上記の基本方針は、詔の形で『日本書紀』に記されているが、これが当時の原文を伝えているか否かについては諸説がある。つまり、『日本書紀』が編集されるとき、編者が飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)(六八九年)や大宝令(七〇一年)などの文章を参考にして、修飾を加えた部分が少なくないといわれている。たとえば、郡の制度については、昨今、金石文や木簡(もっかん)の研究がすすむにつれて、改新の詔にあるのは評(こおり)の制度であり、これは浄御原令にもひきつがれ、大宝令にいたってはじめて郡の制度となったことが明らかになっている。このような研究に相反して、改新の詔には郡に関する規定がくわしく記されている。これは改新当時の文章ではなく、郡の制度ができた大宝年間以後のものであることをよく示しているといえる。しかし、大化二年に改新の詔が発布されたことは確かなことであろう。
大化改新にはじまる律令国家体制の樹立は、その後、政治的な曲折があって一時停滞する。この国家体制が完成するのは、壬申の乱(じんしんのらん)(六七二年)をへた天武・持統朝になってからのことである。とくに、大宝元年(七〇一)に大宝律令が完成することによって、律令体制は確立するのである。この大宝律令は刑部親王(おさかべしんのう)・藤原不比等(ふひと)ら十九人によって撰定されたが、この中に下毛野古麻呂(こまろ)がふくまれていることを特記しておきたい。
ところで、令の規定によれば、中央官制として太政官(だいじょうかん)と神祇官(じんぎかん)の二官と、その下に八省があった。いっぽう、地方は五畿(ごき)と七道に大別された(第77図)。七道とは東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の諸道である。この七道のもとに国・郡・里が設けられ、それぞれ、国司・郡司・里長がおかれ、国司には中央貴族が派遣されて、国衙(こくが)(その所在地を国府という)で政務をとった。国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官に分けられ、課丁(かちょう)の数と田地の多少によって設けられた大国・上国・中国・下国の等級によって、国司の定員およびその位階に差があった。下野国は上国であり、国衙は栃木市国府地内にあった。
第77図 古代の行政区画(東山道中心)
郡司は郡衙(ぐんが)で政務をとり、那須郡の場合は小川町梅曽地内に郡衙がおかれた。郡司は郡内の行政にあたったが、大領・少領・主政・主帳の四等よりなり、郡の大小によって主政・主帳の数を異にした。郡は大化以前に国造が支配していた国がなったもので、郡司には在地の豪族が任用され、これまでの国造が優先的に採用されたから、那須郡の郡司には、那須国造が任命された。郡司は終身官で世襲されたので、農民との関係は、国司よりも密接で、地方統治の上で重要な役割を果たした。
里長は、里ごとに一人おかれ、郡司の監督のもとで直接民政にあたり、里内の人口移動の監視とか農耕活動の監督、不法行為の取り締まり、賦役の徴発などを行った。里長には原則として、里内の農民のうちからその任に堪えうるものを選んで任命し、賦役免除の恩典が与えられていた。
大宝令制によると、五〇戸を一里とし、二〇~一六里を大郡、一五~一二里を上郡、一一~八里を中郡、七~四里を下郡、三~二里を小郡とした。また、霊亀元年(七一五)に、これまでの里は郷(ごう)と改称され、郷(おおさと)のなかをさらに二~三に分割し、これを新たに里(こさと)とした。しかし、この郷里(ごうり)制は、その後二十五年ほど存続して、郷の下の里は廃止されて、郷のみの郷制となった。