那須国造碑に関する史料

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   畑永代ニ売渡申手形之事
一金子弐分請取 下々畑四畝拾五歩之場所
右永代ニ売渡申所実正ニ御座候 縦御代官替如何様之御世上ニ相成候共 永代ニ売渡申候上ハ 少も六ケ敷儀申上間敷候 為後日依如件

  元禄五年申二月廿五日
              畠売主  安兵衛
              証人   善兵衛
              同    庄次郎
              同    甚兵衛
         上柚上村 証人   権衛門
              同    与惣右衛門
 大金重貞殿
 
   松林永代売渡申手形之事
一金子壱両弐分弐朱請取 笠石脇松林九畝廿歩之所 右永代ニ売渡申処実正ニ御座候 縦御世上ニ如何様之乱御座候共少も六ケ敷儀仕間敷候 為後日依如件

  元禄五年申二月十七日
              湯津上村 惣左衛門
              同    彦三郎
              証人   善兵衛
              同    甚兵衛
              同    庄二郎
 
 大金重貞殿
 
   松林永代売渡申手形之事
一金子三分弐朱請取 笠石脇之松林六畝歩之所右永代売渡申所実正ニ御座候 縦御世上如何様乱御座候共 少も六ケ敷儀仕間敷候 為後日依如件

  元禄五年申二月晦日
            柚上村
              林売主  惣左衛門
              証人   惣左衛門
              同    善兵衛
              同    治左衛門
              同    甚兵衛
              同    庄四郎
 
 大金重貞殿
 
   畠永代売渡申手形之事
一下々畑三畝八歩 金子弐分代五〇〇文請取 永代売渡申所実正ニ御座候 右畠御公儀御年貢之儀ハ不及申 高掛リ共急度上納被成候筈相定メ申候事

一此畠村々不届にも屋敷ニ為立申間敷候筈相定申候 若相立申候共惣村中と相談之上差置申筈に相定候 其外何事によらず惣村中と一身相談可仕筈ニ申定候 縦御代官替 如何様之乱御座候共 御石碑寄進ニ売渡申上ハ 互ニ少も違乱申間敷候 為後日証文依如件

  元禄四年未霜月廿六日
              売主   五衛門
              証人   治左衛門
              同    兵右衛門
              証人   惣左衛門
              与頭   庄次郎
              名主   甚兵衛
 
 大金重貞殿
 
   田畑永代売渡申手形之事
 六斗蒔
 中田九畝六歩    分米九斗六合
 
 とうめん
 中田三畝歩     分米三斗
 
 三斗蒔
 中田壱反壱畝歩   分米壱石壱斗
 中畠六畝拾弐歩   分米三斗六升七合
 下畠壱反壱畝歩   分米一石弐升七合
 右高永代ニ売渡申所実正ニ御座候 縦御世上如何様之乱御座候共右永代ニ売渡申上ハ少も六ケ敷儀申間敷候 為後日依如件
 元禄四年未極月十五日
            上柚上村
              地売人  甚兵衛
              与頭   与惣右衛門
              名主   権衛門
            下柚上    甚兵衛
                   善兵衛
 
 大金重貞殿
 
 (注) この証書一通金額写し洩れにて『県史』大金文書には五両壱分とある。

(永山正樹家文書)

 更に『那須拾遺記』には次のように記している。
 …………馬場の広さ六間に拵(こし)らえ、長さ二十四間あり、又石碑より丑寅の方(北東)十余間をへだてて林の中に、かま場と申し伝えたる処あり。方十間に土手を築き、内は平かにして、真中程に釜の所か、炉の形と見えるあり。下には石を置きたる由、此所は石碑の神霊を火葬に致し候か、扨て御堂の御普請成就して、その年も暮れければ、あら玉の年を迎え、春の暖気を御待ちあって、水戸中納言殿、御供少く忍びやかに御参詣なされ、その序に黒羽へ御越しあって、桜馬場などを御遊覧あって、中川を舟にて御帰府なされけり。
 其の後烏山の城主、永井伊賀守殿も、御供大勢にて石碑へ御参詣なされけり。遠近の老若男女に至る迄参詣いたす事雲霞の如し。
其の頃大金重貞、手作りの操り人形を持参致して、興行をせられける。諸人集ること夥し、前代未聞の事どもなり。石碑の霊は正月二日薨じ給えけれども、いまだ年の始にて、諸人内外いそがしく寒気も強き時節なればとて、二月二日を御縁日と定めて、祭礼を行い給いけり。御供料として、田畑六反四畝一歩を、代金若干にて御買取リ、水戸公より寄附なされ、別当馬頭村大宝院へ仰付られ候。
 然れども今は代替り代移りて、祭礼も怠り参詣いたす人も稀なり。されども大宝院より支配下の山伏をつけ置き御堂を守らせ、掃除を致させけり。

 
   願上申一札之事
一去年中其元ニ御座候御石碑にあまおい仕度と願出申候所ニ、三ケ村の衆中御同心被成御代官様、御伺被成候得ハ拙者願之通被仰付 誠以忝仕合奉存候、然者其許ニ御座候、大塚之事、石碑国造様御先祖之御伝承申候、破損致之所共御座候ハ、夙ニ修理ヲ加候而廻ニ垣抔仕度存候、尤村中御苦労少も掛申間敷間、村中御相談之上、御代官様ヘ被仰上、願之通被仰付下候様ニ御取持願入申候、仍如件

               小口村
                 大金重貞印
 
  元禄五年申の正月
    下湯津上村
      庄屋  甚兵衛殿
      組頭  庄次郎殿
    同中郷
      庄屋  弥左衛門殿
      組頭  又兵衛殿
    同上郷
      庄屋  権右衛門殿
      組頭  与惣右衛門殿
 
   口上書を以申上候御事
一下野国那須郡湯津上村御料并安藤九郎左衛門様坂本内記様御知行所と入会之所ニ、先年より石堂御座候を水戸様御領小口村久左衛門と申者、六尺四方ニ雨おい仕度願申候、惣村中百姓共相談之上雨をい為致、可然様ニ奉存、御詰所御役人様方へ御内意申上候処ニ、雨をい為致候様ニと被仰付候、然共御料地も入会申候ニ付、御内意奉御窺候迄延引仕候様ニ詰所方へ申達候、如何可仕候哉、奉御下知得

  元禄四年未九月
            下湯津上村
              名主  甚兵衛
              組頭  庄次郎
                  総百姓
 
  御代官様
      御手代衆中
 
右之通、柚上村甚兵衛方より訴状差上申候、大形此旨埒明可申候と存候、為念如此申達候、以上
                左良土村
                  与惣左衛門
 
  重貞様
(『県史』より)

 
   尚々以上
一書令啓上候、然共笠石之儀御訴訟相叶申候、雨をい可被成候ハバ早々御出被成候而御相談可遊(ママ)候、諸事申合候儀御座候ハバ、待入申候

  恐惶謹言
 九月十八日            植竹甚兵衛
 
 大金重貞様
 [  ]左平次様
      人々御中
 
(『県史』より)

 
   口上書ニ而相定之事
一当村笠石之儀、此度雨をい被成度旨 惣村中之者共相談仕、段々御公辺迄御内意奉窺候得共、相違無御座候間、御普請御取定可成候、為其我等共連判仕相渡申候、以上

            湯津上村
 
              安藤九郎左衛門様知行所
               名主 権右衛門
 
               組頭  与惣右衛門
 
  未九月十八日      坂本内記様御知行所
               名主 弥左衛門
 
              樋口又兵衛様御代官所
               名主  甚兵衛
  小口村
   大金重貞様

(『県史』より)

 
 湯津上村においては、笠石碑堂ができると諸役人の巡見、参拝等も度々あり、そのつど道や橋の普請清掃と人馬の労力奉仕が要請された。その上、従来通り大田原宿や佐久山宿からの助郷(すけごう)を命ぜられるので、容易なことではなく、笠石碑堂への労力奉仕を理由に、他宿への助郷を免除されるよう、水戸領の小口村大金久左衛門を通じ、水戸様に嘆願し助郷を除かれていた。
 
     乍恐以書付奉願上候
一此度野州那須郡大田原宿助郷より差村被相願候ニ付委細人別帳奉書上候通り人少く村方追々潰レ百姓出来 田畑多分ニ荒所ニ相成り、其上病身者多ク極困窮之百姓御座候得ハ 増助郷被仰付候而も 相勤兼難渋至極ニ奉存候間不恐奉愁願

一元禄年中 水戸黄門公様国造之碑堂被御建 右ニ付年々御順見様其他御役人様度々御出之砌ハ道橋普請掃除等仕人馬差出 村役共御案内仕来申候 尚又御堂修復之節も人馬差出申候

一天明五巳年同州同郡佐久山宿定助郷宇田川村より差村相成候節 右国造碑堂御建立之由緒を以 水戸様御役所江奉願上早速御除ニ相成難有奉存候 然ル所文化十一戊年佐久山宿助郷同州同郡浄法寺村より差村ニ相成道中 御奉行所様より右代助郷御被仰付候ニ付其節 水戸様御役所江奉願上候処早速御公辺江御申立ニ相成候得共最早一旦年限を以被 仰付候事故 年限中は相勤年明キ候上は何方より差村ニ相成候而も早速願出候様 水戸様御領小口村庄屋大森佐平治、同村願人久左衛門を以御達有之候 又候年明キ之節浄法寺村より差村ニ相願候ニ付早速 水戸様御役所江願出 浄法寺村江も右之段相断候ニ付 其節御除ニ相成申候

一文政十三寅年八月佐久山宿助郷同州同郡大沢村外七ケ村より差村被相願候節 御見分御出役様江前文奉書上候難渋之始末 奉願上候猶又 水戸様御役所へも奉願上 御公辺江茂御申立ニ相成候趣ニ而御免除ニ相成候所 又候天保二卯年六月佐久山宿助郷中居八木沢村外廿五ケ村より差村被相願候節も 右同様奉願上御除ニ相成申候 右奉申上候通 極困窮之村方被聞召訳 早速御免除ニ被仰付下置候様奉願上候 右願之通被 仰付下置候ハバ 偏ニ御慈悲重々難有仕合ニ奉存候  以上

           川崎平右衛門御代官所
            野州那須郡湯津上村
              名主  源五右衛門印
              組頭  覚左衛門印
              百姓代 文右衛門印
            坂本亀太郎知行所
             同村
              名主  弥左衛門印
              組頭  勇三郎印
              百姓代 忠右衛門印
  天保三年辰五月
           伊沢助三郎知行所
             同村
              名主  長左衛門印
              組頭  重兵衛印
              百姓代 元右衛門印
           花房平左衛門知行所
             同村
              名主  半之丞印
              組頭  喜惣次印
              百姓代 友三郎印
 
   木村忠蔵様
   中川亮平様
(永山正樹家史料)

 
 『那須記』における国造碑は持統三年、天武天皇と持統天皇(天武天皇の妃、天皇没後皇位を継ぐ)の御子である草壁の皇子(六六二~六八九)が亡くなり、湯津上の地に埋葬し、御陵を築き碑を建てたものと解している。那須国造直韋提が評督(こおりのかみ)に任ぜられたのは持統三年である。
前文略
此碑立人皇四十二代文武四年庚子なり 此年より九百七十七年ニ当テ 延宝四年丙辰五月同国同郡梅平村大金久左衛門重貞 始テ湯都神郷飛鳥浄御原皇子草壁ノ塋ニ参詣仕テ 彼碑銘も拝見仕ニ 石碑ニおゝひなければ 千年の雨露に侵され 日に被照苔重文字をうつミ無実正 重貞かゝる古跡の碑銘を不読明ハ誰人か後世ニ可奉拝、発仕と悲しみ 小石を以彼苔を摩(なで)落し 文字に墨を入テ雖拝見スト猶不足なり 重貞嫡子大金小右衛門重興 弟大金太兵衛昭良を召しつれて行テ拝見仕ニ不実也 以六度通テ碑銘を写し 家ニ帰リ知人ニ逢テハ改彼聞是ヲ 伝テ今此ニ書写すなり
(中略)
然ニ天和三癸亥六月七日水戸府君権中納言光圀公 下野国那須郡武茂庄馬頭村ニ御付被遊其時依御召重貞伺公仕ル 則那須記を献ず