天保十二年二月江戸神田小柳町壱丁目旅宿埼玉屋に滞在中書いた。彼は、村の年貢の借金が滞り、名主としての責任で、再々江戸へ招喚され、あるいは召捕られ、手錠、腰繩で江戸へ送られたりもされた。
取調中は宿預けとなり、宿屋に置かれたようである。その折に書き記したものである。
貧窮の村の名主として、年々の村の年貢の納入に困り、その都度、年貢金を借りて済ませ、その借金の支払いに追われつづけていた。凶作不作は再々やってきた。支払いは内払いとなり、未納分は残る。あるいは借金となり、利息分の支払いも容易でない。遂に借金は千四百両にものぼってしまう。
役所を立てれば村方百姓が立たぬ。村方百姓を立てれば役所の方の弁解が立たぬ。両者の間に立って、進退きわまった名主、組頭、惣代達は打開の方策の無いまま、村を逃亡、他処へ退転して了った。
源治衛門は水戸に逃れ、家族を引きつれ、水戸の家中の情けで過ごしていたが、遂に発見され江戸送りとなる。
当時の農民の果てしない貧窮の記録である。手記は三部から成り、文章にまわりくどい個処も多いので、その点を省略して荒すじをのせた。
善良な村名主源次衛門は、この苦難の記録を、どうしても後世に遺したかったものと思われる。これは上湯津上村だけの姿ではなく、当時の日本の農村の実態であったと思われる。名主源次衛門の意を汲まれたい。
坂本様御知行所百姓難渋之事
坂本市郎右衛門様知行所、上湯津上村高参百弐拾三石六斗六升六合
村は再々凶作に見舞われ、潰れ百姓、逃亡者など年々増し、年貢米の納入に困り、諸所から借金をして済ましていた。
借入先は、杉庄兵衛様御役所、吉岡治郎左衛門様御役所、山口鉄五郎様御役所、羽倉外記様御役所
この外御代官金七ケ所より借用、計十一ケ所から借用していた。そんなところへ更に石当り四両の上納金の申付けがきた。今までにも容易でなく、内入れのような形ですごしてきたのだった。
当時名主役は源次衛門、組頭、弥左衛門、同勇三郎であった。文政十一年十一月廿七日、呼び出しをうけた。諸所の支払いが大へんで、この上納金割当ては返上の外はないと、地頭所の役人佐藤喜右衛門に話し、取立ての世話役をしている名主庄三郎をたのみ、江戸表へやり勘定奉行土方出雲守用人松山多中に、村方の事情を話して返上のことを諒解して貰い帰村した。
しかし、翌十二年四月十三日、八州取締役川崎平右衛門手代岡本弥市郎が、片府田村の助左衛門(村役人)の案内で、夜八時頃やって来て、源次衛門、弥左衛門の両名は繩をかけられ召捕りになった。
突然のことで家人たちは大いに驚いた。しかも源次衛門の娘は婿をとり懐妊中であった。片府田村へつれてゆかれ、ここで手錠をかけられた。翌日取調べがあり、村方の内情を詳しく申述べた。次の日手錠繩付きで佐久山の旅宿で二三日留めおかれ、その姿で召捕者の仕立籠にのせられ江戸送りとなった。
付添いは、名主庄三郎、惣重の二人、道中六日間四月廿二日土方(ひじかた)出雲守門前に到着、ここで手錠腰繩を解かれ、更にお白州(しらす)にて役人月山茂左衛門の取調べをうけた。改めて年貢不納の事情や日延べの理由など詳しく申述べた。西の久保上州屋源助の宿に泊められ、そこから毎日役所へ通い調べをうける。相給(あいきゅう)(同一領主の村)の佐良土村の名主忠助が種々骨を折り、三両程工面をしてくれ、どうやら一応の話をつけて許され帰村した。
心配をかけた近所へ挨拶廻りをすませ、再び百姓仕事に入ったが、相変らず諸所から返済の催促が来て、苦労は絶えなかった。
六年程すぎて、天保六年四月名主庄三郎が体の加げんが悪いとのことで、源治衛門に再び名主をつとめてくれと頼まれ、更に地頭所より下知書が届いた。
一、其方儀是迄出精ニ付名字帯刀相免、名主役申付猶又出精実意に相勤可レ得二其意一もの也
辞任もならず、引うけたものの、村方の困窮は更につづいた。天保七年には大凶作があった。名主源治衛門、組頭庄三郎、同勇三郎、惣代治三郎たち寄り集まり相談し合ったが溜息が出るばかりであった。暮れも近い十一月に源治衛門はとくと考えた。名主という役は、領主にもよいよう、百姓達にもよいように図らねばならぬ、上を立てれば下が立たず、下を立てようとすれば上が立たぬ、到頭思案に余り、剃髪して坊主になってしまった。
家人達は大いに驚き、とりあえず年末の取立のことは、村内の同役に頼み、源次衛門は病気ということにし、隠居宅で帖面の整理などの世話をしていたが、年が明けて正月より勇三郎が名主役を勤めることになった。
さらに次の年は、名主役が庄三郎へ順が廻ったが、庄三郎は何としても引きうけなかった。しかも家内引払って、水戸領小口村の庄屋の世話になって、その地で世帯を持ち暮すようにしてしまった。
名主勇三郎、源次衛門の両名は、郡代内藤隼人正よりの召喚状により、江戸へ出府、役所へ何日も出頭し、村内の困窮の実状を申立てた。三月十五日迄に金子五両上納するよう申し付けられ、一応承知して帰村した。五両の金を工面しなければと考えて居るところへ、さきに名主勇三郎より、庄三郎が家族引払い小口村へ移ってしまったことを報告しておいたので、金子内蔵之助、橘十郎左衛門、西見屋左助の役人たち、それぞれ供をつれ六人にて勇三郎の宅へ、五日程泊り込みでやって来た。
用向きは、この度公儀より検地改めをきびしく命ぜられて来た。その外地頭所においても、庄三郎の一件を厳重に取り調べるというものなので、大いにあわて、役人共に袖の下をつかったりで、役人たちはそのまま帰ったものの、十五両余りかかり、困っている上に、更に難渋が増してしまった。
毎年役所より呼び出しがあり、その都度実情を訴え、内金を以て納入、何とか許して貰っていたが、年々取立方がきびしく、困窮は増す一方であった。駿府役所からの借用金の返済も、天保九年からは格別にきびしくなってきて、拾五両ずつ返済を命ぜられ、とりあえず六、七両持参したが許されず、更にあちこち工面して、拾弐両持参したが承知なく、またまた奔走の上拾五両揃えて上納したが、このため雑費壱両程余分に費してしまい、何とも容易なことではなかった。
借用金の計も千四百両余にのぼり、心当りの処を金の工面に歩きまわるのだが、思うようにゆかない。仲間の村役の者もあちこち工面に走りまわっている。金ができなくとも、農作業の時期には村へ帰らねばならない。
天保十年五月廿二日夜、代官羽倉外記の手代市川喜平により、庄三郎、源次衛門、惣代治三郎たち三名召捕りになり、黒羽宿より大田原宿までまわされ、相給佐良土村役人呼び出しの上、お白州(しらす)にて取調べられ、佐良土村役人に引き渡され帰宅を許された。
翌十一年六月、江戸へ出府、地頭の長屋にて、米、味そ、諸品を買いととのえて暮していたが、七月盆になっても何の話もなく、生活費もかかる始末で、お屋敷へは断りなく、帰村したが、道中川どめなどに何度か遭い費用も嵩んでしまった。帰村して村の者たちと相談の上、生活も苦しくなる一方で、この上は水戸領へ逃れようということになり、源次衛門たち村の者都合八人にて水戸へ出てしまった。
名主勇三郎ひとり村に残ったのだが、八月十四日市川喜平によって召捕られた。佐久山宿にて、仕立籠にのせられ、繩を打たれ、差添人として佐久山宿のせきや蔵太がつき添い江戸にのぼった。
一方水戸にては、人を介して村方の難渋の実情を訴え願い出たところ、お取り上げになり、役所より、心配なく宿に居るよう、宿賃も役所より下げられるからとのことで、源次衛門たちは有り難く、八月一日より、十月十日までここに居り、役所へ二度程よばれ、ときわ村の桜井源右衛門の世話になることになった。
更に諸費用として五両下げ渡された。永々今までお世話になった上、このようなことをされてはと遠慮しようとしたが、強って受けとるようにと桜井に云われ有難く貰いうけた。
源次衛門ひとまず帰村し、八州方より詮議も一層きびしくされるであろうからとて、家内の諸調書を親類に預け、家族の者共八人をつれて水戸に戻った。母六十九才、源次衛門四十四才、女房つね四十三才、聟庄八二十六才、女房いき二十四才、その子供よね八才、福五才、民弥三才、都合八人、道中湯津上より水戸まで二十里、諸掛りも多かった。
水戸は上町の内田屋へ八人で三、四日逗留、のち宿の世話で、御家中飛田勝五郎の長屋に一時世話になることになった。仕事の方も、源次衛門は金町にて綿屋の綿打ち、家内の者は賃糸とりや賃はたおりをし、そのうち適当な家を世話してくれる者があり、家賃一ケ年壱両三分でそこに移った。伜(聟)庄八を国元へつかわし、煙草、鍋、茶がま、その他の品を取寄せた。この時も廿日余り日数がかかった。
源次衛門は自分で賃綿打ちをはじめ、女房、娘は夜の九時迄賃糸引きをして働いた。庄八は煙草賃切りを始め、どうやら、やりくりながらも一安心ということになったが、三人の孫共の遊び場がなく、寒くとも湯津上に居る時のように焚き火にあたることもできない。生活用品も皆買いだてで心忙しい限りであった。
そのうち近所に出火があり、万一大火にでもなったらと、しみじみ怖しくなり、瓜面(うりづら)町というところへ行き、空家など捜したが適当な所がなかった。
十二月二十九日庄八は砥石を買いにゆくと云って、家を出たまま帰らず、まもなく庄八からの手紙が届いた。開いてみると、無断で国元へ帰るが、私の腰の物(刀)、袷(あわせ)を質入れして子供たちの費用にしてくれるようにと書いてある。源次衛門は、これは庄八が家出したものと察し、とても残った者だけでは生活(くらし)がたたぬと、自分たちが調えた諸道具を売り払い、正月七日母親をつれて四日かかり、大豆田村まで帰って来た。二晩程泊り、妹娘の聟と相談し、水戸へおいて来た家族の者たちを、当村へ引き取りたいので宜しくと頼み込み、改めてその婿と二人、水戸へ戻った。源次衛門の案内にて、上町から泉町、金町辺を見物、下町へ帰り、翌日は磯湊など見物してきた。
さて明日は早く水戸を出立すると、駄賃馬二疋約束をした。前に水戸へ走った同役庄三郎も家内引きつれ鍋町にて、煙草切りをして家族四人で暮していた。
源次衛門達家族共は、以前から世話になっている、柳屋源八の家の二階に居たところ、夜になって町方役人に召捕りになり、つづいて庄三郎も召捕られ牢に入れられた。正月十八日のことである。
さきに湯津上村の名主勇三郎は召捕られて江戸へ送られ、長い期間江戸に在ったが、十二月廿三日病死となり、遺骨となって村へ帰った。こんなことにも多分の費用がかかった。
八州取締り小川半蔵、西田伝一郎の二人が水戸へ出張し、町方役人と共に赤沼の牢場で両人を取調べた。これまでのいきさつ、水戸様の家中の人たちにお世話になったこと等を両人は詳しく語った。役人達もこれまでの事情を聞くと、気の毒に思い同情した。
両人は江戸へ送られることになり、宿の者や、町役人たちも同情して、有り合せの小銭を出し合い、当座の費用の足しにするようにと渡された。閏(うるう)正月廿七日江戸着。
いずれにしても、村役人の身で、無断で村を捨て、水戸の方へ逃げてしまったことは当然その罪を問われることであった。詮議の末、二月四日になってやっと赦免になり、そのまま宿に居る。しかし、まだ帰村の許しはなかった。三月中何の呼び出しもなく、四月十日になっても呼び出しがない。庄三郎、治三郎は小遣いとりに、たばこ切りの仕事に毎日通った。源次衛門は、たばこ屋の世話で、小石川仙台堀向三崎稲荷山のだんご茶屋へ毎日出かけて働いた。
その頃、村の高札(こうさつ)に何者かが貼り紙をした者があった。御上(おかみ)の批判の文でもあったものと思われる。村役の者たちは金策で他所へ出向いて、るす中の事でかかわり知らぬことであった。五月九日に呼び出しがあり、村より証人を呼ぶことになり、福蔵が六月廿六日に江戸に着いた。種々取調べがあったものの、結局七月九日に全部放免され帰村を許された。
但し、差添人卯兵衛だけは当分の間残された。
勘定奉行佐橋長門守より召換状が届いた。天保十二年一月十七日である。源次衛門、治三郎、福蔵、常十、卯兵衛の五人は直ちに江戸へ上り、内神田小柳町埼玉屋へ宿泊して呼び出しを待った。廿三日に呼び出され、組頭源治衛門、百姓代次三郎過料三貫文宛三日の内に納めよとの判決、廿五日に納めると放免になり帰村してよいとのことである。源次衛門は、このまま帰村しても、諸々からの貸付金の催促は、ますますきびしくなり、少しでも猶予して貰うには、御勝手方奉行へ直訴する外はないと考え、源次衛門ひとり残った。
奉行梶野土佐守の御登城御下りのお寵に直訴することを考え、その機会をねらった。土佐守の屋敷を伺い、その家紋を知り、この家紋を目あてにお籠をねらった。
数日後、遂に土佐守の籠を遠くより見つけ、源次衛門はすばやく手拭を外し、着物の裾をおろし、ぞうりを三尺程遠くへ脱ぎ揃え、土下座して籠の近づくのを待った。「お願いの者でございます」と声をかけて籠を止め、住所身分名前を名のり、持参の書状をさし出した。土佐守は、その場で内容をごらんになり、役所へ参るようにと云われ、後に随って役所へゆき、願いの筋を申し立てた。
宿は、檜物町二丁目尼屋(あまや)佐兵衛方と届けた。宿に帰ったものの一文無しであった。役所へ参るにも、供廻りの者三人に心付やら何やら雑費がいり、四百四十八文程かかった。国元の村役人佐良土村の次助、治三郎宛飛脚を出した。早速次助が江戸まで来てくれた。治助は壱両程持参してきて貸してくれた。その上源次衛門の労をいたわり酒肴の馳走をしてくれた。この掛り弐百六拾四文は治助が支払いした。
三日程して次助が再び様子を聞きに顔を見せ、今度は源次衛門が先日の御礼にとご馳走をする。この費用弐百五拾弐文。次の日は国元より治三郎が来てくれた。治三郎の言うのには、湯津上の石田の元三郎、欠畑の安左衛門の二人が出府していたが、明日村へ帰るというので、両人より金壱分二朱借用してきたというので、源次衛門は弐朱だけうけとり、壱分は治三郎に持たせた。
翌日再び治三郎が姿を見せ弐百文置いて行った。奉行所からは、何の沙汰もなくぼんやりしていると、先日の佐良土村の治助が来ていうのには、勘定奉行梶野土佐守様より御地頭様へお話があり、願いの件をよく検討したところ、もっともなる願いであるとのことで、用人木沢様から源次衛門へ知らせるようにと言われ、安心するようにとのことであった。
治助も明日帰村するというので、源次衛門は酒店へつれ行き、心ばかりの酒をもてなした。酒代は百文であったが、治助はここでも壱朱貸してくれた。
このように一文もなくなりかけることが幾度かあった。国元から来た治三郎は、はじめ地頭所の賄方の世話になって幾日かすごしていたが、奉行所からは何の沙汰もなく、そのまま世話になりつづけるのも気の毒と思い、小柳町の埼玉屋へ戻った。
そのうちに、国元より手紙が届き、伜の民蔵が病気の知らせである。民蔵の病気も心配ではあったが、銭がなくてはどうしようもなく、昨年世話になったことのある、せと物町の煙草屋へ参り、たばこ切りをして小遣かせぎをつづけた。
源次衛門は、梶野土佐守の役所より、呼び出しがあるかと心持しているが、何の音沙汰もない。村のことや、家族、親類の上へ思いを馳せるのだがどうしようもない。たとえ自分の身はどうなろうとも、この願いを叶わぬまま村人たちの前に立つことはできない、と心は落ちつかなかった。
勘定奉行佐橋長門守御役替えになり、庄三郎の尋問のことなども、どうなることかと、治三郎は心配していたが、十日程して地頭所の用人木沢要助が、尼屋佐兵衛宿へ訪ねて来て、退くつしているであろうと言い、役所向きも心配には及ぶまいと言った。
源治衛門も、永く滞在しているので、費用もかさみ容易でないから、できるなれば地頭所内の長屋へ移りたい旨申あげた。考えおくがもう少しの間宿に居るがよい。もし永びくようであれば、屋敷の方から引取るようにするからとのことであった。
三日後呼び出しがあり、願いのことも判って貰えることと、期待して出頭したところ、案に相違して願いの趣き相成らずとのきつい仰付であった。
その頃、鹿畑村の随之進も江戸に滞在しており、源次衛門は随之進の宿を尋ね、相談を重ねたりしたが、この上は老中へ訴える外はないと考えたが、当座の金にも差支え、知り合いの高雄某より壱分借用して、二月廿九日江戸を出立、三月二日に村に着いた。
すでに娘の聟は、離縁して家を去り、母親、女房、娘、三人の孫たちは皆源次衛門ひとりを頼って居り、江戸へ立つこともならず、心をくだいて居たところ、江戸の御屋敷から三度程便りが届き、書状の内容は郡代からのもので、催促の飛脚は行かぬから、源次衛門に安心せよとの便りであった。
諸々の借金が済んだわけではないので心は重かったが、それにしても幾分かは胸の安まるのを覚えるのだった。(完)
(江崎源次衛門家文書)
(前記の外天保十年十一月、彼ら村役人たちは思案に余り、近くの他の知行所に、家内引連れて移転して、八州方に逮捕され再び元に戻されたこともあったようである。)