特異な那須古代文化を形成していた那須国は、大化改新後に、下毛野国に併合して下野国となり、那須国は那須郡となった。この国から郡への移行時期はいつごろからであったろうか。これを知る有力な手がかりとなるのは、那須国造の碑文である。
碑文にある永昌(えいしょう)元年は、唐の則天武后(そくてんぶこう)のときの年号で、持統天皇三年(六八九)にあたる。この年に那須国造であった那須直韋提は、評督(こおりのかみ)となった。これによって、これまでの那須国造は那須評督にかわったことを知ることができる。つまり、はじめは郡とか郡司とはいわずに、評(こおり)、評督とよんでいたことがわかる。郡を評とよんでいたことは、藤原京跡出土の木簡(もっかん)の銘に「下□(毛カ)野国芳宜評〓」とあることによっても明らかである。
したがって、那須国造が那須評督になったことは、那須国が下毛野国と統合して下野国となり、那須郡(評)になったことを意味するものであるから、持統天皇三年(六八九)ころに那須郡が成立したといってよいだろう。