下野国那須湯津上村の碑文にてみれバ、我国暫く唐の年号を用ひられしにや、其文左の如し、
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮那須国造追大壱那須宣事提評督被レ賜、歳次二庚子一年正月二壬子日辰節、弥故意斯麻呂等立二碑銘一、偲云、爾仰推殞公広氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照一命之期連見再甦砕骨視髄豈報前恩、是以曽子之家、无有嬌子、仲尼之門、无有罵者、行孝之子不改其語、銘夏堯心澄神照乾六月、童子意香助坤作徒之大合言喩寄故无翼長飛無根更固 [那須拾遺物語にハ弥故を殄古と見えたり]
良峯宗淳が云く、永昌元年ハ持統天皇の三年に当る、那須拾遺物語に云く、至りて堅きみかけ石に細字に刊り付けたる故、文字砕けてみえず、嬌の字ハ嫡の様に見え、香の字ハ杳の如くみえ、終の行の大の字を、六の字に見たる人もあり。
(県史『昆陽漫録』)