資晴知行

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天正十八年(一五九〇)資晴、烏山城を追放され、佐良土に閉居の身となり、その子資景、福原を居城として配領した。その時秀吉より許された知行所には次の地名がある。

 下野国那須内知行方目録(栃木県史より)
一千七百九十五石九斗七升 ふく原・上ひる田・するかの寺・かり田・中宿・下ひる田・向宿・大ほり・わた
一五十九石三斗三升 こたね嶋
一四百十七石五斗二升 ゆた川二ケ所
一弐百十九石八斗一升 下のま・たきの沢
一五百石七斗二升 やき沢・上のま・わかめた・大木内
一百弐石三斗四升 よめうち・ゆミうち
一弐百四石四斗五升 中うち
一四十七石八斗四升 ミた内・たかのす
一百八十七石五斗一升 下おく沢・上おく沢
一百卅石一斗四升 かはた
一百九十弐石九斗六升 くらほね
一百九十八石二升 ひる畠
一五百廿九石六斗 浄法寺・たかの
一四百弐石四升 上河井・官三ケ所
  都合五千石
   天正十八年十月廿二日
                 ○朱印(豊臣秀吉)
                 那須藤王丸(資景)
 天正十九年五月六日
 下野国那須庄内与一郎(資景)知行帳
   知行方目録
一六拾五石五斗      下さくら井
一百壱石九斗五升     三本木
一百弐拾三石二斗三升   こうのす
一七拾四石九斗四升    いちの沢・たき
一弐百弐拾石壱斗五升   市沢
一卅九石三斗四升     なへかけ・くろいそ
一拾三石五斗       ぬまのたわ
一弐百七拾八石五升    ぬまのたわ
一百八石一斗四升     孫六・こうや
一九拾壱石弐斗一升    くつかけ
一百四拾弐石四斗四升   大あらま
一七拾石八斗一升     東こうや
一弐拾九石八斗六升    下あつさき
一五拾四石壱斗七升    いわさき・下あつ崎・ゆひ
一弐百六拾九石七斗二升  下あな沢・もむら
一五拾石弐斗       東・上あな沢
一百七拾八石壱斗六升   きわた畑・まき川
一弐百七拾九石四斗五升  ゆくう
一四百五拾壱石六斗    杉山之内
一三百九拾石壱斗七升   たき村
一百弐拾三石七升     同
一七百九拾弐石九斗    ゆつかみ
一七拾九石弐斗五升    かけはこ・こふなと
一四百五拾五石八斗    すさき・善正寺
一弐百四拾五石壱斗九升  さかと・かいそか
一百七拾九石八斗     山田
 合五千石
                   ○(秀吉朱印)
  天正十九年五月六日
  墨付四枚但上紙共ニ        那須与一郎(資景)とのへ

 
 以上により大田原領狭原、狐島等を除き、他は全部那須家に属したものと考えられる。大ほりは下蛭田、中宿は新宿の内である。また向宿は福原向宿であり、片府田か新宿と考えられる。