湯津上村に石碑あり、何人の廟という事を知らず、当所の俗是をただ笠石と申し伝えける。
昔は笠の石を外して常に下に置き、旱魁(かんばつ)あれば村中集り、笠石をかぶせて雨乞いすれば、必ず雨降るなり。然るに水戸公、元禄年中御堂建立あってより、笠石を常に掩(おお)い給えり。
以来雨年多くありければ、諸人笠石を常にかぶせて置き給う故、斯くの如く雨降りなんと申しけり。其の後昔の如く、旱魃に雨乞いすれども降ることなし。
那須記にはこの石碑を、草壁(くさかべ)皇子の御廟碑と記しけれどもさにあらず、水戸公国史等殊の外、御尋ね遊ばされ候え共、其の名を求め得給わず。此の碑の建ちしは、仁王二十二代文武天皇の四年庚子の年に建て給う。元禄年中に至る一千年の雨露に侵され、草むらの中にあり。青苔蒸して御座ありけるを、常陽の大君御堂を建て給うなり。右庚子より元文五年庚申迄凡そ千四十一年に及べり。歳月の久しき、風雨の打つ所となり、字画磨滅して瞭然(りようぜん)たらざるものあり。随って意義を観ずるに苦しむも、新羅人の建てたる日本第一の古碑なり。伝え言う。延宝四年春四月、奥州磐城(いわき)の僧円順(えんじゆん)なる者、水戸領梅ケ平の里正大金重貞の門を叩(たた)き、湯津上郷の草叢(くさむら)の中に碑石あり、土人誤りて之れに腰を掛くれば、痛を発し、或は脚を挫(くじ)き、血を吐(は)くことあるは、高貴の方の記念ならん。と告げければ、重貞これを探りたるに、果して一碑石を発見し、天和三年六月、常陸国新宿西山に退隠中なりし、徳川光圀公が、那須を微行し馬頭に止宿したる折、重貞石碑の記録を上覧に供したるに、後貞享四年九月、儒臣佐々宗淳を従いて那須に入り、精しく調査したるに、那須国造の碑なりしを以て、元禄四年二月起工、十二月竣工を告げ、即ち碑堂を修築して安置す、これ現存する碑堂なり。
昔は笠の石を外して常に下に置き、旱魁(かんばつ)あれば村中集り、笠石をかぶせて雨乞いすれば、必ず雨降るなり。然るに水戸公、元禄年中御堂建立あってより、笠石を常に掩(おお)い給えり。
以来雨年多くありければ、諸人笠石を常にかぶせて置き給う故、斯くの如く雨降りなんと申しけり。其の後昔の如く、旱魃に雨乞いすれども降ることなし。
那須記にはこの石碑を、草壁(くさかべ)皇子の御廟碑と記しけれどもさにあらず、水戸公国史等殊の外、御尋ね遊ばされ候え共、其の名を求め得給わず。此の碑の建ちしは、仁王二十二代文武天皇の四年庚子の年に建て給う。元禄年中に至る一千年の雨露に侵され、草むらの中にあり。青苔蒸して御座ありけるを、常陽の大君御堂を建て給うなり。右庚子より元文五年庚申迄凡そ千四十一年に及べり。歳月の久しき、風雨の打つ所となり、字画磨滅して瞭然(りようぜん)たらざるものあり。随って意義を観ずるに苦しむも、新羅人の建てたる日本第一の古碑なり。伝え言う。延宝四年春四月、奥州磐城(いわき)の僧円順(えんじゆん)なる者、水戸領梅ケ平の里正大金重貞の門を叩(たた)き、湯津上郷の草叢(くさむら)の中に碑石あり、土人誤りて之れに腰を掛くれば、痛を発し、或は脚を挫(くじ)き、血を吐(は)くことあるは、高貴の方の記念ならん。と告げければ、重貞これを探りたるに、果して一碑石を発見し、天和三年六月、常陸国新宿西山に退隠中なりし、徳川光圀公が、那須を微行し馬頭に止宿したる折、重貞石碑の記録を上覧に供したるに、後貞享四年九月、儒臣佐々宗淳を従いて那須に入り、精しく調査したるに、那須国造の碑なりしを以て、元禄四年二月起工、十二月竣工を告げ、即ち碑堂を修築して安置す、これ現存する碑堂なり。
この『那須拾遺記』によると、里人が誤って碑をけがすと必ずたたりがあったことを記している。この怪異譚は碑の並々ならぬことを思わせ、徳川光圀の注目するところとなった。その経緯は次のようである。
延宝四年(一六七六)四月、磐城出身の僧円順より話を聞いた大金重貞は、さっそく、伜小右衛門・弟太兵衛を同道し、数日湯津上へ通い、草むらの中の碑の苔を落とし、碑文を写し『那須記』に載せた。それより七年後の天和三年(一六八三)六月、徳川光圀が馬頭村に来訪した折、重貞は『那須記』を呈上した。このとき、光圀は碑の存在を知った。
貞享四年(一六八七)九月、光圀が再度下向のとき、佐々宗淳に拓本させて読ませ、国造碑であることに疑いないことを知ると、碑を安置する建物を建立した。つまり、建立の経費一切を負担するということであったが、湯津上村は水戸領ではなかったので、次のような手順をとった。先ず、大金重貞に命じて、こちらの領主坂本内記(中湯津上村・名主半左衛門)、安藤九郎左衛門(上湯津上村・名主六助)、代官樋口又兵衛(下湯津上村・名主甚兵衛)らに了承を得なければならないので、地元名主を通じて願いを出し、元禄四年(一六九一)二月に願いが通ると、敷地六反四畝一歩の買収を行い、重貞と名主のあいだで契約証を取りかわした。また、光圀の家臣佐々宗淳は小口の梅ヶ平に派遣され、同三月より普請をはじめた。宗淳は梅ヶ平の大金小右衛門重興(重貞の子)方に逗留し、翌年四月七日に普請は完成した。石碑別当(管理者)は湯津上村の名主たちと相談の上、馬頭村の大宝院に当たらせた。
元禄五年六月二十三日、徳川光圀は馬頭村に下向し、二十五日、湯津上村の石碑を上覧された。この時、重貞が先に立ち、馬にて案内、小口の長峰より矢倉を通り湯津上に着いたが、石碑を上覧すると満足されて、梅ヶ平小右衛門のところで昼食をとり、重貞、小右衛門たちの労をねぎらい、盃を賜わり、午後二時ころ、宿舎馬頭村の百助のところに帰った。翌二十六日、小右衛門たちは百助のところへ昨日のお礼に参上して光圀に会い、銀子を拝領して帰宅した。
元禄六年三月九日、烏山城主永井伊賀守直敬は、百人の行列にて笠石に参詣した。なお、地元永山正樹方に敷地売渡証書写が現存する。