田熊信之訓読

135 ~ 136
 『那須国造韋提碑文釈解』によれば次のように解読している。
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
永昌元年己丑(キチウ・つちのとうし)の四月、飛鳥浄御が原の大宮(あすかきよみがはらのおほみや)より、那須の国の造(くにのみやつこ)の
追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年
追大壱なる那須の直韋提(あたひヰデ)は、評督(こほりのかみ)を被(かがふ)り賜(たま)ふ、歳(ほし)は次(やど)れる庚子(カウシ・かのえね)の年
正月二壬子日辰〓〓
正月二壬子(ジンシ・みづのえね)の日辰の節(とき)に殄(みまか)りぬ。
故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
故(かれ)意斯麻呂(オシマロ)等、碑銘を立て偲(しの)びて爾(しか)云ふ。
仰惟〓公広氏尊胤国家棟梁
仰ぎ惟(おも)ひみるに、殞公(キンコウ)は、広氏の尊胤(ソンイン)にして、国家の棟梁たりき。
一世之中重貳照一命之期連見再甦
一世の中重(うちかさ)ねて弐照(ジンヤウ)せ被(ら)れ、一命の期連(ときつら)ねて再甦(サイソ)せ見(みら)る。
砕骨挑髄豈報前恩
骨を砕き髄を挑(かか)げ、豈に前恩に報ひむ。
是以曾子家无有嬌子仲尼之門
是を以(も)って、曽子の家には嬌子(けうし)有ること无く、仲尼の門には、
元有罵者
罵者有ること无し。
行孝之子不改其語
孝を行なふの子は、其の語を改めざりき。
銘夏堯心澄神照〓六月童子
夏(おほき)なる堯が心を銘し、神の乾(ケン・とく)を照せしを澄(きよ)め、六月の童子も、
意香助坤作徒之大
香(かほり)の坤(コン・とく)を助くるを意(おも)ひて、徒(たみ)の大(にぎはひ)を作(な)さむ。
合言喩字
合(まさ)に言(ここ)に字を喩(つ)ぐべし。
故無翼長飛无根更固
故翼(かれつばさ)無くて長(とこしな)へに飛(かけ)り、根无(ねな)くて更に固(かた)まる、と。
 
(大意)
 永昌元年己丑の四月に、飛鳥浄御原の大宮から、那須の国造の追大壱でありました那須の直韋提は、評督との位階役職を授かりました。そして庚子の歳の正月二日壬子の日の辰の節に、長逝しました。
 そこで遺嗣子意斯麻呂を首とします私共は、碑銘を立て遺徳を頌し、故人を祀りました。うやうやしく仰ぎ奉りますと、長逝しました公(きみ)は、広氏の尊い後胤で、那須国の柱とも言うべき方でありました。その一生は、浄御原の大宮より国造追大壱にあげられ、さらに評督職位階を下賜されて、二度にわたっての光栄にあづかり、光輝ある命脈を高めました。「骨を打ち砕き髄をうちつかみ挑げ、身を尽くして大宮よりの恩顧に報いよう」。これは君公(きみ)の言葉でありました。孝、忠にもとづき恩顧を敷衍(ふえん)し人徳を具体化しました。ですから、日に三省(せい)の孝人曽参(そうしん)の家門に驕りたかぶる者が一人もなく、その師人間宗師(そうし)の仲尼(ちゅうじ)先生孔子の門流に人を罵りけなす者が全くいませんように、わが門流、家門にも、孝、忠を覆(くつか)えす愚輩がいませんのです「孝を行なう子というのは、亡くなった父の語(道)を三年が間は堅く鎮魂して遺徳を高め広める」と言われますが、私(共)も、父君の語を変えはしませんでした。治水治民、忠、孝を具体化しましたあの偉大な孔子聖帝堯の心を心肝に銘記し、天照日女尊大宮の褒め讃えられました先君の徳を澄め、六箇月の喪にあります遺嗣子(私共)も、先父君の遺徳が自己の徳を助長してくれますのを思い、下民への治績をあげ、家と人とを殷賑させるでありましょう。ここに結びの文字が告げられる次第です。そこで、「魂魄の化された鳥ではない人間に翼はありませんが肉声に尽くされていた故人の遺徳は、翼なしに永劫自在、どこまでも徳化を飛翔させ、霊性を横溢させる樹木ではない人間に根茎はありませんが、余情、名望、遺馨は張りめぐらされ、磐石のように、堅固不滅となる」と記すのです。