明治になってからは、いわゆる禄をはなれたので、字民の自力で修復しなければならなくなり、明治十四年には笠石神社再建の計画をたて、事業費壱千円を目標に寄付募集を行った。火災によって碑堂が焼失したのは、その前年、明治十三年十二月と思われる。
現在の碑堂は、この時の寄付募集によって再建されたもの(第82図)と思われるが、寄付帳や再建年月日を記録したものは残存していない。おそらく、当時の湯津上村の世話人たちが、分担地域をきめて寄付募集を行ったのであろう。募集村の世話人には、国造碑の拓本を贈呈した記録が残っている。しかし、寄附は思うように集まらず、遠村まで何度も訪ねたり、あるいは徒労におわったりして、随分苦労を重ねたようである。
第82図 笠石神社の碑堂(那須国造碑安置)