戸籍は残存していなくとも、ある程度の戸数と、そこに住んでいた人びとの数を算出することができよう。
 一般に氏の名は、その住んでいる土地の名、祖先の名、あるいは世襲する職業名をとってつけた。そして、氏族が大和朝廷に統合され、氏上が国家の重要な仕事を分担するようになると、それぞれの仕事の性質によって姓(かばね)が与えられた。姓は、はじめは仕事の性質を示すものにすぎなかったが、それが世襲されて氏の出身を示すようになり、また、この仕事にはこの姓をもつものでないとつけないというように、朝廷の官職が姓によって規定されると、仕事の重要さの程度や、氏の勢力の大小、その朝廷における地位の高下にしたがって、姓には自然と上下・尊卑の差別が生ずるようになった。だから、姓の種類や順序はときによって異なる場合があるが、国家の重要な政治にあずかる有力な氏族には、臣(おみ)・連(むらじ)などの姓が与えられた。とくに大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)ができて、国家の最高の政治をあずかることになった。
 姓には、臣・連・公(君)・別・直・首・造・史・村主などがあった。これらの中で、公・別・臣などは、天皇や皇子の子孫(皇別)の氏に与えられ、連は、建国神話に関係のある神々の子孫(神別)に、史・村主は渡来人の子孫(蕃別)に、直は国造に、首は県主(あかたぬし)以下に与えられるのが普通であった。だから那須国造の姓は直であった。
 地方は国・県・郡・邑などに区分され、その区分に応じて、これまでの首長は国造・県主・稲置(いなぎ)などに任命された。このような地位もまた世襲されたので、のちには、姓と同じように考えられるようになった。
 氏族は田荘(たどころ)といわれる多くの土地を所有していた。これを耕作して自給自足の経済生活を営んでいたが、農業の進展にともない、氏人や、その家族だけでは労働力の不足を生ずるようになった。このような必要から、氏族成員以外の人びとを部民(べみん)として、その支配下に集めるようになった。その氏に属するものを部曲(かきべ)、氏人個人に属するものを奴(やっこ)といった。したがって、かれらは氏族成員との間に何ら血縁をもつものではなかった。
 湯津上村内に古墳を築造した豪族、つまり、氏族たちは、那珂川や箒川とその支流域の沖積地を農耕地として支配・確保したにちがいない。そして、その頂点にあったものは那須国造という首長であったろう。那珂川を中心とした水系を管理し、ここを基盤として勢力を張るだけの力をもつものは、国造という地位以外のものは考えられない。那珂川水系の段丘上に、小川町南部の駒形大塚古墳・那須八幡塚古墳、本村湯津上地内の上侍塚古墳・下侍塚古墳(第76図)などが分布するわけであるが、これらは前方後方墳という特殊な墳形からして、四世紀末から五世紀代の那須国造の墳墓とみてよいかも知れない。そして、これらの古墳から、鉄製工具が多く検出されているのは、対蝦夷政策という特殊事情のほかに、那須国開拓の急務があったとみるべきで、岩船台古墳のような小円墳からも鉄斧が出土しているのは、この考えをさらに裏づけるものであろう。

第76図 下侍塚古墳の碑