那須国造碑

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この碑は本村湯津上地内にある笠石神社(第79図)のご神体となっている。明治四十四年八月九日、国宝に指定されたが、のち法改正によって、昭和二十六年、国の重要文化財となり、同二十七年十一月二十二日再び国宝に指定された。碑の総高は、笠石を含めて一四七・九センチ、幅四四・五センチ、石質は花崗岩(かこうがん)である。碑文は八行十九字詰の一五二字からなり、書体は六朝(りくちょう)風の格調高いもので、金石文としては貴重な資料である。

第79図 笠石神社遠景

 那須国造碑文は次のように刻まれている。
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮那須国造、追大壱那須直韋提、評督被賜、歳次康子年、正月二壬子日、辰節、殄故、意斯麻呂等、立碑銘偲云爾、仰惟殞公、広氏尊胤、国家棟梁、一世之中、重被貳照、一命之期、連見再甦、砕骨飛髄、豈報前恩、是以曽子之家、无嬌子、仲尼之門、无罵者、行孝之子、不其語、銘夏堯心、澄神照乾、六月童子、意香助坤、作徒之大、合言喩字、故無翼長飛、无根更固
(注)碑文は理解の便宜上、楷書に改め、かつ、段落をつけた。また、解読については『栃木県史』史料編古代を参考にした。

 碑文には欠損字や解読しにくい文字があるため、古くから幾多の学者によって、さまざまな解読がなされているが、いまだ定説をみない。郷土史家蓮実長は次のように解読している。
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原の大宮、那須国造追大壱(ついだいいち)、那須の直韋提(あたいいて)に、評(こおり)の督(かみ)を賜わる。歳庚子(ほしはかのえね)に次(やど)る年の正月二壬子(みずのえね)の日、辰節(たつとき)に物(もつ)(弥は物なるべし)故(こ)す。意志麻呂(おしまろ)等碑を立て偲(偲は徳なるべし)を銘(めい)すと爾云(しかい)う。仰ぎ惟(おも)んみれば、殞公(いんこう)は広氏(こうし)の尊胤(そんえん)にして、国家の棟梁たり。一世の中重ねて弐照(にしよう)せられ、一命の期連(しきり)に再甦(さいそ)を見る。骨を砕きて髄(ずい)を視るとも、豈(あに)前恩に報ぜむや。是(ここ)を以て曽子(そうし)の家には驕子あること无(な)く、仲尼(ちゆうじ)の門には罵る者有ること无(な)し。孝を行うの子は其の語を改めず。「夏に銘す堯(きよう)の心を、(之より意香助坤まで隠語文)神を澄(すま)して照乾す。六月童子、意(おも)うに香は坤を助く」徒を作(おこ)すこと大なり。言を合せて字を喩(さと)す。故に翼无(つばさな)くして長く飛び、根无(な)くして更に固まる。

 また蓮実長は、碑文の大意について次のように記している(『那須郡誌』)。
唐の則天武后の時の年号である永昌元年四月(我が持統天皇三年)持統天皇(飛鳥浄御原大宮)より、那須国造で、追大壱の位階を有する、那須の直(あたい)(上古の姓(かばね)で、君(きみ)の次位、県主(あがたぬし)の上位にあり)韋提(いて)に、那須郡の大領(評督)を命ぜられた。(大化の改新により、那須国が郡に改められた)そして国造は庚子の年(文徳天皇の四年)の正月二日、午前八時(辰節)に死去(物故)された。依って国造の子弟たる意斯麻呂を始めとして、其の恩顧を蒙った我々新羅の帰化人等が、墓碑を建てて、故人の徳を石に刻みつけ、不朽に伝える。
 仰ぎ思い見れば、亡き人(殞公)は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔たる広来津(ひろきつ)氏(広氏)の子孫で、国家の重任に堪える材器を有する人であった(国家の棟梁)。我等は非常に恩顧に預り、一世の中、二度と主君の照臨を蒙り(帰化人が我が国に来て、再び国君を戴くからという)一命が蘇生(再甦)するが如き厚い御恩恵に浴した。この海よりも深く、山よりも高い御恩は骨を砕いて骨髄を現わす底の辛苦をなすとも、如何して国造生前の御恩に報いられようぞ。
 実に国造の恩徳は、斯の如く大なれば、その子弟の之に仕えること、さながら曽子の家に、父兄に順わぬような驕傲なものがなく、また孔子(仲尼)の一門に、師友を悪口するものが無いようであった。後に遺された国造の子弟も、論語に「三年無父之道孝矣」とある教訓に合(かな)って、能く父の志を継いで仁政を施し、我等帰化人をも、旧(もと)の如く憐んで下さるに相違ない。
 さて国造は、忠(銘夏堯心)烈(澄神照乾)孝(六月童子)養(意香助坤)を以って、よく人民を教化して、大いに民心を振い作(おこ)した。この「銘夏堯心」からこの句までは、隠語の文で、意味を合せて文字となるのである。(合言喩字)。斯く教化が行われた故、国造の名声は、管子に「無翼而飛者声也」とある通り、後の世に語り伝えられようし、又治下人民の故人を思慕する心情は、同書に「無根而固者情也」とある通り、長く胸底に固結して、永久に忘れられないであろう。

 これまで、那須国造の碑文については解読に異説があるが、いずれにせよ、要は文武天皇四年(七〇〇)正月二日に死去した那須国造で大領那須直韋提のために、意斯麻呂らが韋提の死去直後、その遺徳を偲んで建碑したものであり、意斯麻呂らの委嘱によってこの碑文を起草した者は、那須地方に居住した新羅の渡来人のなかでも、教養のある人であったと思われる。そしてまた、この碑を刻んだ者も渡来人であったと想定される(第80図)。

第80図 那須国造碑文(上拓影、下写真)

 碑文中の永昌元年は西暦六八九年、わが国の持統天皇三年にあたり、唐朝の則天武后のときの紀年である。ここに尾崎喜左雄(群馬大名誉教授)の碑文解読と解釈を記しておこう(「上野三碑と那須国造碑」『古代の日本』7所収)。
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮(あすかきよみはらのおおみや)のとき、那須国造追大壱那須直韋提(なすのくにのみやつこついだいいちなすのあたいいで)、評督(こおりのかみ)を賜わる。歳(ほし)は庚子に次(やど)る年の正月二壬子の日辰節殄(みまか)る。故に意斯麻呂(おしまろ)等碑を立て、銘して偲びて爾(しか)云う。仰ぎ惟(おも)うに、殞公(いんこう)は広氏尊胤にして、国家の棟梁なり。一世の中、重ねて弐照を被(こうむ)り、一命の期(とき)、連ねて再甦を見る。砕骨飛髄、豈前恩に報いん。是(ここ)を以て、曽子(そうし)の家に嬌子(きようし)有ること無く、仲尼(ちゆうじ)の門に罵者(ばしや)有ること無し。孝を行うの子、其の語を改めず。夏堯の心を銘し、澄神乾を照し、六月童子、意沓として坤を助く。作徒の大、喩字を合言す。故に翼無けれども長飛し、根無けれども更に固し。

 (一) 永昌元年は西暦六八九年、わが国の持統三年にあたり、唐朝の則天武后の時の紀年である。碑文は漢文であり、中国の故事を引用してあるので、帰化人、ことに漢人の手に成ったものであろう。年号も唐朝のものを使用している。
 (二) 那須国造は政治機構である伴造・国造制の成立によって、那須地方の権力者がそのまま任命されたものである。
 (三) 那須直韋提の韋提は名、那須直は姓。那須という地名を冠しているので、那須全体を領有していた豪族である。
 (四) 評督は、のちの律令制における郡司である。大化改新の創設時の「こおり」には、評の字が用いられ、藤原京跡出土の木簡(もっかん)からみると、大宝律令制定(七〇一)まで続いたようである。
 (五) 広氏尊胤は良い家柄の意味で、広・尊は氏・胤を形容した語。この両語は対になっている。
 (六) 「一世之中、重被弐照、一命之期、連見再甦」は対句をなしており、一生のうち二度光栄に浴し、重職に再任したことを表わしている。両者とも同じことを意味しているのであろうが、しいて言えば、前者は追大壱の位を与えられ、評督に任ぜられたことであり、後者は那須国造から那須評督に任命されたことであろう。
 (七) 「銘夏堯心、澄神照乾、六月童子、意沓助坤」も対句であって、前文は父親の精神的な感化を、後文は意斯麻呂らの建碑(墳墓築造も含めて?)の努力をあらわしたものと見られる。「銘夏堯心」は「夏堯を心に銘じ」とも読めよう。「六月童子」の意味は不明であるが、「行孝之子」すなわち意斯麻呂らをさしているのではあるまいか。「意沓助坤」の「沓」ははっきりしない文字で「香」とも読まれているが、「沓」の方がよさそうである。沓は水のよどまず流れる貌で、「あふれる」意味をもっている。
 (八) 「作徒之大、合言喩字」はすこぶる読みにくいところで、「作徒の大、喩字を合言す」としたのであるが、建碑にたずさわっていた大勢の人々が、口々に言い合って、たとえてさとす文字を作りあげたという意味にとった。それがつぎの「無翼長飛、無根更固」になる。
 (九) 「無翼長飛、无根更固」を「翼なけれども長く飛び、根なけれども更に固し」と読んだ。無能であるけれども親の名を高くあげ、子は家道をさらに固くしたとの意。

 以上が尾崎喜左雄の那須国造碑についての研究である。また、渡来人について研究業績をもつ今井啓一博士は、「那須国造碑・多胡碑と帰化人」(『帰化人と東国』所収)のなかで、次のように概要をのべている。
 那須国造碑の所在する下毛野、すなわち、下野国に渡来人が居住したことは、持統紀元年(六八七)三月丙戌条に、
  以投化新羅十四人、居于下毛野国、賦田受稟、使生業
同四年八月乙巳条に、
  以帰化新羅人等、居于下毛野国
などとあるので、これらの記事を那須国造碑に見える年次と照応してみると、
持統紀元年(六八七)三月、投化の新羅人十四人が下毛野国に居住する。
持統三年相当の永昌元年(六八九)四月、旧那須国造那須直韋提、那須大領になる。
持統紀四年(六九〇)八月乙巳、帰化新羅人らを下毛野国に居住させる。
文武四年庚子(七〇〇)正月二日、韋提病死。

となる。したがって、国造碑は韋提の病死した文武四年、あるいはその直後に建てられたと思われるので、当時、下毛野国には新羅渡来人、それは単なる百姓以外、必ずや教養のある、例えば僧侶なども安置されていたと考えてよい。また国造碑文を意斯麻呂らの委嘱によって起草した者は、自らの母国新羅は唐の正朔を奉じていたので、永昌の年号をかりて己丑の年を示したと考えられる。それは持統元年三月に下毛野国におかれた新羅人とするよりも、持統三年相当、つまり永昌の年号を母国の新羅で経験し、翌四年八月に下毛野国へ帰化居住した新羅人こそ、この国造碑文の起草者であったろうと考える。もし起草者が日本人であれば、外国の年号は用いなかったろう。
 さらに評督は郡領、あるいは郡司大領と明記すべきであるのに、評は韓言の己富里(こほり)であり『梁書』新羅伝にも、
其俗(中略)其邑在内曰啄評、在外曰邑勒、亦中国之言郡県也。国有六啄評・五十二邑勒

とある。これらによっても起草者は新羅人であると、今井博士はのべている。
 いずれにしても、湯津上村を含めた那須地方は、大和の中央政府の勢威がおよぶ最北端であり、蝦夷の住む地には白河と境していたわけである。だから陸前国多賀城碑には、
  去下野国界二百七十四里
とあり、その里数はともかくとしても、多賀城の位置を示すのに、下野国界を去る云々、としているのである。
 那須国造碑文が新羅人によって起草されたことは、すでに斎藤忠博士も認めていることであるので、今井博士の考証はほぼ首肯できる。ただ、尾崎喜左雄博士が「碑文は漢文であり、中国の故事を引用してあるので、帰化人、ことに漢人の手に成ったものであろう」という考えは誤りであろう。それは、第一節で斎藤博士の考証を引用したので理解することができよう。
 斎藤博士は、那須国造碑については考古学上から、また、文献学上から詳細に検討し、さらに新羅国の歴史に精通されているので、本書は博士の考証を核としたい。博士は『日本古代遺跡の研究』(論考編)で、碑文について次のように述べている。
 那須国造碑の文面を通じて考えられる他の一つのことがらは、この碑文を作成し、碑を建立したものが新羅帰化人であることが考えられる以上、その文体や書風の上から、彼らの素養の程度が知られるという点である。従来この国造碑の研究の場合、個々の辞句の考証に終始し、この文面全体に目を注ぐことが少ない嫌いがあるが、文面全体の研究は帰化人の東国安置を考える場合、看過すべきではない。(中略)
 この文(碑文のこと)を見ても、格調の高い異色ある文であることが知られる。文法も厳格であり、用語も確実である。しかも、既に蓮実氏(蓮実長のことで『那須国造碑考』の著者)も説いているところであるが、その出典は厳正である。たとえば「翼なくして長く飛び、根なくして更に固まる」は『管子』からでている。また夏に銘する云々以下は、いわゆる隠語文に属しているといわれているが首肯すべきであろう。
 さらに文体そのものを、新羅の恵恭王六年(七七〇)のときに鋳成された「聖徳王神鐘」(第81図)の銘文の内容と比較すれば、そこには共通した新羅調というものをも感ぜられ、新羅人の独自な文の風格をもみとめられるのである。

第81図 聖徳王神鐘(慶州国立博物館)
(塙静夫提供、昭和53年撮影)

 また書風自体についても、この時代の金石文、たとえば多胡(たこ)碑の文の書風にくらべても、格段の差があり、秀れていることがうかがわれるであろう。
 このように考えると、この碑文を作った新羅人は、文化の面においても深い素養のあったことが考えられるのである。帰化人が東国に安置された場合、普通考えられていることは、不毛の地を開発するということである。したがって彼ら集団は農民であり、あたかも当時の社会の底辺にあった人々の如くにも解釈されがちである。しかしこの碑文によって考えられることは、文化的に深い素養をもっている人々も、これら移住集団の一部を構成していたということである。したがって彼らは、単に閑地に対する開発という生産経済面のみでなく、その地域の文化の向上にも寄与するところがあったということである。