蛭田原の戦

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与一宗隆より十四代の孫上那須の領主(福原城主)資親は、初め男子がなかったので、白川義永の次男を聟にとり資永と号し、那須家をつがせ福原に住したが、其の後資親に男の子が生れ、三歳のとき山田の城に移して山田次郎資久と号した。資親臨終に際し、枕辺に大田原出雲守をよび実子がありながら、那須家を聟の資永につかせたが、これを廃してぜひ実子の資久につがせてくれ」と言い遺して死んだ。これにより那須の一族大田原をはじめとして、佐久山四郎・稗田七郎則季・稲沢四郎俊吉・河田六郎資安・大田三郎之家・鮎瀬宗屋義昌・沼井摂津五郎・柳瀬三郎藤成・大田原大輪・野武士には室野井・本馬・羽田・八木沢・狩野・百村の者ども三百人の軍勢で、永正十一年(一五一四)八月二日蛭田の原に押しよせて陣を張った。

蛭田原


蛭田側より望む福原城址

 福原城の資永は、事前にこれを知ったが、時すでに遅く、白川へ援軍を頼む余祐もなく、全員城を枕に討死の覚悟を定め、山の上より大木を切り落し、箒川の岸に逆茂木を引き渡し、川の中に乱杭を打ち、大綱を張り、城の遠近に堀を掘ったりして、防戦の体勢を固めて待ちうけた。家臣はいずれも白河よりつき来たりの強者たちで、関十郎義時・堺俊音房宥源・旗野藤次秀長・刈田次郎兵衛秀安・大隈川頼善房昌半・国見沢入道高義・田川太郎兵衛掾時法・石田坂石見守国隆等五十騎ばかり、外に雑人百余人であった。
 この日は両軍必死の大奮戦で城落ちず、いずれ兵糧攻めにしようと、大田原軍側は蛭田を払ってひとまず城の近辺まで兵を進めた。
 資永勢も明日は討死と意を決し、今生の名残りの酒宴を張った。その夜は篠つく大雨となった。関の十郎ら八人荒れ狂う闇にまぎれて城を脱け、福原攻めに兵隊を駆り出し、手薄の山田城へ忍び込み、館のあちこちに火をつけ廻り混乱に紛れて、六歳になる資久をさらって福原城へ駈せ戻り、あわれ、無残にも資久の首を落した。奥方も幼ない弟の首に対面して泪ながらに自刄して相果てる。
 夜明けを待って資永を先頭に二十八騎、城内より打って出て、死にもの狂いに敵陣に切り込み、切りまくり、やがて気づくとすでに味方の者共八騎ばかりになってしまった。
 資永、これまでと「者共引け」と下知し城内に駈け入り「さらば」と静かに座し、腹十文字にかき切り、その刀をのどにつき立てる。関十郎立ち寄り「ご免」と介しゃくし主君の首を打ち落し、自分も傍にて切腹する。
 寄せ手の軍勢四方の塀を破って踏み込んだが、ひっそりと音もない。田川太郎兵衛時法・境俊音房、資永・資久の首を持って現われ出で「いかに寄せ手の人々、主君とかしづき給う資久殿を関十郎・田川太郎兵衛両人、昨夜山田へ参りお連れ申したり、いざ御覧に入れ申そう、我らが主君資永殿も御自害遊ばしたるぞ」と資久の首を白衣に包んで櫓の下へ投げ出し、屋形へ火をつけ残る家来と共に、一せいに火の中へ飛び入り相果てた。
 大田原・大関・佐久山・芦野・伊王野の人々、白衣を解き現われた資久の首を前に、今はがく然と驚き、為すすべを知らなかった。
 かくて、上那須の本拠福原の那須家は亡び、下那須の領主、烏山の那須資房が上那須をも統べることになった。