大化改新の詔(六四六年)のなかに、
初修二京師(みさと)一、置二畿内国司、郡司、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)一、及造二鈴契(すずしるし)一(中略)、凡給二駅馬、伝馬一、皆依二鈴伝符剋数一、凡諸国及関給二鈴契一、並長官、皆次官報(『日本書紀』)
とあるが、これは『飛鳥浄御原律令』(六八一年)または『大宝律令』(七〇一年)の条文転載によって造作された部分が少なくないことは、多くの史家によって指摘されているところである。とくに、この詔のなかの駅伝制に関する条文は、『大宝律令』の条文によって、その大部分を造作したという疑いはきわめて濃厚のようである(田名網宏『古代の交通』)。
田名網宏(東京都立大学名誉教授)は、改新詔の駅馬・伝馬に関する記事は、七世紀中ごろのある時期に、唐(とう)制採用による律令国家建設の方向が推進される過程のなかで、駅伝制の採用の方針もとられたという程度以上には解せられないという。しかし、律令国家が樹立する以前の大和国家時代に、大和から東山道の道筋は、すでに古墳の分布状態からみて形成されていたことは首肯できる。地方行政の諸制度の整備は、律令政府がもっとも力を注いだところであり、五畿(ごき)七道の整備は、これまでの分散的なものから、都を中心とする放射線の形をとって、統一的に急速にすすめられていったことはいうまでもない。したがって、駅伝制は『大宝律令』の制定を画期として、急速に全国的に設置がいそがれ、延暦(えんりゃく)ころまでにはほぼ完成したようである。
律令国家のもとでは、大和国家時代のような交通路では国司(こくし)・郡司(ぐんじ)による地方行政は不可能であったから、中央の都と地方の国衙(こくが)を結ぶ五畿七道と、七道と国衙・郡衙(ぐんが)(郡家(ぐうけ))への支路は、かなり整備が急がれたにちがいない。国衙・郡衙を中心とした道路は、大化前代の国造によってある程度整備はされていたであろう。これを基にして、大化改新以後、地方行政をすすめる過程において交通路が一段と整備されたことはいうまでもない。とくに、五畿七道の整備と駅伝制とは密接な関係をもっていた。
ところで、厩牧令(きゅうぼくりょう)の諸道置駅条に「凡諸道須レ置レ駅、毎二卅里一置二一駅」とあるので、駅は諸道に置かれたことがわかる。また、七道は駅使(えきし)往来の重要度によって、大路(だいろ)・中路(ちゅうろ)・小路(しょうろ)に分けられたが、東国に対しては蝦夷討伐と奥羽の開拓という律令政府にとっては放置できない問題があったので、東海道と東山道は中路であった。大路は山陽道とこれに続く大宰府までであった。これに次ぐものが東国・奥羽にいたる東海・東山両道であったわけである。
諸道に置かれた駅は、原則として三〇里(今の約五里)ごとに一駅が設けられたが、これは地形的な諸制約によって原則を守ることは困難であった。駅が設けられる条件は、駅路(えきろ)に沿った平坦な地形であること、駅馬(えきば)に必要な水や草が得られること、駅子(えきし)をだす駅戸(えきこ)の集落が付近にあること、駅と駅との間隔が適当であることなどである。
さて、湯津上村内に設けられたと思われる磐上(いわかみ)駅について記す前に、下野国内におかれた各駅について略記しなければならない。それは、東山道のおおよその位置を推定する必要があるからである。
『延喜式』の諸国駅伝馬の項によると、下野国には足利・三鴨(みかほ)・田部(たへ)・衣川(きぬかわ)・新田(にいた)・磐上・黒川の七駅が設けられ、各駅にはそれぞれ一〇疋(ひき)の駅馬(えきば)がおかれていた(第83図)。
第83図 東山道と磐上駅
下野国駅馬[足利・三鴨・田部・衣川・新田・磐上・黒川各十疋] 伝馬[安蘇・都賀・芳賀・塩屋・那須郡各五疋] (『延喜式』)
ここに記されている駅伝の所在駅と駅伝馬疋数は、九世紀から一〇世紀初めごろの状態といわれている(田名網宏『古代の交通』)。さきにも触れたように、駅(駅家(うまや))は諸道に沿い、または国衙・郡衙(郡家)と結ぶ適当なところに置かれたわけであるが、伝馬(てんま)の場合は郡に置かれ、それは各郡衙に付随して置かれたようである。伝馬の数は那須郡の場合五疋である。各駅にはその運営にあたる駅長(えきちょう)と駅馬の養飼にあたる駅子(えきし)がおかれた。駅に常備されている馬や宿舎を利用できるものは、公用で旅をする官吏に限られていて、一般の人びとは利用できなかった。
上野国から下野国をへて奥羽にいたる東山道で、下野最初の駅は足利である。足利駅は足利の岩井付近と推定され(『足利市史』第一巻)、三鴨駅は三毳山(みかもやま)の西方あたりに、田部は上三川町多功付近に、衣川駅は宇都宮市石井付近に、新田駅に氏家町狭間田(はざまだ)近くの厩久保(うまやくぼ)(金坂清則「下野国」『古代日本の交通路』Ⅱ所収)磐上駅は湯津上付近、黒川駅は那須町伊王野地区南部(『那須町誌』前編)とそれぞれ推定されている。これらの各駅を結んで東山道は下野国内を通過し、白河方面に達していた。
ところで、本村湯津上地内と想定される磐上駅について、少しく述べてみよう。磐上駅の位置について金坂清則(福井大学助教授)は次のように述べている(金坂「下野国」『古代日本の交通路』Ⅱ所収)。
磐上駅を現在大田原市内の石上とした『下野国誌』、『日本地理志料』の説は、東山道からはずれ、音も通じぬことから誤っており、那珂川流域に求められねばならない。『上代歴史地理新考』は、東山道の道筋と「石上も古訓イソカミにてユツカミも共に一語の互転に出でしや」を根拠に湯津上に比定する『大日本地名辞書』説を右の互転があり得ないと否定し、「恐らくは箒川の左岸即湯津上より少し西南に当るべし」と述べ、西ノ原・佐良土付近を想定しているようである。しかし磐上駅は『和名抄』の石上郷にあったと考えられるので石上→磐上→湯津上の転化は認めうる余地があろうし、『駅路通』は「湯津磐村といふ古語あれば直ちにユヅともよむべし」と述べ、湯津上に比定している。
ところで、新田駅から喜連川丘陵を北東行してきた東山道は、式内社三輪(みわ)神社(三和神社の誤り)の鎮座する丘陵麓から、上河原部落の南の円墳まではそのまま進み、ここからは那珂川右岸の段丘上を北行していたと考えられる。この道は地形によく適合した直線路で、関(せき)街道の名も残している。駅にいたるまでに、那須郡家(ぐうけ)や四つの寺院跡の集まる箒川右岸の那須郡の地域中心の東を通り、上侍塚・下侍塚の特異な前方後方墳(大字湯津上)をすぐ右に見て、那須国造碑に出る。これは上野三碑と並ぶ律令期の重要石碑であり、国造制の成立によって那須国造に任命され那須地方全体を領有し、朱鳥(しゅちょう)三年(六八九)に那須評督(こおりのかみ)になった豪族の那須国造直韋提(いで)の死をしのんで建てられたものであるので、この地は郡家付近と共に地域中心であったか、何か目立つ地点であったと考えられる。ところがこの北西に接して堀ノ内・坊ノ内・地蔵堂・西坪西・九斗蒔などの小字があって、方約二町の地割が検出され、すぐ南に交通神の熊野神社があり、微(び)地形的にも秀れており、しかも新田駅から一九キロメートル弱、黒川駅から一七キロメートル弱にあたり距離的にも妥当なことから、ここが駅家の地で、碑の建立と余りへだたらない時期に設けられていたであろう駅家が、碑の立地に際し考慮されたのではないかと推測しえよう。東山道はここから寒井まで約一〇キロメートルは同じ段丘上を真直に北行していた。なお駅家(うまや)を真北に延長すると、黒羽の中央街路など若干の地割があり、地形的にも自然なことから、東山道は現在の県道の少し西を通っていたとも思われる。
ところで、新田駅から喜連川丘陵を北東行してきた東山道は、式内社三輪(みわ)神社(三和神社の誤り)の鎮座する丘陵麓から、上河原部落の南の円墳まではそのまま進み、ここからは那珂川右岸の段丘上を北行していたと考えられる。この道は地形によく適合した直線路で、関(せき)街道の名も残している。駅にいたるまでに、那須郡家(ぐうけ)や四つの寺院跡の集まる箒川右岸の那須郡の地域中心の東を通り、上侍塚・下侍塚の特異な前方後方墳(大字湯津上)をすぐ右に見て、那須国造碑に出る。これは上野三碑と並ぶ律令期の重要石碑であり、国造制の成立によって那須国造に任命され那須地方全体を領有し、朱鳥(しゅちょう)三年(六八九)に那須評督(こおりのかみ)になった豪族の那須国造直韋提(いで)の死をしのんで建てられたものであるので、この地は郡家付近と共に地域中心であったか、何か目立つ地点であったと考えられる。ところがこの北西に接して堀ノ内・坊ノ内・地蔵堂・西坪西・九斗蒔などの小字があって、方約二町の地割が検出され、すぐ南に交通神の熊野神社があり、微(び)地形的にも秀れており、しかも新田駅から一九キロメートル弱、黒川駅から一七キロメートル弱にあたり距離的にも妥当なことから、ここが駅家の地で、碑の建立と余りへだたらない時期に設けられていたであろう駅家が、碑の立地に際し考慮されたのではないかと推測しえよう。東山道はここから寒井まで約一〇キロメートルは同じ段丘上を真直に北行していた。なお駅家(うまや)を真北に延長すると、黒羽の中央街路など若干の地割があり、地形的にも自然なことから、東山道は現在の県道の少し西を通っていたとも思われる。
那須国造碑の位置する付近に磐上駅を想定する金坂説はほぼ正しいであろう。蓮実長も『那須郡誌』のなかで、磐上は湯津上笠石の辺が中心と述べている。そして那須郡を通過する東山道は関街道と称したが、これは白河関を経由するために付された名称であることを記し、東山道の通っていたところを次のように記述している(『那須郡誌』)。
新田より本郡荒川村鴻山(長者平の西北端、俗称タツ街道より右に岐れて北向し、小白井の低地に下る将軍道跡がある)を経て小白井に至り(将軍道と称する道跡存す)小白井より東西に分けて二道がある。その東するものは、西するものよりも古い。彼(か)の延喜式に磐上とあるのは即ち湯津上なるに徴すべく、湯津上を通ずるものは即ち東せし関街道である。又西せしものは鉄道開通以前まで、旗宿(はたじゅく)、伊王野、寒井、余瀬(よぜ)、福原と、副道としての宿次のあったもので、前者よりは新しい。小白井より東に向えるものは、下江川村上川井に出で、同地北方の丘陵を上下して志鳥に通ずる。志鳥より那珂村片平(かたひら)に出で、それより北上して三輪(式内社三和神社あり)恩田(那須与一を祀れる御霊あり)梅曽、浄法寺(奈良朝時代の寺院の跡があって、瓦出土する)佐良土西原を経て湯津上に達し(湯津上上侍塚の北方現県道より東に入り、那珂川に近き荒蕪地に、関街道の道跡と称するものが現存する)それより金田村南金丸を過ぎて川西町余瀬に至る。
(後略)
(後略)
このように、磐上駅については、湯津上地内の那須国造碑が位置する付近に想定する説が多くの研究者によって主張されてきた。しかしながら、駅の位置について想定しながらも、駅戸については何ら触れていない。駅(駅家)が設けられる近くには集落がなければならないだろう。この磐上駅に付随する集落―駅戸―が『和名抄』に記載されている石上郷であったろうと思われる。つまり、那須国造碑の位置する西側一帯にあたるところに、石上郷があり、これに隣接して磐上駅があったとみてよいだろう。この地には小松原(こまつばら)遺跡という奈良から平安時代にかけた大集落跡がある。那須国造碑の北西約三五〇メートルに位置し、これから南に遺跡は広がっている。