生活の疲弊

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助郷役減免を訴えた歎願書のなかに、「就中御料所の儀は、高弐百拾石壱斗三升弐合御座候て、往古家数廿九軒、人別百三十人余御座候所、近年纔(わず)かに九軒、人別廿人内外にて……」また「坂本太郎十郎様御知行所百姓、別紙申上候通り、残らず引払と相成り……」とあるように、享保の頃を境として、人口が漸減の一途を辿ったことは、全国的な傾向でもあったが、現在残っている宗門改帳によって、湯津上村の場合を考えてみることにする。
安永六年(一七七一) 人別一八一人 家数四二軒 (三五軒 百姓 七軒 水呑)
天明六年(一七八六) 〃 一六四人 〃 四一軒 (三五軒百姓 六軒水呑)
寛政十年(一七九八) 〃 一二四人 〃 三二軒
弘化三年(一八四六) 〃  九六人 〃 三二軒 (内潰百姓一二軒)
嘉永五年(一八五二) 〃 一〇〇人 〃 一九軒
安政五年(一八五八) 〃  六七人 〃 三二軒 (内潰百姓一八軒 建百姓一四軒)

 これによってみると、安永六年以後約八十年の間に、家数は二分の一以下、人別はほぼ三分の一近くに減っている。安永六年の宗門改帳は宗門改の項に記したので、安政五年の分を次に掲げる。
      宗門御改帳
旦那寺当村真言宗
 威徳院無住ニ付
 八幡代印
 桂城院印        年四十九才  安左衛門印
 同寺印         年四十四才  女房
 同寺印          年二十才  房之進
 同寺印          年十五才  堂つ
 同寺印          年十二才  欣八郎
 同寺印           年七才  きん
    〆六人  内 男三人 女三人
 
旦那寺
 右同断
 代印
 桂城院印        年四十三才  喜左衛門印
 同寺印         年三十七才  女房
 同寺印          年十八才  よし
 同寺印          年十六才  うた
 同寺印          年十六才  こん
 同寺印          年十一才  あき
 同寺印       隠居年七十五才  常蔵
 同寺印         年六十六才  女房
    〆八人  内 男弐人 女六人
 
旦那寺
 右同断
 代印
 桂城院印        年四十四才  宇右衛門印
 同寺印         年四十二才  女房
 同寺印          年十三才  せい
    〆三人  内 男壱人 女弐人
 
旦那寺
 右同断
 代印
 桂城院印        年三十六才  五右衛門印
 同寺印         年三十二才  女房
 同寺印           年四才  松郎
 同寺印         年七十一才  母
    〆四人  内 男弐人 女弐人
                    兵十跡
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年三十一才  勘右衛門印
 同寺印          年三十才  女房
 同寺印         年五十八才  母
    〆三人  内 男壱人 女弐人
                    源左衛門跡
                    庄次郎跡
                    勇右衛門跡
                    利左衛門跡
                    治右衛門跡
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年五十六才  栄蔵印
 同寺印         年四十九才  女房
 同寺印          年三十才  長左衛門
 同寺印          年十三才  金吾
 同寺印         年七十八才  母
    〆五人  内男三人女弐人
 
旦那寺右同断
 代印                 文平跡
 桂城院印        年三十九才  後家
 同寺印          年二十才  かく
    〆女弐人
                    源之助跡
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年五十一才  惣右衛門印
 同寺印         年四十九才  女房
 同寺印          年十五才  熊二郎
 同寺印           年十才  亀治郎
    〆四人  内 男三人 女壱人
                    善六跡
                    郡二跡
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年四十九才  金平印
 同寺印         年四十三才  女房
 同寺印         年二十三才  竹治
 同寺印         年二十二才  女房
 同寺印          年十五才  かね
 同寺印          年十三才  駒吉
 同寺印          年十一才  鍋二郎
 同寺印       隠居年七十一才  金吾
    〆八人  内 男五人 女三人
                    善右衛門跡
                    勘兵衛跡
                    兵四郎跡
                    三治郎跡
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年三十七才  丈右衛門印
 同寺印         弟年廿三才  兼次郎
 同寺印         年四十三才  母
 同寺印       祖父年七十八才  丈八
    〆四人  内 男三人 女壱人
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年二十五才  友右衛門印
 同寺印           年廿才  女房
 同寺印       隠居年五十二才  庄左衛門
 同寺印         年四十八才  女房
    〆四人  内 男弐人 女弐人
                    久右衛門跡
                    平兵衛跡
                    勇七跡
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年三十六才  伊三郎印
 同寺印          年廿四才  女房
 同寺印           年二才  辰太郎
    〆三人  内 男弐人 女壱人
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年三十六才  新兵衛印
 同寺印          年十三才  泰蔵
 同寺印       隠居年六十六才  茂右衛門
 同寺印         年六十二才  女房
    〆四人  内 男三人 女壱人
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印        年三十八才  庄兵衛印
 同寺印         年三十四才  女房
 同寺印       隠居年五十九才  庄三郎
    〆三人  内 男弐人 女壱人
                    六右衛門跡
 
旦那寺右同断
 代印
 桂城院印         年廿七才  浅四郎印
 同寺印          年廿五才  女房
 同寺印       隠居年四十九才  宇之八
 同寺印         年四十五才  女房
 同寺印           年十才  銕五郎
 同寺印           年七才  しか
    〆六人  内 男三人 女三人
 
 軒数
   〆三拾弐軒
    内潰百姓 拾八軒
   引テ
     拾四軒 建百姓
 人別
   〆六拾七人 内 三拾五人 女三拾弐人
右判形之者、拙寺檀那ニ紛無御座候、御法度之切支丹宗門与申者御座候ハハ、拙寺(ママ)何方迄茂罷出、申訳可仕候、為其銘々判形取差上申候、為後日仍如件

            同国同郡福原村
             金剛寿院末寺
    安政五年        湯津上村
      午 正月       威徳院無住ニ付
                 本寺代印
                   桂城院印
 
右之通宗門相改、檀那寺印形取差上申候、尤他国より召仕之男女共ニ、寺請状主人方より取置、少も怪敷者壱人も無御座候、有躰書上申候、行衛不知もの一切差置申間敷候、右之趣相背申候ハハ、此判形之者、如何様之曲事ニ茂、可仰付候、為後日仍如件

             野州那須郡湯津上村
               百姓代   庄丘衛
    安政五年       名主見習  房之進
      午 正月     組頭    金平
               名主    安左衛門
  是は真言律宗江戸霊雲寺末寺
 一正法寺          無住
  奥州白河西蓮寺兼帯
             下野国那須郡湯津上村
               百姓代   庄兵衛
    安政五年       名主見習  房之進
      午 正月     組頭    金平
               名主    安左衛門
 
     御役所様

(永山正樹家文書)

家族構成の推移
家族数
12345678910
安永6年4588831122
安政5年145122

 上の表は、安永六年と安政五年の一世帯の家族数を比較したものである。これによると、安永六年の時点では一世帯の家族は、最低一人から最高十人までで、三人、四人、五人家族というのが多い。安政五年では、二人から八人家族までと幅もせばまり、四人家族が最も多い。そして四人以下という世帯が、三分の二を占めている。一般に家族の多いのは、村役人とか有力な百姓の家のようである。「貧乏人の子沢山」というのは、何時頃からの言葉かわからないが、ここにみられるのはその逆の現象である。このような、家数や人口の減少を来たした一因として、度々の飢饉や疫病の流行などもあるであろうが、他により大きな原因として、農民生活の窮乏が考えられるのである。
 ここで当時の農家の収入を考えてみると、
 貞享のころに書かれた「豊年税書」には、だいたいにおいて一町歩ばかりの田地を持っている百姓が、二人の下人を使っての経営でどのくらいの収入と支出があるか、という計算を出している。それによると、このくらいの百姓で総収入がざっと二十二石五斗、支出は馬の償却代をふくめて十八石、残り四石五斗という残高が出てくるのだ。
 しかし、これには貢租、すなわち租税がかかってくる。四公六民の租率はもちろん、その残高にかかるのではない。この総収入のなかには菜も大根もすべて、穀になおして勘定してあるから、この一家が持っている一町歩の高を十五石、すなわち反当一石五斗として考えると、その十五石にかかってくる租税は六石ということだろう。四石五斗の残高で六石の税金はもちろん払えるはずがない。それをおぎなうなにものかがなければならないのだ。(日本の歴史十七巻中央公論社版)

 とあるが、これは端的に農村の荒廃していく原因を、物語っているように思われる。しかもこれは、四公六民でみた場合である。一町歩づくりの百姓でこの状態であるから、それ以下の百姓にあっては、一体どのようにして日々の暮らしをたてたものであろうか。そしてそのような零細な百姓が、実は大部分を占めていたのである。宝暦年間の下蛭田村をみると、三十八軒のうち、一町歩以上の耕作はわずかに一軒、五反歩以下が三十三軒であった。
 このような、生活に喘ぐ百姓にとって、家族が増えるということは、困ったことでもあったにちがいない。百姓たちは、自分たちが、またその跡を継ぐ子供達が、無事に生きてゆけるようにと、生れてくる嬰児を、屡々犠牲にしたようである。
 人口が減少すれば荒地が増える。従って年貢を収受する領主にとっては、農民の確保は重要事である。「心得違へるもの、懐胎の内或は出生の子を殺す事、世上にある事の由、縦(たとえ)ば小さき虫たり共、生を請たるものを謂れなく殺事は、仁者のせざる所なり。神仏も怒りあるべきなり。殊更人間の身体を受 適々比世に生れたる命を殺事 誠に不仁の至なり可恐の専一に思ふべし」とは、「百姓身持教訓」のなかの一節であるが、たれが好んでこの不仁をなす者があろうか。己が生命維持のぎりぎりの行為であってみれば、一片の教訓ぐらいで改まる問題ではなかったであろうと思われる。
 農民たちは、年貢に差詰っては借金をし、そのためには田畑を質に入れ妻や子どもを奉公に出し、先祖伝来の田畑を売払はなければならないこともあった。次にこれらの証書類をみてみよう。
 借用証文その他、ここには、借用証文、土地売渡証文などの典型的なものを掲げた。
 (イ)       借用金証文之事
一金 弐両弐分也
右者、私儀当亥御年貢金ニ差詰リ、書面之金子、慥ニ借用申処実正ニ御座候、但シ御返済之義ハ、来子十月廿日限、世上並合之利分ヲ加へ、元利取揃急度御返済可申候、万一其節当人相滞リ申候ハハ、請人引受、貴殿方へ少も御苦難無之様、譬令何様之義御座候共、此金おゐて聊相違申間敷様、為後日借用金証文仍如件
  文久三年        下湯津上村
     亥 十二月     借用人  庄兵衛印
              同所
              請人   金平印
 上柚上
  天神前
  平次郎殿

(深沢孝之家文書)


借用金証文(永山家所蔵)

 (ロ)       借用申証文之事
一金壱両壱分也
右者、当申夏成御上納差詰リ、借用申処実正ニ御座候、但シ返金之儀ハ御年貢米取立之節、斗立ヲ以急度御勘定可仕候、若シ滞リ候ハハ請人引請、急度御勘定可仕候、依之証文如件
  安政七年
           新宿村
            借用人  名主 重右衛門
            請人  百姓代 七右衛門
 下蛭田村
   伊蔵殿

(蜂巣英夫家文書)

 (ハ)   田畑質地ニ相渡申証文之事
一金壱両弐分者             但シ文金也
右之金子慥ニ借用仕、地蔵田中田壱反三畝廿四歩、高壱石三斗八升之処、質物ニ相渡申処、実正ニ御座候、但シ年季の義ハ、寅暮より子の暮迄、拾ケ年ニ相定申候、金子有合候ハハ、年季之内成共、年季明申候共、暮々何時成共、御返シ可被下候、尤御年貢高掛リ何ニ而も、御上納被成被下候筈ニ相定申候、縦如何様之義御座候共、又ハ御地頭替リ其外徳政被仰付候共、少茂相違申間敷候、為後日仍而証文如件

 延享三年寅十二月廿三日
                  売主  甚三衛門
                  請人  三右衛門
                  組頭  友右衛門
    安左衛門殿

(永山正樹家文書)

 (ニ)    田畑流地ニ売渡申証文之事
一先年、壱両弐分ニ売置申候地蔵堂中田壱反三畝廿四歩之所、当暮金壱両請取、合テ弐両弐分借用仕、流地ニ売渡申処実正ニ御座候、然ル上ハ子々孫々ニ至迄、少しも構無御座候、為後日仍而証文如件

     宝暦五年亥        売主  藤内
        十二月廿四日    立会  市右衛門
                  〃   忠右衛門
                  年寄  半右衛門
                  〃   彦八
                  組頭  庄右衛門
     安左衛門殿

(永山正樹家文書)

 (ホ)   質物呼掛金請状之事
一金壱分弐朱也                但文金也
右之金子、借用申処実正也、但シ御返済之儀ハ、勤津ぶしに御座候、御入用次第無違背、急度相勤可申候、若不勤等有之候ハハ弐割之利息勘定ヲ加へ、元利共ニ当極月廿日限リ、急度返済可申候、縦如何様之儀出来候共、右身之代金、加判之者相弁、貴殿へ少も御損毛相懸ケ申間敷候、為後日証文仍如件

    文政十一年       新宿村
        子 正月      借用人  善次
                  請人   倉蔵
    上蛭田村
     □次殿

(蜂巣英夫家文書)

 (ヘ)   呼掛質物手形之事
一金三分慥借用仕、呼掛質物御奉公差置申所、実正ニ御座候、但シ勤之儀ハ、一ケ月三人宛早天より参り、何成共被仰付次第、相働キ可申候、万一長煩仕候ハハ月送ニ成被成、死失之儀ハ本金ニ相定申候、縦如何様之新御法度御座候共、右之質物金、少も違乱申間敷候、為後日質物証文如件

     寛政五歳
        丑 極月十三日   宮沢
                   請人  多七
                  同所
                   勤主  源蔵
     欠畑
      猪右衛門殿

(永山正樹家文書)


呼掛質物証文(永山家所蔵)

 (ト)   一季奉公人証文之事
一金弐両弐分也
前書之金子慥ニ借用仕、政之助と申男子、御奉公ニ差置申処、実正ニ御座候、但シ当暮より来る子暮迄、中壱ケ年相定メ申候、給金之儀ハ 金弐分ニ其上仕着小遣被下筈、右之金子、来子暮金弐両、無相違御返済可仕候、御奉公之儀ハ何時成共被仰付次第、急度相勤可申候、若長煩仕候カ、又は取逃欠落仕候ハハ、其品相弁人代差添、少も御事闕申間敷候、死失之儀ハ元金相定申候

一御公儀御法度之儀不及申、都而御作法相背申間敷候、右之条々相定候上ハ縦令如何様儀御座候共、少も違乱申間敷候、為後日之証文仍如件

    文久三年         福原村
       亥 十二月      親 清左衛門
                      半蔵代印
                  人受人 卯之吉
                  五人組 半兵衛
                      菊蔵
   湯津上村
    御苗安左衛門殿

(永山正樹家文書)


質物奉公人証文(永山家所蔵)

 (チ)    田地永代売渡申証文之事
一金子七両弐分者         江戸小粒判也
右之金子慥ニ請取申候而、にしの堀中田壱反、神森上田壱反五畝、宮沢中畑壱畝、中町(ママ)壱畝、右永代ニ売渡候所実正ニ御座候、縦御国替徳政御代官替、如何様之儀御座候とも、少も六ケ敷儀申間敷候、為後日之仍而如件

     貞享元年 子
         極月十日
                  売主  市左衛門
                  証人  六右衛門
                  証人  喜左衛門
     五左衛門殿

(永山正樹家文書)

 (イ)と(ロ)はもっとも普通の借用証文で、どちらも年貢に差支えてのものである。夏成は夏の上納である。
 (ハ)は金壱両弐分を拾ケ年季で借り、中田壱反三畝廿四歩を抵当として渡し、其の間の年貢高掛り等は貸主が持つという約束である。(ニ)はこの後九年過ぎて更に壱両受取り、前記壱反余の田を質流れということで売渡したものである。
 (ホ)は、金壱分弐朱を借り、その代償として貸主の要求があれば、何時でも労力を提供して返済に充てるというもの、若し勤められない場合は弐割の利息を加えて、元利共返済する約束である。(ヘ)は金三分借用の代償として、一ケ月に三人宛の労力提供を約したもので、ながわずらいの場合は月送り、死亡などのときは本金で返済ということである。(ト)は弐両弐分借りて、政之助という男子を奉公に出す。仕着せ小遣は向こう持で、給金は弐分とする。そして弐両を来年暮に支払うこととし、その間奉公人に事故があれば元金を支払う約束である。
 (チ)は田地売渡しの証文である。寛永二十年(一六四三)三月、土地永代売買禁止令が出されている。これは、土地の売買を黙認すれば、いよいよ農民を困窮させ、農村の疲弊を招くことになるのを恐れてのことであったろうと思われる。然しこの禁令が出た後も、現実にはこの例のように一般に行われていたものであろう。
 上湯津上村の場合 上湯津上村の場合は、万治年間(一六五八~一六六〇)から天明年間(一七八一~一七八八)に至るまで、一二〇余年の間に五十戸が僅か十戸に減じている。次の文書は年貢の減免を願い出たものである。
   乍恐書付を以て願い奉り候
一 御知行所野州那須郡上湯津上村割元格江崎勇三郎、名主江崎源治右衛門、組頭庄三郎、同彦三郎、百姓代治三郎一同申上ゲ奉候。往古万治年中御検地御取調ベ御座候所、御高三百弐拾三石六斗六升六合、其頃ハ家数五拾軒余も有之、本田新田ニ至ル迄御水帳ノ通リ御年貢相納メ候儀ハ、人別も多ク御座候テ、農業向キ巨細ニ行届キ、荒所聊カも御座無候趣、兼々承リ伝ヘ申候。

然ル処其後ハ村柄追々衰微ニ及ビ、人別相減ジ作方不行届ニ相成リ荒所多分ニ出来仕リ、既ニ天明年中御定免後御代官辻六郎左衛門様ヨリ御尋御座候ニ付、潰レ、退転、荒所ノ分、高百拾九石八斗三升弐合田畑荒所ニ罷リ成リ、相調書上ケ奉候。
残リ高田畑共ニ弐百三石余御座候所、此ノ内田方御取米四拾弐石弐斗六升壱合ノ場所ニ御座候、其後追々人別相減ジ当時僅カニ家数拾軒有、百姓納米二拾九石五升九合三勺御座候。
荒所田高拾八石六斗弐升壱合八勺此ノ御取米六石九斗六升四合壱勺、村弁納仕候、残リ御取米八石四斗余ノ処、組持村持ニ仕リ、他領エ入置キ御上納仕候。
高掛リ(附加税)ノ儀ハ村方余荷(よない)(割増)ニ相成リ申候。其後畑方荒所ノ儀も追々多分ニ出来候。此節ニ至リテハ甚以て困窮仕リ行立チ難キ姿ニ罷成申候仕合(仕末)、且其上当春中ヨリ佐久山宿助郷、宿役、相掛リ多分ノ出銀仕候テ何レモ一方ナラズ難渋至極仕候。
右ノ訳合ニ御座候得バ此上如何躰ニ相成申スベキヤト私共一同心配仕リ罷有候、恐レナガラ
御地頭所様御勝手向当時御差支え勝ニ成ラレ御座候処、御時節ヲも弁えず願上奉候儀ハ、何共恐入奉候得共私共是迄村方ノ儀ニ御座候得バ、種々骨折出情(精)仕リ候得共、昨今ニ相成候テハ必至ト難渋ニ相迫リ候ニ付、是迄御年貢相納候御田地迄も荒所ニ相成申スベキヤモ斗(はか)リ難ク、左候エバイヨイヨ以て御差支ニ相成申スベク、私共ニ於テモ御役モ相勤メ罷有候甲斐モ御座無ク候様ニ存じ奉候。何卒潰領、荒所御年貢弁納ノ場所御取調下シ置カレ、当時有形ノ御上納仰付ケサセラレ、村方御救御取立成シ下シ置カレ候様、此段恐レ乍ラ願上奉リ候。右願上奉候趣御聞済ニ相成候ハバ広大ノ御仁恵ト誠ニ以テ重畳有リ難キ仕合ニ存ジ奉候。左候エバ一統勢力ヲ相増シ、是迄不行届ノ儀モ格別ニ出情仕ルベク、却而荒地開発ノ手立ニモ相成追々御上納相増候様罷成リ申ス可キカト存ジ奉候。私共ニ於テモ専要ニ相心ガケ一統気力ヲ立直シ候所ト難渋ノ者共追々引立相勤メサセ候様、出情相勤申スベク候。何卒格別ノ御慈悲ヲ以テ御憐愍ノ御沙汰成シ下シ置カレ候様此段恐レ乍ラ願上候 以上

            御知行所上湯津上村
               百姓代  治三郎
天保六年未十二月 日     組頭   彦三郎
                〃   庄三郎
              名主   江崎源治右衛門
              割元格  江崎勇三郎
御地頭所様 御内
      佐藤新助様

(江崎源治衛門家文書)

 水戸領繰入れ願い 上湯津上村においては、年々の凶作に、上納金の借金がつもり、その催促がきびしく、八方へ金子の工面に奔走しても調達ができず、ついに国造の碑の縁故を頼って、水戸領の小口梅平(現馬頭町)の庄屋から曽て稗百俵を借入れたことがあり、更に今度は水戸領に入れて貰いたいと、水戸の奉行所へ歎願書を出したものである。
 許可にはならなかったが、この後この人達は水戸へ移りしばらくは彼の地で生活をつづけた。
   乍恐書付を以て願上奉リ候
一、坂本太郎十郎知行所、野州那須郡上湯津上村組頭庄三郎同源治衛門百姓代治三郎乍恐願上奉候儀ハ、私共地頭所御借財方并ビ御郡代并ビ日光駿府御貸付金御拝借罷リ有リ年々御引立御返納仰付ラレ、其上仕送リ残金三百拾九両余御座候テ、年々御尊判等掛合ニ預かり、直又地頭所賄金先納仰付ラレ、難渋ノ百姓種々ノ手段仕リ、相凌ギ罷有候得共村方難渋ノ始末往古ハ、高三百廿三石余ノ百姓家数四拾五軒御座候処、文化年中ヨリ追々退転ニ相成リ当村立百姓九軒ニ罷成リ如何様ニも人少ク困窮ニ陥リ難渋仕候得共往古ヨリ御定免ニ仰付ラレ候通リ、御上納仕リ相凌ギ罷有候処、五ケ年此方御貸付金御取方厳シク罷成リ、駿府御貸附金不納ニ相成候得バ、村役人御引立ニ預かり、諸入用相掛リ、難渋仕候間、無拠(よんどころ)手段仕候。御返納去年迄も相送リ罷有候処、当春中仕送リ、残金ノ御尊判ノ断ニ預かり、其上地頭所御暮し金仰付ラれ金子無之候テハ、御百姓相成リ難ク候場合ニ至リ、余儀無ク我々共当三月中金子才覚ニ罷出候処、種々ノ手操リ仕相凌ギ候後々ニテ御座候得バ、金子才覚出来兼ネ帰宅仕儀相叶ハズ辛労罷有処、追々御尊判等断ニ預カリ残リノ者共受答相成リ兼ネよんどころなく残リノ者共、縁者其外エ便(頼)リ当難相凌候ノミニテ、全ク離散仕候所存毛頭御座無罷有候得共、今般御代官羽倉外記様御手代市川喜平様関東御取締として御出役遊バサレ当五月廿二日ノ夜我々共御召捕ニ相成リ、同郡大田原宿エ御召出し、御吟味ニ預リ右難渋ノ始未逸々(いちいち)申立候処、尤ノ筋ニも聞キ及び候間、早速御用状ヲ以て江戸表エ申越し候間、御沙汰コレ有間、同知行所佐良土村名主治助方エ御預ケニ相成リ、同六月八日ニ相成同郡佐久山宿ヘ佐良土村名主治助御召出シ、此度其方地頭所より木沢要助ト申者出役いたし候ノ御沙汰コレ有リ候ニ付、地頭所出役エ御引渡シニ相成リ、右ニ付佐良土村エ御召出シ御理解仰付ラレ候処、此度ハ御屋敷ニも御奉行所様エ地頭百姓両願ノ趣ニ御座候由仰付ラレ、弥々御願ニ相成候上ハ、私共取続キニも相成候儀ト相心得有リ難ク御請仕リ我々共三人佐良土村名主治助差シ添えさせ御召出し、都合四人六月十三日ニ出府仕リ候テ三拾日余リ江戸詰メ罷リ有リ候処地頭所ニテハ何ノ仰付ケられもこれ無く、追々諸入用ニ必至と差支え相凌ギ難く、余儀無く御屋敷ヲ相離れ帰村仕候得共、居家御座なく候

 右ノ始未故年寄子供ニ至ル迄相歎キ罷リ有候得共、如何様ニも種談(手段)これ無き場合ニ罷成リ、難渋ノ始末左ニ申上奉候。乍恐私共村方ノ儀ハ往古那須ノ国造碑名、元禄四年未年水戸様御先代様御建立遊ばし為され右国造ノ御碑堂ノ由緒ヲ以て往古より海道役差村等ニ相成リ候節御願申立候処、御威光ヲ以て仰付られ有難き仕合ニ存奉候。且又其後ニ至リテモ申(さる)凶作ニテ一命取続キ難ク相成リ御願筋小口村御庄屋左平治様エ御申立候処早速右柚上村四給エ御稗百俵御拝借仰付られ、大勢ノ百姓御救下置かれ候段、誠ニ以て重々有難仕合ニ存じ奉候。右ニテ我々共村方一統女子供ニ至ル迄右御堂エ参詣仕候ニも、何卒水戸様御領分ニ相成候様一心信心仕リ罷有候得共神頼相叶はず、又候欠入(かけいり)御訴訟申上奉候儀ハ、重々恐入奉候得共、何卒格別ノ御慈悲を以て御救御領内エ御差置成シ下され候様、仰付られ候ハバ、難渋ノ我々共相助カリ重々難有仕合ニ存じ奉候。以上
              坂本太郎十郎知行所
  天保十一子八月     野州那須郡上湯津上村
                願人
                 百姓代 治三郎
                同
                 組頭  源次衛門
                同
                 同   庄三郎
     水戸様
       御奉行所様

(江崎源治衛門家文書)

 生活困窮者の助成願い 生活に困る者は、村役人互に助け、更に地頭に申出で助成を願った。
  乍恐以書付願上
 御知行所野州那須郡上湯津上村役人共一同奉申上候儀ハ、村方村右衛門伜ニ酉之助と申者御座候処、右村右衛門病死仕候得バ、御百姓出精罷立候所病身ニ罷成、今日の露命相続も不相成甚以て難渋至極ニ付村方一同申合せ、私共初メ壱日廻リニ扶持致シ助ケ置候得共、何ヲ申すも私共も両三年も御百姓出精も不仕候得バ、何れニも当惑ノ儀ニ付何卒御上様之御仁恵ノ思召ヲ以て、右酉之助方エ為御救御米壱俵御物成(年貢米)ノ内ニテ御下ゲ被下置候様御慈悲ノ御沙汰、偏ニ奉願上候 以上
               御知行所上湯津上村
                 百姓代  豊次事
                      勇三郎
                 組頭   治三郎
                 名主   源次衛門
               右村兼帯
                 名主   治助
  御地頭所様御内
     木沢要輔様

(永山正樹家文書)