7 年貢

267 ~ 280
 検地によって石高・村高が決まると、これに対して年貢が賦課される。「五公五民」といえば、収穫量の五割を年貢とし、残りの五割が農民の所得となる。初期には「四公六民」享保年間(一七一六)以後は「五公五民」となったと言われるが確証はない。地頭により高低があり、高率では「八公二民」の場合もあったと言われる。土地の生産高に対する年貢の他に、雑税とも言うべきものが種々あって、商工業者に対しては冥加金・運上などが課されたが、営業所得に対するものはなく、支配者にとって主たる税の対象は、あくまで土地の生産高であり農民であった。
 割り当てられた年貢の滞納は許されず、借金をし、田畑を売払い、妻子を奉公に出しても納めなければならない。それでも滞納すれば五人組の連帯責任となり、最終的には名主の責任となる。天保年間、上湯津上村の名主江崎源次右衛門、勇三郎らが、年貢上納のための借金が積って千四百余両となり、返済に窮して召捕られ、江戸へ送られた苦難の記録が、別記『坂本記』である。とに角百姓は、年貢を納めるために生れ、働いているようなもので、年貢を納めて剰余があれば、それは百姓の作徳(つくりどく)とでもいう程に考えられていたようである。
 現在村に残る記録によると、年貢減免の訴えは、東部湯津上地区に著しく多い。これは東部方面が、一般に他地区より瘠地・荒地が多かったということであろうか。
 この重税とともに当時の農民を苦しめたものに、もろもろの災害特に飢饉があった。日本の災害は、過去一、三〇〇年間に一、〇二四回、そのうち飢饉は三三八回、江戸時代には四、五年に一度の割合で起こったと伝えられる。うち下野関係は次に示す通りである。(『栃木県の風土と歴史』より)
    下野関係の飢饉(『日本災害史』による)
 
西暦年号飢饉
一六八二天和二・日光神領、五月地震二回(マグニチュード六・四、七・四)、七月洪水・餓死三二七人、潰屋三三二戸
一六八九元禄二・多雨凶作、日光神領、鹿沼に狼出没、七年までに犬二一疋・馬一頭食う。
一六九八〃 一一・多雨冷害・日光神領内の飢人一万四、〇〇〇人、飢死二〇〇人(推定)日光神領の町谷村七六戸中七二戸は食物なし
一六九九〃 一二・多雨冷害、八月洪水
一七〇二〃 一五・凶作・餓死多数
一七四二寛保二・関東洪水、凶作
一七五五宝暦五・冷害、凶作
一七六六明和三・関東洪水、凶作
一七八三天明三・多雨冷害、八月洪水、七月浅間山大噴火(死者一、一五一人、焼失一、一八二戸)降灰多量→気候異変助長、大凶作・餓死多数
・大田原、黒羽騒動、黒羽藩―鈴木武助が郷倉に食物貯えさす。
・足利、佐野打こわし、真岡の貧農八六戸が富家五戸を襲う(四年)。
・鹿沼の鈴木石橋が米五〇〇俵出し、数百人を救う(日光神領三万の人口が二万人となる)
一七八五〃 五・夏旱、凶作
一七八六〃 六・多雨冷害、七月洪水、大凶作
一七八七〃 七・霖雨冷害、大凶作(五月穀乏し)
一八一四文化一一・旱魃、凶作
一八三一天保二・冷雨、大凶作
一八三二〃 三・霖雨、大凶作、餓死多数
・桜町(二宮町)、二宮尊徳が稗を蒔かせ(一人五俵ずつたくわえ)餓死を救う。
一八三三〃 四・大風雨、冷害、凶作、烏山の農民九村二〇〇人の騒動
一八三四天保五・旱魃、凶作・烏山藩に二宮尊徳が米稗を送り八七〇人を救う。
一八三六〃 七・冷害、凶作(収穫〇・三)・八年足利・小俣の一四〇人が米四〇〇俵を押借す。
一八四一〃 一二・関東凶作、秋に疫病流行
一八四五弘化二・六月より風雨強く、下野凶作、(とうもろこし、中は灰の如し)
一八六五慶応一・五月氷雨、冷害・二宮弥太郎が日光神領に大根種(二石三斗)を蒔かす。
一八六六〃 二・多雨冷害、洪水・(米価上昇、一升一〇〇文―三四七文)・日光より六〇〇人今市打こわし
一八六七〃 三・旱魁(井水涸れる)凶作(米価上昇、一升―七五一文)

 
 天保十年の記録にも、「近年度々の凶作これ有り、追々困窮に落入り、別して已申両年の凶作には、餓死に及ぶべき程の儀、草葉の類の品麁(そ)喰仕り候間、悉く疲衰に及び、農業相成り難く候折柄、疫病流行仕り、死失出来、弥増し人少相募り、就中御料所の儀は、高弐百拾石壱斗三升二合御座候て、往古家数廿九軒、人別百三拾人余御座候所、近年纔(わず)かに九軒、人別弐拾人内外にて……」とあり、また「坂本太郎十郎御知行所百姓、別紙申上げ候通り、残らず引払いと相成り、今般御見分遊ばされ候通り、高三百弐拾三石余の田畑、皆荒れ罷成り候」と記されている。
下野に関係のある災害
年度
災害   
1615(元和1)~1650(慶安3)1651(慶安4)~1700(元禄13)1701(元禄14)~1750(寛延3)1751(宝暦1)~1800(寛政12)1801(享和1)~1868(慶応4)合計
飢饉・凶作612817684
霖雨・大雨5517133373
洪水81226141272
旱魃61410121254
地震8532927
火山噴火83851135
病気流行69982052
合計47608171102361

 この時代の年貢は、大別すると正租と雑租とに分けられる。
 正租 これは田畑にかけられる基本的な租税で、当時は本途物成または単に物成といい、また取箇・成箇などとも呼ばれた。田畑の生産物に課せられるので、それぞれ田方物成・畑方物成といわれる。前者は米の現物納、後者は米で換算するが、実際は金納であった。
 この本途物成には、次のような種々の名目の付加税があった。
延米 延石、延出米ともいう。上納した米の目減りを補うために附加する米で、一俵につき二升ぐらいであるが、地域により差があった。
合米 込米ともいう。上納の際、輸送途中の減量を予想して、余分に入れる米で、一俵につき一升が普通であった。
口米(口永) 米納の本租には米で、金納の本租には金銭で納めた。江戸初期には、年貢徴収にあたる代官所の事務費として納入させ、代官に下付した。口米は米一俵につき一升、口永は貢永百文につき三文の課率であったが、時代により地域により差があった。後天領では、代官所の諸経費を、幕府から支給することになり、そのため口米・口永は幕府に納入することになった。尚「永」は、もと永楽銭の価値を基準に算定した年貢の収納高であるが、慶長十三年(一、六〇八)幕府がその通用を禁止したので、永楽銭は消滅した。然し実際には永の名目が用いられ、畑年貢収納には永高として後まで用いられた。

 雑租 雑租とは、田畑以外にかかる租税で、小物成・高掛物・国役・夫役に大別される。
小物成 これは田畑以外の土地の用益または、その産物を対象とするもので、次に示すように、種々雑多な名目が付けられている。

山手 領主の山林から落葉や薪などを採る代償として、田地の高に応じて課せられた。
野銭 野地の利用に対して課せられる。かや銭・あし野銭・やぶ原銭などがある。
藪銭 藪年貢などともいわれ、屋敷内または屋敷続きの竹藪に課せられた。
山年貢 村落または個人の所持する山そのものに課せられた。山役は別で伐木に課せられる。
川手 中世は領主が、領内の河川を往復する旅人や、荷物に課した通行税をさしたが、近世では河川の漁獲物に課せられた。

次の三種は、農民にはあまり関係のないものであるが、序でに挙げておく。

冥加金 例えば、酒造・油絞り・質屋・旅籠(はたご)など、各種営業に課せられたもので、幕府または藩から営業を公認保護されたことに対する献金の性格を持ち、初めは税率も一定しなかったが、次第に租税の一種と見なされ、一定の税率を課せられるようになった。
運上 おもに商・工・漁・鉱・運送業などの営業に従事したものに対して課せられ、冥加と異なり一定の税率があったが、地域により差があった。下蛭田村の簗に対して課せられた簗運上の例がある。
浮役 税源または税額が一定せず、または臨時に徴収するため税額が浮動するので、浮役の名がある。紺屋役・大工役などその他あり多くは銀納であった。

 この他、茶楮年貢・漆年貢・野年貢・野役米・野手米などと各種の、農民の些細な収入も見逃すことなく課税されていた。
 高掛物 これは村高を基準に課せられたもので、その種類も雑多であるが、おもなものは次のようなものである。
伝馬宿入用 五街道の問屋・本陣の給米、宿場入用にあてる。
六尺給米 幕府の雑人夫の給米にあてる。享保六年(一七二一)以降高百石に付弐升。
蔵米入用 浅草御蔵の維持費、高百石に付関東では永二五〇匁。

 以上を高掛三役と称し、天領に対して課せられた。
高役 おもに土木工事などのため、石高に応じて賦課された臨時の課役で、代納も許され金銀納の場合、それぞれ高役金・高役銀といった。
国役 これは幕府が徴収する臨時の賦課で、日光法会・朝鮮使節来聘・河川堤防の修築費など、地域を限って課した。例えば日光法会国役金は、関八州と街道筋の国々十六ケ国の御料私領共に課されたもので、その中には勿論下野国も含まれている。
夫役 労働課役のことで、江戸時代には助郷・道路・河川の土木工事などがある。次第に米や金銭による代納が行われるようになり、その場合それぞれ夫米・夫銭といった。

 以上が江戸時代の租税すなわち年貢の概要である。次に本租である田畑の年貢の定め方は、先ず初めに田畑の善悪により上々・上・中・下・下々と等級を定める。ついで上田について三、四ケ所ほど坪刈りを行ない、坪当たりの平均収穫量をみる。もしこれが坪当たり籾一升とすれば、一反歩では三石、これを五合摺にして一石五斗となり、これを石盛十五という。中田・下田は一級毎に上田より二つ下がりに石盛をつけるのが普通だから、上田が十五なら中田は十三、下田は十一となる。これを基準として一定の率を以て年貢の高を決める。五つ五分二厘の年貢といえば、収穫高に対して五割五分二厘の年貢ということで、天保年間の記録による湯津上村の年貢率は五・五八、すなわち五割五分八厘というのが残っている。
 ついで実際に年貢の額を算定して賦課するのにつぎの二法があった。
 検見法 前述のように、収穫前に稲の実り工合を検査して収量を見積もり、年貢額を定めるもの。まず内見(ないみ)といって、村役人と百姓とが立毛の下見をし、次に小検見といって代官の手代が、内見帳をもとに数ケ所を選んで坪刈りを行ない、全体の収量を推定する。それが済むと大検見といって代官自ら見廻る。矢張り坪刈りを行なって小検見の結果と照合し、全体の収量を判定して年貢の量も定める。大体現在の共済組合の評価方式と同じ様なものである。これが原則であるが、土地により、作物により、また領主側の都合により、種々の方法も行なわれた。例えば村役人を呼出して定める請免居(うけめんい)検見、村の一隅から全体を眺める遠見検見などもある。この検見による方法は合理的でもあるが、反面種々の弊害もあったようである。
 定免法 これは過去数ケ年の収穫量の平均を基礎として年貢の額を定め、その一定額は特別の場合を除いて、変更しないのが普通である。
 年貢の割付 以上のようにして年貢の額が定まると、これを各村々に割付ける。個々人にではなく村単位にである。それを、村役人が惣百姓立会のもとに、各人の持高その他の条件に応じて割付する。年貢は領主が作毛を検査して減免率を決めるということから、この年貢割付の令状を「免状」といい、また「免相、免定」とも書かれている。
 ここに示したものは、元禄元年下湯津上村、文政十一年下蛭田村に宛てた年貢免定である。取米は米で上納するもの、取永は金銭納すべきものである。上々田一反に付下湯津上村は五斗三升取、下蛭田村は五斗八升取とあるが、石盛の記入がないので税率は分からない。また上畑一反歩に付下湯津上村は六拾九文取、下蛭田村のそれは九拾弐文取である。荒引・川欠引・川押引・溜井敷・郷蔵敷引などはそれぞれ荒れ地、河川の氾濫などによる減損、公共用地に対する免除である。本田・新田・新開発地毎に区分してある。見取場は新に開発された新田で、反別だけをはかり石高はつけず、年貢は暫定的に適当に軽量を見取った場所で、地味がよくなれば検地して石高に結んだ。
    辰之年免定之事
              下野国那須郡 下湯津上村
一高弐百弐拾石七斗弐合
 此反別弐拾八町八反弐畝弐歩  内拾四町弐反六畝歩田方
                 拾四町五反六畝弐歩畑方
                 但川欠並年々永引分入
     此わけ
 上々田壱町三反七畝弐歩
 内六畝拾四歩         年々川欠永引亥子共ニ
 残壱町三反拾八歩
  此取米六石九斗弐升弐合   但壱反五斗三升取
上田九反弐畝九歩
 内壱畝拾六歩        年々永引
 残九反弐拾三歩
  此取米四石三斗五升七合   但壱反四斗八升取
中田四町九反六歩        内三畝歩暮ニ中畑ヨリ入
 内三畝弐拾四歩        年々永引
 残四町八反六畝拾弐歩
  此取米拾九石四斗五升六合  但壱反四斗取
下田四町九反九畝拾六歩     内弐畝廿歩下畑亥ヨリ入
                外三畝拾弐歩下畑ニ成子より引
  此取米拾六石四斗八升五合  但壱反三斗三升取
下々田弐町六畝廿七歩     内壱反歩下畑より田ニ成亥より入
               外九畝歩下々畑ニ成子より引
  此取米四石三斗四升五合   但壱反弐斗壱升取
上々畑壱町弐畝拾七歩
  此取永七百九拾文      但壱反七拾七文取
上畑壱町壱反八畝四歩
  此取永八百拾五文      但壱反六拾九文取
中畑五町三反七畝拾六歩    外三畝歩亥ヨリ中田ニ成引
  此取永弐貫六百八拾八文   但壱反五拾文取
下畑三町五反弐拾歩      外弐畝廿歩下田ニ成引
               内三畝拾弐歩下田子より入
  此取永壱貫弐百六拾弐文   但壱反三拾六文取
下々畑弐町弐反四畝廿四歩   外壱反歩亥より田ニ成引
               内九畝歩下々田畑ニ成子より入
  此取永五百八拾四文     但壱反廿六文取
屋敷壱町弐反弐畝拾壱歩
 内三畝歩           御蔵屋鋪ニ引
 残壱町壱反九畝拾壱歩
  此取永壱貫百九拾四文    但壱反百文取
 小以米五拾壱石五斗六升五合
 小以永七貫三百三拾三文

一高四拾七石八斗三升壱合       同所新田
 此反別拾壱町八反弐畝拾弐歩  内壱町四反五畝廿六歩 田方
                 拾町三反六畝拾六歩 畑方
                 但川欠年々永引分入
     此わけ
 上田三畝弐拾壱歩
 内壱畝廿壱歩         年々永引
 残弐畝歩
  此取米四升六合       但壱反弐斗三升取
中田壱反壱畝拾弐歩      内拾五歩中畑田ニ成亥より入
 内七畝壱歩          年々永引
 残四畝拾壱歩
  此取米八升七合       但壱反弐斗取
下田壱町三反弐拾三歩     内六畝拾弐歩下畑田ニ成亥より入
 内拾歩            年々永引
 残壱町三反拾三歩
  此取米壱石九斗五升六合   但壱反壱斗五升取
上畑壱畝八歩
 此取永六文          但壱反四拾四文取
中畑五反三畝拾三歩      外拾五歩中田ニ成亥より引
 内九畝拾三歩         辰亥川欠永引
 残四反四畝歩
  此取永百五拾文       但壱反三拾四文取
下畑九町八反壱畝廿五歩    外六畝拾弐歩下田ニ成亥より引
 内九畝六歩          辰之川欠永引
 残九町七反弐畝拾九歩
  此取永弐貫六百廿六文    但壱反廿七文取
  小以米弐石八升九合
  小以弐貫七百八拾弐文

一五町壱反三畝弐拾三歩        子改新開
     此 わけ
 上田四畝廿弐歩
   此取なし          当辰之川押引
 中田壱反拾歩
   此取なし          当辰之引川押
 下田八畝八歩
  内六畝拾弐歩         溜井敷卯より永引
   壱畝廿六歩         当辰之川押引
   此取なし
 上畑壱反五畝拾六歩
  内七畝廿三歩         当辰之川押半毛引
  残七畝廿三歩
   此取永三拾四文       但壱反四拾四文取
 中畑六反八畝廿壱歩
  内三反四畝拾歩        当辰之川押半毛引
  残三反四畝拾壱歩
   此取永百拾七文       但壱反三拾四文取
 下畑四町六畝六歩
  内九畝七歩          溜井敷卯より永引
   壱反拾三歩         当辰之川押半毛引
  残三町八反六畝拾六歩
   此取永九百六拾六文     但壱反廿五文取
  小以米取なし
  小以永壱貫百拾七文
     米五拾三石六斗五升四合
  取合 永拾壱貫弐百三拾弐文
   外
 米壱石五斗三升三合       口米
  但三斗五升入壱俵ニ付壱升宛
 永三百五拾壱文         口永
  但本永壱貫文ニ付三拾壱文弐分五厘宛
 米納合五拾五石壱斗八升七合
 永納合拾壱貫五百八拾三文
右之通当辰之御物成相極候間村中大小之百姓並出作之者迄 不残立会無相違割付 来ル極月十日以前皆済可仕者也
            上遠野万右衛門
  元禄元年辰十月
            山田郷右衛門
         那須郡下湯津上村 名主
                      中
                  百姓
                            (永山正樹家文書)
    子年可納年貢割付之事
              野州那須郡 下蛭田村
一高四百三拾弐石五斗五升三合
 此反別四拾七町九反弐畝弐拾参歩
     此訳
 上々田四町七反五畝弐拾九歩        下郷
  内弐町六反七畝拾歩      川欠引
  残弐町八畝弐拾壱歩      壱反五斗八升取
   此取米拾弐石壱斗四合
 上々田壱町六反壱畝拾弐歩         上郷
  内壱反壱畝弐拾歩       荒引
  残壱町四反九畝弐拾弐歩    壱反五斗三升取
   此取米七石九斗三升五合
 上田五町四反弐拾七歩           下郷
  内三町壱畝八歩        川欠引
  残弐町三反九畝拾九歩     壱反五斗三升取
  此取米拾弐石七斗
 上田弐町四反四畝九歩           上郷
  内壱町壱反五畝歩       荒引
  残壱町弐反九畝九歩      壱反四斗五升取
   此取米五石八斗壱升八合
 中田三町三反四畝拾歩           下郷
  内弐畝弐拾四歩        永引
   壱町七反七畝六歩      川欠引
  残壱町五反四畝拾歩      壱反四斗五升取
   此取米六石九斗四升四合
 中田弐町壱反壱畝弐拾八歩         上郷
  内壱反三畝拾八歩       永引
   壱町六畝拾弐歩       荒地引
  残九反壱畝弐拾八歩      壱反四斗取
   此取米三石六斗七升七合
 下田壱町三反七畝拾五歩          下郷
  内五反三畝拾五歩       川欠引
  残八反四畝歩         壱反三斗五升取
   此取米弐石九斗四升
 下田四町四反四畝拾七歩          上郷
  内壱町八反五畝五歩      荒地引
  残弐町五反九畝拾弐歩     壱反三斗弐升取
   此取米八石三斗八勺
 下々田九反拾八歩             下郷
  内壱反弐歩          永引
  残八反拾六歩         壱反弐斗七升取
   此取米弐石壱斗七升四合
 下々田弐町九反五畝三歩          上郷
  内三反六畝歩         荒地引
  残弐町五反九畝三歩      壱反弐斗五升取
   此取米六石四斗七升七合
 上々畑壱町五反九畝拾三歩
  内五反弐畝歩         荒地引
  残壱町七畝拾三歩       壱反九拾七文取
   此取永壱貫四拾弐文壱分
 上畑弐町五反五畝拾四歩
  内壱反四拾弐歩        川欠引
   八反六畝拾歩        荒地引
  残壱町五反五畝弐歩      壱反九拾弐文取
   此取永壱貫四百弐拾六文六分
 中畑四町弐反六畝拾三歩
  内壱畝拾五歩         永引
   壱町弐反八畝弐拾八歩    荒地引
  残弐町九反六畝歩       壱反七拾九文取
   此取永弐貫三百三拾八文四分
 下畑三町九反六畝拾三歩
  内弐畝七歩          永引
   壱町壱反六畝弐拾五歩    荒地引
   残弐町五反七畝拾壱歩    壱反五拾七文取
    此取永壱貫四百六拾七文
  下々畑四町四反弐拾弐歩
   内弐拾四歩         永引
    弐町弐畝拾七歩      荒地引
   残弐町三反七畝壱歩     壱反四拾七文取
    此取永壱貫百拾四文
  屋敷壱町七反七畝拾七歩
   内三畝歩          郷蔵敷引
   残壱町七反四畝拾七歩    壱反百弐拾文取
    此取永弐貫九拾四文七分
                   同所 新田
一高八拾石九升弐合
  此反別拾六町九反九畝弐拾七歩
     此訳
 上田八反五畝八歩             下郷
     皆引
 中田弐反弐畝拾七歩            同断
     皆引
 中田壱反壱畝拾弐歩            上郷
     皆引
 下田弐反五畝五歩             下郷
     皆引
 下田九反弐畝拾七歩            上郷
     皆引
 上畑四反五畝七歩
     皆引
 上畑弐反壱畝弐拾三歩           上郷
     皆引
 中畑七反七歩               下郷
     皆引
 中畑壱町八畝弐拾三歩           上郷
     皆引
 下畑五反五畝壱歩             下郷
     皆引
 下畑拾壱町弐反弐拾五歩          上郷
     皆引
 屋敷五反九畝弐歩
  内五畝弐歩          川欠引
  残五反四畝歩         壱反百弐拾文取
   此取永六百四拾八文
     外ニ
一田三畝歩            見取場 川欠引
一田六畝弐拾四歩         同断  同断
一畑弐畝拾弐歩          同断  同断
一永弐百四拾文          鉄砲役銭
 取米合六拾九石七升四合
  延米九石八斗七升七合
 取永合拾貫三百七拾文九分
  口永三百弐拾三文五分
一永百弐拾五文          簗運上
     米七拾八石九斗五升弐合
  納合
     永拾壱貫八百拾九文五分
 右之通相究上者大小之百姓立会無高下致内割極月十日以前急度可皆済者也
             加賀瓜兵庫内 鈴木三郎兵衛
            本多甚左衛門内 網川庄十郎
  文政十一子年     浅井重四郎内 笹沿東作
              中根左門内 高山丑之進
            加賀美鶴次郎内 川名祐之進
                    右村 名主
                          中
                       百姓

(蜂巣英夫家文書)


年貢割付状(蜂巣英夫家所蔵)

 次は「覚」とあるが、万延二年正月に出した、前年分年貢の請取である。米は、百八四俵二斗四升四合のうち、名主給米その他を差引き、開発場の分を加えて実際に納める分は、八五俵一斗三升二合、このうち二二俵が廻米(江戸蔵送り)、残り六三俵一斗三升二勺を、一両に付き五斗三升五合の計算で、その代四七貫三百四六文余が納める金額である。これに畑方の分と雑税を加えた、合計六五貫六百五二文四分二厘二毛が総額である。これを分割納して、先納に当たる分については、月二分五厘の利がつけられてある。尚湯殿村外三ケ村の名が挙げられているが、これは出入作の関係であろうか。
       覚
米百八拾四俵弐斗四升四合      田方納辻 延口共四斗入
    内
  米弐俵            名主給米
  同弐俵            正法寺へ被下
  同弐俵            大豆代米
  同弐俵            潰百姓へ被下
  同壱俵            堰扶持米
  同七拾五俵四升六合三勺    前々より永引 荒地引
  同拾五俵弐斗弐升壱合壱勺   本免之内辰年より 申年迄二分方 御用捨引
  同三斗六升弐合三勺      川欠引
  小以米百俵弐斗弐升九合五勺
 残而
 米八拾四俵壱升四合五勺
  外ニ
  米壱斗三升六合三勺      開発場納
  同三斗七升九合五勺      取立百姓元八 開発場納
 合米八拾五俵壱斗三升弐合
    内
  米弐拾弐俵          廻米納
 残而
 米六拾三俵壱斗三升二勺     地払相場 金壱両ニ付 五斗三升五合替
  代永四拾七貫三百四拾六文壱分六厘八毛
 
 一永拾三貫六百四拾八文三分   畑方納
 一同三百文壱分四厘       田成畑納
 一同壱貫四百五拾四文      夫金納
 一同弐百文           山銭納
 一同弐百四拾弐文弐分七厘六毛  車力賃
 一同弐貫四百六拾壱文五分三厘八毛 大豆四俵納 金壱両ニ付 六斗五升替
  小以拾八貫三百六文弐分五厘四毛
 合永六拾五貫六百五拾弐文四分弐厘弐毛
  右之内
  永三貫四百五拾七文弐分四厘  湯殿村 佐良土村 山田村 寺内村 右四ケ村 荒地引
  同弐拾貫文          未ノ十二月 東泉村納
   利永三貫弐百五拾文
  同六貫文           申ノ二月 柏崎村納
   利永七百五拾文
  同四貫五百文         四月納
   利永四百五拾文
  同弐貫文           五月納
   利永百七拾五文
  同弐貫文           六月納
   利永百五拾文
  同四貫文           同夏成納
  同五貫文           同月納
   利永三百七拾五文
  同弐貫文           八月納
   利永百文
  同壱貫文           九月納
   利永三拾七文五分
  同弐貫文           十月納
   利永五拾文
  同弐貫文           十一月納
  小以
   永五拾九貫弐百九拾四文七分四厘
 引残而
 永六貫三百六拾壱文四厘七毛   御勘定払
右者去申御年貢米永書面目録之通り令皆済候
                平川八兵衛
 万延二酉年正月        藤林謙三
 
                下野国那須郡
                   湯津上村
                     名主
                     組頭
                     総百姓
前書之通り相違無之もの也
              福省三印

(永山正樹家文書)


年貢請取状(永山家所蔵)


年貢請取状


年貢請取状


年貢請取状