年貢減免の歎願

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この類の記録は、湯津上地区方面に多いことは前にも記したが、以下その主なものを挙げてみる。
 これは、天保六年の上湯津上村のもので、万治年中は家数五〇軒もあった村が、年々衰えて現在は僅かに一〇軒、荒所の分は村で弁納しても高掛は村方の余荷となり、其の後も荒所は追々増している。他に佐久山宿助郷への出費もあり、誠に難渋しているので、この儘では現在上納している田地までも、荒所となるやも図り難いので、潰れ跡や荒所の年貢を弁納している場所を調べて、その分の免除をして貰いたいという歎願書である。
     恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
 御知行所野州那須郡上湯津上村、割元格江崎勇三郎、名主江崎源治右衛門、組頭庄三郎、同彦三郎、百姓代治三郎一同申上げ奉り候、往古万治年中、御検地御取調べ御座候処、御高三百弐拾三石六斗六升六合、其の比は家数五拾軒余も之有り、本田新田に至る迄、御水帳の通り御年貢相納め候儀は、人別も多く御座候て、農業向き巨細に行届き、荒所聊かも御座無く候趣、兼々承り伝へ申し候、然る所其の後は、村柄追々衰微に及び、人別相減じ、作方不行届に相成り、荒所多分に出来仕り、既に天明年中御定免後、御代官辻六郎左衛門様より、御尋ね御座候に付、潰れ退転荒所の分、高百拾九石八斗三升弐合の田畑荒所に罷成り、相調べ書上げ奉り候、残り高田畑共に、弐百三石余御座候所、此の内田方御取米四拾弐石弐斗六升壱合の場所に御座候、其の後追々人別相減じ、当時僅かに家数拾軒有り、百姓納米弐拾九石五升九合三勺御座候、荒所田高拾八石六斗弐升壱合八勺、御取米六石九斗六升四合壱勺村弁納仕り候、残り御取米八石四斗余の所、組持村持に仕り、他領へ入れ置き御上納仕り候、高掛の儀は、村方余荷に相成り申し候、其の後畑方荒所の儀も、追々多分に出来、此の節に至っては、甚だ以て困窮仕り、立ち行き難き姿に罷成り申し候仕合、且其の上当春中より、佐久山宿助郷役相掛り、多分の出銀仕り候て、何とも一方ならず難渋至極仕り候、右の訳合に御座候得ば、此の上如何なる体に相成り申す可きやと、私共一同心配仕り罷有り候、恐れ乍ら、御地頭所様御勝手向き、当時御差支え勝に成らせ御座候所、御時節をも弁えず、願上げ奉り候儀は、何共恐れ入り奉り候得ども、私共是迄村方の儀に候得ば、種々骨折り出情(精)仕り候得共、昨今に相成り候ては、必至と難渋に相迫り候に付、是迄御年貢相納め候御田地迄も、荒所に相成り申可くやも計り難く、左候得ば、弥々以て御差支えに相成り申す可く、私共に於ても、御役儀相勤め罷有り候甲斐も、御座無く候様に存じ奉り、何卒潰れ跡荒所御年貢弁納の場所、御取調べ下し置かれ、当時有形の御上納仰せ付けられ 村方御救い御取立て成し下し置かれ候様、此の段恐れ乍ら願上げ奉り候趣、御聞済みに相成り候はば、広大の御仁恵と、誠に以て重畳有難き仕合に存じ奉り候、左候得ば、一統勢力を相増し、是迄不行届の儀も格別に出情仕る可く、却て荒地開発の手立てにも相成り、追々御上納相増し候様、罷成り申す可くやと存じ奉り候、私共に於ても、専要に相心掛け、一統気力を立て直し候所より、難渋の者共追々引き立て、相励まさせ候様、出情仕る可く候、何卒格別の御慈悲を以て、御憐愍の御沙汰、成し下し置かれ候様、此の段恐れ乍ら願上げ奉り候、以上
           御知行所上湯津上村
 天保六年未十二月 日    百姓代  治三郎印
               組頭   彦三郎印
                    庄三郎印
               名主   江崎源次右衛門印
               割元格  江崎勇三郎印
御地頭所様御内
  佐藤新助様
(江崎源治右衛門家文書)

 以後、同じ様な歎願書が何度か出されているが、追々逼迫して遂に、代官所取扱金貸附金拾壱ケ所、其の他日光、駿府のものと合わせて三口、千四百余両の支払いに窮し、天保十一年五月、名主勇三郎外村役人三名は召捕りとなり、吟味を受けたが、一旦佐良土村名主、治助にお預けになった。然しその後出府を命じられ、勇三郎は病気のため応じなかった所再び捕えられ、吟味を受け提出したのがこれである。
     恐れ乍ら書付を以て申上げ奉り候
 坂本太郎十郎知行所野州那須郡湯津上村名主、勇三郎申上げ奉り候、私儀高拾三石余所持仕り、家内八人暮し、年番名主相勤め候処、当八月十二日御召捕に相成り、御差出しの上御吟味に付、始末左に申上げ奉り候、此段当村高三百廿三石六斗六升六合これ有り、以前は御代官所に御座候処、寛政度当地頭知行所に相成り、家数四拾軒御座候て、百姓相続け仕り罷有り、左候処前々、御代官様方御取扱御貸附金拾壱ケ所並に日光駿府右三口へ、私村方御書入れの上、地頭所金子御拝借致され候処、右御代官所御取扱いの分は、御郡代一手に相成り、右三ケ所御取立て向き厳重に仰渡され、地頭所よりは御返納仕らず候間、村方へ相掛り、駿府よりは御取立て御出役之有り、調金出来兼ね候得ば、御引立てに相成る儀も度々これ有り、拠無く夫々他借仕り、利納等にて御赦免に相成居り候仕合にて、亦日光の儀も同断、御郡代猶以て右同断、年暮に罷成り度々御差紙頂戴仕り、其の外江戸表町家より、屋敷へ仕送り残金滞りにて、御尊判相附けられ、余儀無く対談金才覚仕り時々済方相附け罷有り候得ども、是又跡残り数ケ所よりの断請置き、追々人少困窮に陥入り、田畑手余り荒地多く出来、□免の物成りも不足仕り、自然と弁納筋相嵩じ、当時家数纔(わず)かに九軒に相減じ、人別の儀も右に順じ、近村へ奉公稼ぎに罷出で候もの之有り、残りのもの共は老人・若輩・病身もののみにて、奥州道中大田原宿代助郷人馬役相勤め候処、正人馬にて罷出で候もの御座無く候に付、余儀無く賃銀を以て雇人馬等仕り相勤め、是迄取賄居り候得ども、最早や手段行詰り金子才覚も行届かず、宿方よりは諸大名様御参勤御交代に付、日々触当てを請け不参に相成り候故、宿方より厳敷く懸合い之有り、誠に以て申訳の挨拶向きにも当惑難渋仕り候、皿(ママ)ば大切の御郡役相滞り候場合に至り、何共恐入り奉り候次第に成行き候間、此段地頭所へも再応申立て置き、相成る可く儀に御座候はば、御貸附金御拝借並に諸借財共、知行物成にて引足候様、何卒御仕法御願い立て成し下し置かれ、御上にても諸賄方相附け、百姓も無難に農業出情仕り度、左も相成り申さず候ては、其の時々不用の雑償にも相懸り、弥増し借財相嵩し、御返納方相滞り候得ば、前文申上げ奉り候通り、御引立てに相成り候儀は眼前、百姓農業致す可く□す志も之無く候得ども、夫食等の手当一切出来申さず候に付、老人子供は既に渇命にもをよび候程の儀にて一村亡所仕り候も、歎けかわ敷く存じ奉り候間、比段申立て置き候得ども、何を申すも当時地頭所においても、返納方諸借財は申上ぐるに及ばず、勝手方諸向き御難渋の場合は一同承知仕り罷有る儀にて、何共申上く可き様御座無く候、凡そ借財高合せて千四百両余、私村方引当てに相成り居り、去り乍ら私方にても、何れとも取斗い申す可き手段も之無く、之に依って成丈の手探りいたし、是非共御返納方才覚仕り当難相凌ぐ心組にて、親類縁者等へ相迫り候内、当五月廿二日の夜、関東御取締御出役市川喜平次様へ、私並に年番相名主庄三郎外弐人、御召捕りに相成り、大田原宿にて一通り御糺しの上、地頭所借財方の始末申立て、全く退身致す所存のもの一切御座無く候得ども、所々より御尊判の断当亦先方催促これ有り、前書難渋の始末申立て候処、其段地頭所へ早速仰せ達せられ、私外三人の儀は江戸表の否之有る迄は知行所佐良土村名主治助へ、御預けに相成り居り候処、尚又六月八日佐久山宿御用先へ御呼出しにて、右地頭借財の儀も夫々仕法願も、相受け申可く候間、心得違いの儀之無き様仕る可き旨、仰せ渡され有難く承知仕り、則ち其の節地頭用役出役御座候て、江戸表へ罷出で候様申付けられ候間、六月十三日出立、同役庄三郎外弐人出府仕り、尤も私儀は痰症の持病之有り、病身にて罷出で申さず、然る処今般御召捕に相成り、御吟味にて前文の通り申上げ奉り候処、少しも相違の儀は申上げず候間、何卒格別の御憐愍を以て、地頭所賄方も相附け、百姓一同農業出情相成り候様、御慈悲の御沙汰偏に願上げ奉り候、以上
         坂本太郎十郎知行所
           野州那須郡上湯津上村
  天保十一子年九月        名主  勇三郎
御奉行所様

(江崎源治右衛門家文書)

 さきに出府した源治右衛門、庄三郎らは、三十日余地頭屋敷に滞在したが何の沙汰もないので、帰村してみると、名主勇三郎が召捕られていた。大いに驚いて途方に暮れている折、翌天保十二年正月またまた召捕られ吟味を受けた。勇三郎は大病のため帰村を許されたが、国元へ帰るなり病死してしまった。また組頭の庄三郎は吟味途中で欠落、百姓粂蔵も病死、残るは源治右衛門、治三郎、福蔵、彦三郎の四名だけとなり、取るべき手段もなく当惑していたが、八月に一先ず許されて帰村した。ところが天保十三年一月また奉行所から呼出しがあり、源治右衛門、治三郎に対して「村方立退き候段不埒に付」とのことで、三貫文ずつ過料を命じられた。(当時知行所内の百姓たちは、他村へ奉公に出ている者や、また留守居の者も借財の催促に堪えかねて、親類縁者などを頼り身を寄せたりしていて、ほとんど亡村の状態であった。)二人は漸く宿屋から借りて上納を済ませ帰村を許されたが、このまま帰村した処で、更に厳重な取立てを受けるのは眼前のこと、とても帰村は出来ず、四人共非人乞食と成り果てるよりほかない。それで何卒お慈悲を以て、前記拝借金の御猶予をお願いしたいというものである。
     恐れ乍ら書付を以て御訴訟申上げ奉り候
 野州那須郡湯津上村組頭源次右衛門、百姓代治三郎申上げ奉り候、私村方高三百弐拾三石六斗六升余、往古は御料所様に御座候、寛政年中の頃、御地頭所様へ御分郷仰付けられ、其の砌は家数四拾軒余も御座候、其の後御勝手向不如意に付、御郡代・日光・駿府右三ケ所より御拝借仕り、然る所一躰下野那須郡上柚上村の儀は、至って悪田に付百姓共困窮に及び、年々潰れ退転仕り右三ケ所御拝借仕り候砌は、家数四拾軒も御座候て、御拝借金御利分の儀聊も滞りなく、御上納仕り来り候得ども、前書申上げ奉り候通り、家数四拾軒余も追々潰れ退転仕り、只今にては家数漸く九軒に相成り、右に付人少に御座候て御田地の儀は些か弐分通程植付け仕り、其の外は皆荒と相成り、然る処右家数四拾軒余之有り、人別の儀は百八拾人余も御座候砌も、同様に御拝借金御上納仰付けられ、元より困窮の私共取続難渋仕る折柄、近年凶作打続き直更必支と難渋仕り候得ども、右三ケ所御貸附方御役所様より、厳重の御上納仰付けられ、延日に及び候はば御差紙御引立て等蒙り奉り、何様にも凌方御座無く候故、金子才覚の心組にて親類縁者を頼り、如何仕る可きやと当惑罷有り候処、去々子年五月中、関東御取締御廻村の節、名主祐三郎、私共一同御召捕に相成り、恐れ入り奉り、大田原宿御旅宿において、一と通り御糺し御座候て、御地頭所様へ御引渡しに相成り、御地頭所様御出役一同出府仕り、御屋舗様に三拾日余逗留仕り居り候得ども、何の御沙汰御座無く、追々諸雑用に差支へ、拠無く無沙汰に帰村仕り候儀は恐入り奉り候、然る処同八月中名主祐三郎御召捕に相成り驚入り奉り、私共の儀も如何相成る可くやと途方に暮れ、恐肺(ママ)致し居り候処へ、去る丑年閏正月又候御召捕に相成り御差出しの上 御勘定御奉行深谷遠江守様御評席において、種々御吟味請け奉り候内、御奉行様御役替遊ばされ、夫より、佐橋長門守様御役所へ御呼び出しに相成り、度々御吟味請け奉り候内、名主祐三郎儀大病に取合一と先ず帰村願い奉り候処、御用済みに相成り国元着仕り候と直様病死仕り、組頭庄三郎儀は御吟味中欠落仕り、百姓粂蔵儀も同様病死仕り、右に付人別の儀は
                   組頭  源次右衛門
                   百姓代 治三郎
                       福蔵
                       彦三郎
右に付残りの者、四人と相成り、以来如何仕る可きやと、心命爰に極り、当惑罷有り候折柄、昨五年八月廿七日一ト先ず帰村仰付けられ、罷り帰り候処、又候御勘定御奉行所、佐橋長門守様御役所より、先月十七日御差日の御差紙頂戴仕り奉り、早速出府仕り窺い奉り候処、村方立退き候段、重々不埒に付、組頭源次右衛門、百姓代治三郎右両人へ過料として三貫文宛仰付けられ、恐れ入り奉り元より困窮の私共故、種々心痛仕り、漸々宿屋にて借用仕り、御上納仕り候処 御奉行様仰聞かせられ候には、御代官中村八太夫様御屋舗へ相納め候様、仰渡され候間、早速御上納仕り候、然る処、勝手次第帰村致す可き様 仰渡され有難き仕合に存じ奉り候得ども、前書申上げ候通り、必至難渋の私共、此の儘帰村仕り候はば、皿(ママ)に右三ケ所御貸附御役所様より、御差紙且は御引立等蒙り奉り候儀は、眼前の儀と恐れ乍ら存じ奉り候、右にては迚も帰村仕れず、右郷相絶右四人の者共、非人乞食と相成り果て候外御座無く候、猶又御地頭所様御拝借成され候は、御先代様、御当代様には、些も御上納仕られず候段、重々歎けかわ敷く存じ奉り候、之に依て恐れ乍ら、何卒格別の御憐愍を以て、右三ケ所御拝借金御猶予成し下され候はば、百姓共一同相助かり、誠に以て莫大の御慈悲と有難き仕合に存じ奉り候、此の段偏に願上げ奉り候、以上
            坂本太郎十郎知行所
             野州那須郡湯津上村
  天保十三寅二月 日      組頭   源次(ママ)右衛門
                 百姓代  治三郎
御奉行所様

(江崎源治衛門家文書)

 以上、まことに悲惨としか言い様のないことであるが、その後記録にはないが追々立直ったようである。
 次に嘉永年間の不作に際し見分を願い出た結果、検見が行なわれた模様を記したものがあるので、取り上げてみる。
     恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
 御知行所野州田野原村・東泉村・湯津上村役人一同申上げ奉り候、当作方の儀、夏中より冷気勝にて、不順の気候数度の洪水、田畑共違作仕り候、数度の出水打続き候事故、水腐れ等出来、一統相歎き居り候処、九月三日早朝より辰巳の大風吹出し、九ツ頃より丑寅へ吹廻し大風雨と罷成り、作物吹散り実溢れ多く、難渋相嵩じ、素より困窮の百姓必至と難渋仕り候間、何卒格別の御憐愍を以て、御見分成し下し置かれ、極窮の百姓取続き相成り候様、仰付けられ下し置かれ度願上げ奉り候、右願の通り御聞済み下し置かれ候はば、広大の御慈悲と有難き仕合に存じ奉り候、以上
                御知行所
                 湯津上村
                  与頭  金平
                  名主  元右衛門
  嘉永三戌年           同   安左衛門
      九月         田野原村
                  百姓代 藤兵衛
                  組頭  助右衛門
                  名主  平太夫
                 東泉村
                  百姓代 弥左衛門
                 組頭見習 源蔵
                  名主  弥市左衛門
御地頭所
 御役人中様

(永山正樹家文書)

 田野原村・東泉村は現在の矢板市内である。当時下野国七六万石のうち二七万石が四〇〇名以上の旗本に与えられており、然も一人一か所ではなく何か所もの小給地に分散されていた。ここではその小給地の三か村が連合しての歎願である。この願書を持って、安左衛門・源蔵・助右衛門三名が出府、願い出でた処検見の沙汰があって、帰村、十月十一日中柏崎(現南那須町内)から次のような出役の先触れがあった。
     覚
一両掛     壱荷
   此人足弐人
右者明十二日朝五時中柏崎村出立其村へ罷越候条得其意書面之人足烏山迄可差出候此段申達候、以上
 十月十一日
    五嶋半右衛門

(永山正樹家文書)

 烏山まで人足弐人差出すようとの触れである。両掛とは旅行用の行李で、挾箱またはつづらに、衣服調度などを入れたもの。十二日、安左衛門は人足二名と馬二匹を以て烏山まで出迎え、十三日御休み、十四日御検見、十五日御舂(しょう)法とメモにある。舂法とは坪刈りした稲を、役人立会いのもとに米にして、収量を検査するのである。次は見分の結果である。
字田尻
一 上々田壱反弐畝拾八歩        持主 文平
      稲草  のと
      稲株  七拾五
   内見 四合
   御改 弐合弐升
   再御改壱合三勺
  合三合五勺
字宮田
一中田六畝拾歩             持主 庄兵衛
      稲草  のと
      稲株  九拾弐
   内見 弐合
   御改 壱合四勺
   再御改五勺
   合壱合九勺
字小松原
一下田五畝弐拾壱歩           持主 五右衛門
      稲草  えひ寿(えびす)
      稲株  七十八
   内見 三合         三坪平均壱勺減
   御改 弐合八勺       内見より壱勺減にて
   再御改五勺         御取箇被御付候事
   合三合三勺
右之通相違無御座候、以上
             御知行所
              野州那須郡湯津上村
               籾扱人 百姓  惣右衛門
               同   同   作蔵
                   百姓代 宇右衛門
                   組頭  金平
                   名主  元右衛門
                   〃   安左衛門

(永山正樹家文書)

 右の結果で、御改、再御改の意味がはっきりしないのであるが、要するに、この二つを合わせたものが収量と認めたものらしい。とすると、三ケ所の内見がそれぞれ四合、弐合、三合で平均三合、今回の調査の結果はそれぞれ三合五勺、壱合九勺、三合三勺で平均二合九勺、右の下欄に付記してあるように、内見より一勺減ということになる。すなわち反当収量八斗七升で約二俵となる。
 佐良土村においても年貢の上納金に差支え、法輪寺の積立金を借用した。何の関係からか、佐良土村の直接借入名儀では不都合とのことで、上湯津上村の名儀を借用して借入れている。
 左は、そのための念書及び借用証書である。
  入置申一札之事
右者寅ノ御上納ニ差支甚以テ当惑仕候処、此度村方法輪寺積金貸付御座候得共、拙者名宛ニテ不宜、右ニ付、貴殿方エ借用名宛御無心申所実正ニ御座候、然ル上ハ返済方ニ付、少モ御心配相掛ケ申間敷候
念入置申所仍如件
            佐良土村 名主 治助印
天保十三年寅十一月
       湯津上村
          御役人中
右之通リ御借用申上候次第ニ存候  以上
 
 法輪寺御積金拝借証文之事
一金弐両壱朱也
右ハ、当丑村方小前之もの共御上納辻ニ差支、書面ノ金子御拝借仕候処相違無御座候、尤も御返上ノ儀ハ、来寅十一月廿日元利壱割ノ利足ヲ加エ月勘定ヲ以テ御上納可仕、万一其節相滞リ申候ハバ、重キ御上納差替ノ金子、縦令御収納米ニテ成共、無遅滞御返納可仕候為後証村役人并小前惣代印形入置申処仍テ如件
               湯津上村
                 役人惣代 源次衛門
 天保十三年 寅十二月      小前惣代 源右衛門
法輪寺様
    旦中
      御惣代衆中
前条壱割利足ノ儀ハ、御上納表外ニ三分、世話人雑費入用合壱割三分ノ利足ヲ加エ、御定例ノ年月御返納可仕候、若其ノ節延引ニをよび、御飛脚被下候節ハ、飛脚銭一同御返済可仕候
           御世話人衆中
前書之通御拝借仕候処相違無御座候間、依之拙者奥印仕候以上
             右村兼帯
                名主 治助印
(江崎源治衛門資料)

             上湯津上村
天保七年
日光御上納金覚帳
   申正月写 名主   江崎源次衛門
  乍恐以書付願上
坂本亀太郎知行所野州那須郡湯津上村代兼佐良土村名主兼役組頭治助奉申上候、私共村方当  御役所様御貸金拝借仕罷有、難有仕合ニ奉存候、然ル所返納ノ儀は、当未年より金拾両宛々上納可仕候筈ニ御座候処、一躰困窮之村方ノ上、当田畑相応ニ可御座存候処、存之外ニ実法不宜、去々巳年同様ノ違作、当七月中水損旁々誠ニ以テ難渋仕リ、猶又地頭所も至ツテ困窮仕候始末ニ付、如何様ニも調達方不行届難儀至極仕候
御上納奉願上候金弐両弐分ハ、来ル十月中御上納仕リ、来申年より戌迄、金五両弐分宛々二ケ年ノ間、御上納仕度奉願上候、右願ノ通リ被仰付下置候ハバ、如何様ニも年々調達仕り、無相違急度御上納可仕候、右年限相済候ハバ、御出役様より被仰渡候通り、金拾両宛々、急度上納可仕候間、何率前書難渋之始末御聞済被下候様、此段偏ニ奉願上候、以上
           野州那須郡上湯津上村代兼
                  佐良土村
  天保六乙未年          名主代兼
      九月六日         組頭
日光                   治助
  御奉行所様
前書湯津上村・佐良土村拝借滞リ金ノ内、此度金弐両弐分来月中金弐両弐分相納、来申年より戌迄三ケ年之間、金五両弐分宛々、亥年より金拾両宛々、元利皆済相成候迄、無遅急度御上納可仕候相願候処、願之通り被仰付畏候
       未ノ九月六日    右
                   治助
 日光御貸金滞リ願面ノ事
              坂本亀太郎知行所
               下野国那須郡上湯津上村
 日光                 江崎源次右衛門
  御奉行所様

 
    下蛭田村五給惣代名主伊左衛門よりの歎願書
 助郷の人馬の割当が多くてなかなか応じきれず、代金納にしているが、金が掛りすぎて用意しておいた資金では不足になってしまうので、日光大猷院様(家光)法事に関する助人馬費用の内半分を負担して貰いたいという事。更に稲作が半作の有様なので年貢を引いて貰いたいという事。箒川の出水が数度あり、下郷の水田に引いていた用水堰が押し流されてしまい、修理をしたものの、その費用が六両余もかかったので、その費用を出して貰いたいという事。箒川の大洪水のため、堰が根こそぎ押し流され、堰の作りようもない状態になってしまったので、岩に隧道を掘り抜く外に方法がなくなってしまった。隧道の長さ、およそ百五拾間(二七一・五メートル)工費三拾七両弐分は上・下蛭田村で分担することとし、御見分の上許可されたいというものである。
 現在は片府田地内より隧道により引水しているが、当時嘉永三年(一八五〇)には河床も高く、直接堰をこしらえて引水していたようである。
     乍恐以書付奉願上候
一、御知行所野州那須郡下蛭田村五給為惣代、名主伊左衛門奉願上

当戌四月中於
日光大猷院様(家光)御法事ニ付、村方エ詰人馬高百石ニ付人足五人、馬壱疋五分三十日之間相当リ候処、此ノ雑費入用多分ニ相掛候儀、其節給々より御披露御願上置候儀、金弐拾四両三分ト鐚五百九拾文、是ハ利分も相懸り候儀に付、金弐拾七両余ニモ相成可申候、并ニ奥州道中佐久山宿助郷役通行高先年より相増、村方人馬勤ニテハ、百姓方之甚だ差障ニ相成候故、代金勤高百石ニ付五両弐分建人馬ニテ取賄置候、然ル処当年ノ違作、百姓一同難渋至極ノ議甚以心配仕候、右御願申上置候、日光懸りの内半金御下被成下置候様奉願上
寛政度御法事之節、御下金被成下候御記録御振合ニテハ難渋可仕間、何卒村方一同願ノ通リ、格別ノ以御慈悲仰付下置候ハバ、偏ニ難有仕合ニ奉存候、以上

一、当田方の儀奉願上候、此度罷成御願申上候儀も奉恐入候得共、一体夏中ハ残暑強御座候故、生立六七分通来ト存罷有候処、出穂ニ相成リ甚不揃、無心者五セ三畝位宛苅取例見候得者、甚之相違、五分通リノ出来、只今ニ至リ御検見不相願先悲後悔仕、乍去私共村方斗ニ無之、那須郡之儀一体御検見相願候村々も有之、亦ハ御用捨引村も御座候、何れ那須郡ニ最寄リ御知行所も可之候、御聞合被成下置候テも相違無之儀ハ右ニ付、田方ノ儀御見分被成下置候共、又ハ思召ノ御用捨引不置候共、五分通リノ出来ニテハ、誠ニ以難儀仕候間、何卒格別ノ以御仁恵、御引方被仰付下置候ハハ、偏ニ難有仕合ニ奉存候、以上

一、箒川筋稲荷前古川之儀奉願上候、去八月中

加賀爪様御内御用人中様御見分被成下置候ニ付、其節御願書名主惣左衛門ヲ以テ差上置候処、御沙汰無之故差控罷有候得共、数度之洪水ニテ御田地欠崩候故、無拠七月廿七日より、村方人ニテ少々普請相初メ候折柄、追々之出水ニテ、普請所并ニ竹木等迄不残押流シ、其上上蛭田村御三給御田地欠崩、下蛭田村□□□□□□本多様・中根様是又同様御田地減地いたし候、右ニ付御願書差上置候通リニ被成下置候様、奉願上候、且前書申上候当七月中之諸色代金六両弐分相懸リ候間、此分何卒御下ケ金被成下置候様奉願上候、此儘相成候テハ甚難場ニ罷成、最早村人足斗ニテハ迚も普請出来兼可申候、此段御届申上置候、右相懸リ候入用ノ儀ハ、右願之通リ御下ゲ被成下置候ハバ、偏ニ難有仕合ニ奉存候、以上

一、用水堰之儀奉願上候、当三月三日ノ洪水より、九月三日迄ニ数度ノ出水ニテ堰根払ニ押流し、来三月ハ如何いたし候テ御田地相続可仕候哉、今より心配仕候、堰留〆切候テも、水上リ兼候様之場所ト相成候、是ハ何レ岩穴掘より外ハ有之間敷ト奉存、此場所凡百五拾間も御座候、但壱間金壱分之積リ、金三拾七両弐分、是ハ八ツ半割、三ツ半ハ上蛭田村持、残ル金弐拾弐両ト鐚三百七拾弐文下蛭田村分、右之通リ相懸リ可申哉と奉存候、何分ニも大川之儀故、前々ニ普請仕置候テも持ち不申候、右ニ付当暮成リ、来春成リ共御見分之上、何連ニも御田地エ水上リ候様奉願上候、尤も冬出水も可之間、川瀬替リ候得バ、如何可相成哉難斗、来二月上旬之御見分ニテ可然様奉存候、依右御願筋数々之儀奉願上候間、願之通リ被仰付下置候ハバ、莫大之御憐愍ト偏ニ難有仕合奉存候以上

             下蛭田村
               惣代願人
 嘉永三戊九月廿八日      名主  伊左衛門
                村惣代 忠蔵
                〃   幸三郎
                組頭  忠兵衛
                〃   勘三郎
                〃   利兵衛
                〃   源三郎
                〃   丈右衛門
                名主  惣左衛門
                〃   忠三郎
                〃   政右衛門
                〃   仙吉
加賀爪源十郎様御内 石山修司様
加賀美鶴次郎様御内 川名祐之進様
浅井清十郎様御内  栃原佐平太様
中根伊之助様御内  石川忠兵衛様
本多隼太郎様御内  伊藤六兵衛様

(蜂巣英夫家文書)