十郎為隆・与一宗隆の二人は、年少の故を以て父母のもとに居た。
治承四年(一一八〇)八月源頼朝伊豆に兵を挙げるや、奥州藤原秀衡の館にあった義経は、兄頼朝を援けようと、同年十月伊豆に駈せ向かうその途次、下野国那須粟野宿(黒羽町余瀬)に至り、那須氏の盛名を聞き、十郎為隆・与一宗隆の二子を召して臣下とした。時に宗隆十五歳という。これより二人は義経の軍中の人となる。一行はこれより喜連川を通り鎌倉さして道を急いだ。
以下『那須記』により那須兄弟一族の分知までを略述しよう。
元暦二年(一一八五)屋島の戦に臨んで那須十郎為隆は、弟宗隆を近づけて言うには「今度源氏の大勢屋島を攻めれば平家は必ず敗れるだろう。そうなると九人の兄達は、必ず討たれることになる。家来の角田源内をひそかに屋島へ遣わし意見したいと思うがどうか」と相談すると宗隆も「それがよかろう」と源内を遣わし、光隆を始め兄達を説得した。始めはいさぎよく討死せんとて聞き入れなかった兄達も「それはもっともなる武士の本意ではありまするが、後日父上の御難儀ともなる事故、理をまげて疾く疾く落ち給え」とすすめられて、遂に屋島を落ちて姿を隠した。
二月二十日、平家は海上にて船より、義経勢は陸より波打ち際まで攻めよせて、互に弓矢の射合い戦を為したが、勝負はつかない。
さて夕方近く沖より飾りたてたる船一そう、渚に向って漕ぎよせる。船中より柳色の五つ重ねに紅の袴をつけたる、絶世の美女現われ、紅の扇に日輪を出したるを竿にはさんで、船の舳先(へさき)に立て置きて「これを射給え」と招いだ。このたぐいまれなる美女は、建札門院の后たての儀式のため、千人の中より選び抜いた美人雑司(女官)で、玉虫の前と号し享年十九歳、この扇を源氏射当てれば源氏勝つべし、はずせば平家勝つべしの意を含めて玉虫の前は船底に入った。
義経、畠山重忠に「あの扇を射よ」と命ずる。重忠「君の仰せ、家の面目とは存じまするが、これはゆゆしき晴れの業(わざ)、重忠打ち物とっては鬼神をも怖れませぬが、自体脚気の者、さき頃馬にふられて気分勝れませぬ。射損じては自分の恥はともかくも、源氏の疵ともなりますれば他人に仰せつけらるべし」と辞退し、重忠更に申すには「那須の兄弟ならば、必ずやつとめましょう」と言う。「さらば十郎を召せ」と十郎が召し出された。義経十郎に向かい「あの扇を射よ」と命じたが十郎「一の谷の岩石を落し候とき、馬弱くして弓手の臂(ひじ)を砂につかせ候が、灸治いまだ癒えず、小ぶるいして定まらず、ついては、弟与一は小兵にては候へども、翔鳥(かけどり)、的などの外るることはまれにて候、定の矢仕るべく候」と申上げる。判官腹をたて「都を出ずる時、西国にて我が下知にそむかん者は、是より鎌倉へとくとく帰り給え」と申せしに、これまで属し来て、今更そむく事は思いもよらず、早や早や本国へ帰り給え、と怒りければ、十郎及ばず弟に暇乞いして信濃の方へ下らんとする。判官「与一」を召せと命ずる。宗隆其の日の装束には、村こんの直垂(ひたたれ)に、ひおどしの鎧着て、鷹角の反甲猪首に着し、二十四さいたる中黒の矢負い、滋藤(しげとう)の弓の真中にぎり、赤銅作りの太刀をはき、鵜黒の駒に乗らんとせしが、兄十郎が勘当こうむりし時の馬なりと思い返して、さびつきげの太くたくましきに、千鳥の飛び散った貝鞍置いて打乗りけるが、進みいで弓とり直してかしこまる。――中略――甲を脱いで川井八郎教国に持たせ、もみえぼし引き立て、薄紅梅の鉢巻して手綱かいどり、扇の方へ打ち向かいける。生年十七歳(一説には十九歳)色白く小髭生え、弓の取様、馬の乗りふり、ゆうなる男に見えける。敵味方の軍勢見守る中を、海中に乗り入れる。扇は風にくるりくるりと回って静まらぬ、与一めい目し「日本国中の大小の神祇 別して八幡大菩薩 下野日光・宇都宮ならびに湯泉大明神、海底八大龍神 弓矢の冥加あるべくは、扇をしずめ給え、若し源氏の運極りなば、矢をはなさぬ前に海中へこの身を沈め給え」と祈念して、暫らくあって目を開き見れば扇は座にぞしずまりけり。扇の日輪を射るはおそれおおいと、要の上部をねらい定めて、ひょうと放つ、ねらい違わず鏑(かぶら)矢は要の上一寸程をふっと射切って扇は空に飛び上がり、しばらく舞って海に落つる…………
かくてそれからの戦いに平家は西海に亡び軍勢鎌倉に戻る。頼朝那須与一を召され、那須の総領に任ぜられ、所領を五ケ国賜わった。武蔵国の大田の庄・信濃国の角豆(ささげ)の庄・若狭国の東宮の庄・丹羽の国の五賀の庄・備中国の絵原の庄である。一方与一の兄太郎光隆たち九名は、平家の軍を離れて郷里高館の父のもとに在り、梶原平三景時は頼朝に進言し、自ら総大将となり光隆兄弟討伐に向かい、苦戦の末高館城を攻め落したが、父の資隆以下九人の兄弟たちはすでに城を脱出して八溝の麓に身を隠して了った。梶原勢はやむなく空しく鎌倉に引き返した。後に資隆は福原の城に入り、九人の子たちは信濃の諏訪にかくれ住み、本国に帰参の叶うよう諏訪大明神に願をかけお詣りを重て日を送った。
矢嶋を追われた十郎為隆も諏訪に逃れゆき、偶然九人の兄たちとめぐり会った。やがて、五郎之隆兄弟を代表して鎌倉へ上り、弟与一に会い、畠山重忠公に頼んで頼朝公に兄たちの赦免を請い、改めて一同を鎌倉によび今后の忠誠を誓い、晴れて赦されることになった。早速兄弟揃って那須へ帰国し、資隆以下十郎為隆まで、資隆の領内に夫々領地をあてがい、各地の那須家の祖として落ち着くことになったのである。
与一の兄弟たちは次のように分知された。(『那須郡誌』による)
二月二十日、平家は海上にて船より、義経勢は陸より波打ち際まで攻めよせて、互に弓矢の射合い戦を為したが、勝負はつかない。
さて夕方近く沖より飾りたてたる船一そう、渚に向って漕ぎよせる。船中より柳色の五つ重ねに紅の袴をつけたる、絶世の美女現われ、紅の扇に日輪を出したるを竿にはさんで、船の舳先(へさき)に立て置きて「これを射給え」と招いだ。このたぐいまれなる美女は、建札門院の后たての儀式のため、千人の中より選び抜いた美人雑司(女官)で、玉虫の前と号し享年十九歳、この扇を源氏射当てれば源氏勝つべし、はずせば平家勝つべしの意を含めて玉虫の前は船底に入った。
義経、畠山重忠に「あの扇を射よ」と命ずる。重忠「君の仰せ、家の面目とは存じまするが、これはゆゆしき晴れの業(わざ)、重忠打ち物とっては鬼神をも怖れませぬが、自体脚気の者、さき頃馬にふられて気分勝れませぬ。射損じては自分の恥はともかくも、源氏の疵ともなりますれば他人に仰せつけらるべし」と辞退し、重忠更に申すには「那須の兄弟ならば、必ずやつとめましょう」と言う。「さらば十郎を召せ」と十郎が召し出された。義経十郎に向かい「あの扇を射よ」と命じたが十郎「一の谷の岩石を落し候とき、馬弱くして弓手の臂(ひじ)を砂につかせ候が、灸治いまだ癒えず、小ぶるいして定まらず、ついては、弟与一は小兵にては候へども、翔鳥(かけどり)、的などの外るることはまれにて候、定の矢仕るべく候」と申上げる。判官腹をたて「都を出ずる時、西国にて我が下知にそむかん者は、是より鎌倉へとくとく帰り給え」と申せしに、これまで属し来て、今更そむく事は思いもよらず、早や早や本国へ帰り給え、と怒りければ、十郎及ばず弟に暇乞いして信濃の方へ下らんとする。判官「与一」を召せと命ずる。宗隆其の日の装束には、村こんの直垂(ひたたれ)に、ひおどしの鎧着て、鷹角の反甲猪首に着し、二十四さいたる中黒の矢負い、滋藤(しげとう)の弓の真中にぎり、赤銅作りの太刀をはき、鵜黒の駒に乗らんとせしが、兄十郎が勘当こうむりし時の馬なりと思い返して、さびつきげの太くたくましきに、千鳥の飛び散った貝鞍置いて打乗りけるが、進みいで弓とり直してかしこまる。――中略――甲を脱いで川井八郎教国に持たせ、もみえぼし引き立て、薄紅梅の鉢巻して手綱かいどり、扇の方へ打ち向かいける。生年十七歳(一説には十九歳)色白く小髭生え、弓の取様、馬の乗りふり、ゆうなる男に見えける。敵味方の軍勢見守る中を、海中に乗り入れる。扇は風にくるりくるりと回って静まらぬ、与一めい目し「日本国中の大小の神祇 別して八幡大菩薩 下野日光・宇都宮ならびに湯泉大明神、海底八大龍神 弓矢の冥加あるべくは、扇をしずめ給え、若し源氏の運極りなば、矢をはなさぬ前に海中へこの身を沈め給え」と祈念して、暫らくあって目を開き見れば扇は座にぞしずまりけり。扇の日輪を射るはおそれおおいと、要の上部をねらい定めて、ひょうと放つ、ねらい違わず鏑(かぶら)矢は要の上一寸程をふっと射切って扇は空に飛び上がり、しばらく舞って海に落つる…………
かくてそれからの戦いに平家は西海に亡び軍勢鎌倉に戻る。頼朝那須与一を召され、那須の総領に任ぜられ、所領を五ケ国賜わった。武蔵国の大田の庄・信濃国の角豆(ささげ)の庄・若狭国の東宮の庄・丹羽の国の五賀の庄・備中国の絵原の庄である。一方与一の兄太郎光隆たち九名は、平家の軍を離れて郷里高館の父のもとに在り、梶原平三景時は頼朝に進言し、自ら総大将となり光隆兄弟討伐に向かい、苦戦の末高館城を攻め落したが、父の資隆以下九人の兄弟たちはすでに城を脱出して八溝の麓に身を隠して了った。梶原勢はやむなく空しく鎌倉に引き返した。後に資隆は福原の城に入り、九人の子たちは信濃の諏訪にかくれ住み、本国に帰参の叶うよう諏訪大明神に願をかけお詣りを重て日を送った。
矢嶋を追われた十郎為隆も諏訪に逃れゆき、偶然九人の兄たちとめぐり会った。やがて、五郎之隆兄弟を代表して鎌倉へ上り、弟与一に会い、畠山重忠公に頼んで頼朝公に兄たちの赦免を請い、改めて一同を鎌倉によび今后の忠誠を誓い、晴れて赦されることになった。早速兄弟揃って那須へ帰国し、資隆以下十郎為隆まで、資隆の領内に夫々領地をあてがい、各地の那須家の祖として落ち着くことになったのである。
与一の兄弟たちは次のように分知された。(『那須郡誌』による)
太郎光隆 森田を分知され森田太郎と称し、元荒川村森田に築城す。
次郎泰隆 佐久山を分知され佐久山次郎と称し、佐久山御殿山に築城す。
三郎幹隆(もとたか) 芋淵を分知され芋渕三郎と称し、元伊王野村大字睦家字芋渕に築城す。
四郎久隆 福原に分知され、福原四郎と称し福原に築城すとあるが、片府田に築城して居住し、後年城は佐久山に移ったと言われる。福原永興寺に墓がある。
五郎之隆 福原に居住、兄四郎久隆子なく之隆あとをつぐ。宗隆の没後那須宗家をつぐとある。
六郎実隆 滝田を分知され滝田六郎と称し、元七合村滝田に築城す。
七郎満隆 沢村を分知され沢村七郎と称し、野崎村沢に住したが、後境村に移り、更に烏山城に移り那須氏を称した。
八郎義隆 堅田を分知され堅田八郎と称し、黒羽町片田に山田城を築き、後小川町片平に移り片平八郎と称した。
九郎朝隆 稗田を分知され稗田九郎と称し、元野崎村豊田(元稗田)に築城した。
十郎為隆 千本を分知され戸福寺十郎と称し、芳賀郡須藤村大字千本に築城した。初め戸福寺を称したのは、屋島の戦に義経の命に背いて追放され、信州諏訪の戸福寺に隠れていた故という。
御房子 初め資頼と号したが、後頼朝から頼の一字を賜わり頼資と改めた。
那須氏の墓(福原・玄性寺)