笠石碑堂の修復

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碑堂の修復については、碑堂が元禄四年(一六九一)着工、翌五年完成したのであるが、それより六十年後の寛延四年(一七五一)に第一次の修復、寛政二年(一七九〇)に第二次、文政六年(一八二三)第三次、安政三年(一八五六)第四次の修復が行われた。いずれも費用は水戸藩公の負担であった。
 明治になってからは、いわゆる禄をはなれたので、字民の自力で修復しなければならなくなり、明治十四年には笠石神社再建の計画をたて、事業費壱千円を目標に寄付募集を行った。火災によって碑堂が焼失したのは、その前年、明治十三年十二月と思われる。
 現在の碑堂は、この時の寄付募集によって再建されたもの(第82図)と思われるが、寄付帳や再建年月日を記録したものは残存していない。おそらく、当時の湯津上村の世話人たちが、分担地域をきめて寄付募集を行ったのであろう。募集村の世話人には、国造碑の拓本を贈呈した記録が残っている。しかし、寄附は思うように集まらず、遠村まで何度も訪ねたり、あるいは徒労におわったりして、随分苦労を重ねたようである。

第82図 笠石神社の碑堂(那須国造碑安置)