藤権守貞信卿、天治二年(一一二五)奥州八溝山の凶賊岩嶽丸を退治し、恩賞として下野国那須の守護を賜わり、那須郡に神田城を築きて居る。貞信其先は讃岐国神田を拝領せしが故に、本所を慕いて神田と名づく、云々……とある。
(当時は「守護職」の制はまだ無かったから那須の地を賜わったものであろう。『那須記』には更に、貞信那須に住し、那須藤の権守貞信と号し後に那の字を略して須藤と名乗るとある)
これについて『那須郡誌』の著者は、烏山町天性寺伝那須系図による長治二年(一一〇五)に岩嶽丸を討伐したとするのが妥当であろうと言っている。(当時は「守護職」の制はまだ無かったから那須の地を賜わったものであろう。『那須記』には更に、貞信那須に住し、那須藤の権守貞信と号し後に那の字を略して須藤と名乗るとある)
神田城には貞信より資隆に至る六代が居住したとされる。資家(のち貞信と改む)資通・資清・宗資・資房(始めて那須を称す)資隆と続く。資隆に至って高館(現在黒羽町)に城を築いて移った。
弓矢の誉れの与一宗隆は資隆の第十一子である。『小川町誌』によると、与一宗隆は、高倉天皇の嘉応元年(一一六九)神田城において出生し、寿永二年(一一八三)十二月(説)源義経に随身して出陣した。屋島の戦に弓矢の勲功をたて、那須総領となり、下野武者所に任ぜられ資隆と改名した。文治五年(一一八九)八月八日石清水八幡宮参拝後急死し、伏見即成院に葬られた。(後に山科泉涌寺に移さる)恩田に遺骨を納めて廟を建てて祀った。これが現在の御霊神社であるとしている。
御霊神社(小川町恩田)
また一説には資房が須藤権守貞信であるとも言われる。資隆は小山政光の妹を妻に迎えて十一男を儲け、宇都宮俊綱の女を後妻として資頼(幼名御房子)をあげた。
『那須記』による那須家系図
那須家系図 (黒尾東一編著『那須記』より)