助郷は、初めは臨時的なものであったが、参勤交代などによる交通量の増大に伴なって、次第に恒常化されていった。そして、漸次その負担が頻繁になるとともに、その地域も拡大され、村々にとっては過重の負担となり、遠距離で事実上課役不可能の村では、金銭による代納も行なわれ、これが一般化して一種の租税のようになった。殊に参勤交代などで交通の頻繁になる時期が、多く農繁期と重なり、益々農村の労働力に不足を来たすようになり、近世農村疲弊の大きな一因をなしたといわれる。
湯津上村は、初め喜連川宿代助郷、のち大田原宿増助郷に指定されたが、人少貧困の村で過重の負担に堪えず、度々助郷役減免の歎願書を出している。次にこれらの史料について、初めに簡単な解説を記し、終りにこれら史料をまとめて載せた。
史料1 湯津上村は、天明五年(一七八五)に、佐久山宿助郷宇田川村から、代助郷の指定を受けたが、水戸様にお願いし、その御威光によって免除になっていたところ、去る文化十一年(一八一四)七月、浄法寺村から差村願われ、佐久山宿代助郷となった。然し、佐久山宿まで出て更に次の宿喜連川まで行くと、往復十二里余にもなり、何とも勤め兼ねて止むなく近村から雇人馬をして凌いで来たが、人少の窮村でまことに難渋しているので、笠石大権現の御縁故をもって、金弐百両拝借いたしたいと、大金久左衛門に宛てた無心の文書である。
(注)差村 助郷村が、課役の減免や休役を願い出る際、それに代る特定の村を指定すること。
代助郷 指定の助郷村(定助郷)が、災害や疲弊などのため、休役または一部免除となったとき、代りに指定された助郷。
史料2 前述のように、文化十一年浄法寺村の代助郷に指定され、是非なく拾か年の年限を勤めて来たところ、年限明けにまた跡勤めの件を願われ、この度も久左衛門を通じ水戸様の御指図によって浄法寺村へ断わり、代助郷を免除になった。最早今後はこのようなことはあるまいと思っていたところ、この度は大沢村から差村願われ、近いうちに奉行所へ召出され、代助郷を仰せ付けられるかも知れないので、前回のように免除方について御配慮を願いたいというものである。
その後、天保九年(一八三八)四月、村の状況見分があり、難村の事情や佐久山宿までの距離なども勘案されたのか、同年十月から高一九九石を以て、大田原宿増助郷に繰替指定された。当時の見分の結果をみると、村高は、荒地・無地高等を除き、四百五拾七石壱斗弐升九合、家数四三軒、男人別八三人のうち、六十歳以上一六人、十五歳以下一五人、奉公人一〇人、病身者一〇人、役人一四人、定扶四人、残り助郷役に堪え得る者一四人となっているが、この史料は省略した。
(注)増助郷 加助郷ともいい、定助郷の負担に堪えられない程、多数の人馬を必要とするとき、その人馬を提供するために指定された村。
無地高 高だけ残っていて、それに相当する反別がないこと。
定扶 諸用件を、村内または村外に通達する役。
史料3 湯津上村は、天保九年(一八三八)から大田原宿増助郷を勤めて来たが、坂本太郎十郎知行所内では、昨春から領内の百姓が皆潰れになり、もともと困窮の村で殊に近年違作(不作、凶作)つづきの村方にとって、坂本知行所分まで勤めるとなると負担に堪えきれず、坂本分の余荷は惣助郷で勤めるよう、宿方役人へ申出てあるが、宿役人だけでは取計い兼ねるという次第で、直接道中奉行へ宛て願い出たものである。「四給一口に触当て来り」とは、湯津上村は四人の給人の所領にわかれているのであるが、それをまとめて一口として人馬の割当てをして来たということ、「給人」とは旗本や、大名の家臣で、俸給として現実の知行地を与えられた者で、一村が二人以上の旗本や大名の家臣によって知行されるとき相給といい、またそれぞれ二給、三給などともいう。また「余荷(よない)」とは、定助郷のうち、災害や疲弊などで休役や一部免除が許可されたとき、その期間中残りの助郷で負担する分。ここでの場合は、本来坂本知行所で勤めるべき分を指す。
右の願書は、取上げられなかったが、同年九月外用のついでに村柄見分の沙汰があり、出役逗留中の役人、小島源右衛門・森惣蔵に宛てて更に願出たのがつぎの九月二十七日附のものである。
史料4 初めに「御内々に御差図之有り、御両人へ差上げ候願書」とことわり書がある。前述廿七日附の願書の後、内々の指図があって、改めて書直して提出したもののようで、連年の凶作、疫病流行による村内の衰徴、家数人口の減少など、細かに窮状を訴えている。終りの覚は見分の際差出したもので、伊沢、花房両知行所内の人馬の状況が述べてあるが、坂本分は皆潰れということからであろう、記してない。また御料所の分は本文中にあるので略したものであろう。
史料5 順序が前後したが見分を受けるについての、諸注意事項の請け書である。賄は定めの宿泊代で一汁一菜とし、余分の経費を掛けないこと、見分の際は正直に案内すること、賄路などあってはならないなどと、厳に戒めている。次は検分を終って、一か年分の出役人馬数とか、天保六年の家数や人数調べの提出を指示したものである。
史料6 前項で指示のあった家数や人数の調べである。差出人馬の分は欠けている。天保九年当時と大差はない。次は、この調書とともに出した願書で、人少の村で人馬を揃え難いので、助郷役に手馴れた者を頼んで勤めを果たして来たが、その賃銭が百石につき九両余もかかり、金の調達にも人馬を揃えるのにも窮し、当惑の次第を訴えている。
史料7 天保十二年十一月になって、道中奉行佐橋長門守に召出され、ようやく湯津上村の困窮の状態が認められ、これまでの助郷勤め高百九拾九石のうち、六拾石だけこれまで通り勤めることとし、残り百三拾石は、拾か年の間休役を仰付けられることとなり、この請証を出したものである。
史料8 月日の経過は早い。前記拾か年の休役期間はこの年(嘉永四年)十二月で年限明けとなる。そこで来年正月からまた元通りの勤めとなっては負担に堪えない。それでこれまでの経過を縷々と述べ、今後は奥州二〇万石以上の大名が通行の時だけ、村高から無地高を除いたものに対し、百石に付人足弐人宛勤めることに願いたいというのである。
この後同年三月、同六年四月にもほぼ同様な願が出されている。
史料9 嘉永五年から安政二年まで四年間の、大田原宿へ差出した人馬を調べたものである。一役を勤めるのに往復日数もみると二日乃至三日かかり、一か年では八、九〇日の日数が潰れてしまうと、嘉永六年に出した願にも記されている。
史料10 安政三年五月、ようやく検分の内報があるのであるが、これはそれに先立って出した村内の状況調べである。村高八百八拾余石のうち、無地高・川欠地・手余荒地などで五百八拾四石余となり、これは実に村高の七割に近い。
史料11 五月二十四日見分の内報があったが見合わせとなり、六月朔日午後六時ごろ、小船渡村から先触れの御用書が届いた。
(イ)周りを囲ってあるのはその上書きであろうか。別紙廻村順添とあるが、これは、この項の終りの方にある。当時は、このようにして村から村へ、村定扶などによって順送りに廻された。最後に受取る村が留村で留村から差出し役所へもどされる。
(ロ)出張役人のため、馬を差出すようにとの達しである。因幡、加賀とあるのは、時の勘定奉行石谷因幡守、本多加賀守であろう。
(ハ)出張役人からのもので、人馬の要求と見分を受けるに当たっての諸注意である。軽尻は、旅人が乗る荷なしの馬、また人を乗せないときは荷量二〇貫までは、軽尻の扱いをした。「からじり、からっちり」などと読む。
(ニ)これは見分の日程でもあり、また、この順で廻状が順達されたものであろう。
史料12 前記御用書を受取ってから、役人を迎える準備や、当日の見分状況の記録、其の後鍋掛宿へ呼出しの状況などを記したものである。役人に対しては、食事は一汁一菜とし、所有合わせの品を用いて、無用の出費は避けるようにとの通達であるが、いよいよとなるとその通りにも出来ず、鮎を買ったり茶菓子を用意したりして心を遣っている。見分が終って後宿へ呼出しがあり、出頭すると役人の方で願の文面を書いて置いてくれて、その書面へ名主三人が捺印して帰る。これで嘉永四年以後の記録は終る。
史料13 大田原宿増助郷二十七カ村が、遠村のため賃銀をもって助郷人馬の繰出しを宿方へ依頼し、その賃銀の支払いを正月、三月、七月、十月、それぞれ十日限り支払うことを約束したものである。
史料14 慶応四年年間の、大田原宿へ差出した助郷役の覚書である。一八名のうち、ここには初めの喜左衛門の分を抜〓した。他の者についてもほぼ似たようなものである。これをみると、年間延四七人で凡そ月四回平均になり、六、九、十月と農繁期に集中している。
史料15 助郷人馬の差出しを、年番名主から各給役人へ割当て通達したもので、村役人の氏名などから察すると、明治三年のものかと推定される。大田原宿へのものと思われるのであるが、六ツ時までにというと朝四時頃は出発しなければならないことになる。
(1) ――前略――
坂本亀太郎知行所
野州那須郡湯津上村
名主 庄蔵
文政二年 伊沢吉次郎知行所
卯二月 日 同州同郡同所
名主 源三右衛門
水戸様御領
小口村
久左衛門殿
(2) 恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
田口五郎左衛門御代官所
野州那須郡湯津上村
名主 源五右衛門
文政十三年 坂本亀太郎知行所
寅 八月 同村 名主 忠右衛門
伊沢助三郎知行所
同村 名主 長左衛門
花房平左衛門知行所
同村 名主 半之助
水戸御領
小口村 大森佐平次様
同村 大金久左衛門様
(3) 恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
川崎平右衛門御代官所
伊沢美作守
知行所
天保十二丑年 花房平左衛門
閏 正月 野州那須郡湯津上村
役人 惣代
川崎平右衛門御代官所
名主 随之進
御奉行所様
其後九月御見分之有り
右御奉行所へ差上げ候下書へ御下書
下され 継添を以て願上げ奉り候
左に
前書の通り当五丑閏正月中
右 湯津上村惣代
藤四郎御料所
丑九月二十七日 名主 随之進
美作守知行所分
名主 安左衛門
小島源右衛門 殿
森惣蔵 殿
(4)
野州那須郡湯津上村
花房平左衛門知行所
百姓代 長重
組頭 治左衛門
名主 惣吾
伊沢美作守知行所
天保十二丑年 百姓代 常蔵
九月 組頭 元右衛門
名主 安左衛門
篠田藤四郎当分御料所
百姓代 儀兵衛
組頭 音三郎
右村名主
鹿畑村 随之進
小島源右衛門様
森惣蔵様
右御見分の節差上げ候
覚
伊沢美作守知行所
那須郡湯津上村
一高弐百六拾八石五斗三升三合
百弐拾三石弐斗弐升三合 生高
内
百四拾五石三斗壱升 荒高
一家数 拾五軒
一人別 六拾壱人 内 男三拾弐人 女弐拾九人 馬三疋
男三拾弐人の内
四人 六拾歳以上
五人 拾五歳以下
四人 足弱病人
四人 村役人
残 拾五人
花房平左衛門知行所
那須郡湯津上村
一高八拾三石五升九合
拾石 無地高
内
拾石 荒高
六拾三石五升九合 生高
一家数 拾軒
一人別 三拾六人 内 男拾七(ママ)人
女拾八人
男拾七人の内
三人 拾五歳以下
三人 足弱病人
三人 出奉公
三人 村役人
残 六人
右の通り取調べ差上げ奉り候通り、少しも相違御座無く候、以上
右村
花房平左衛門知行所
百姓代 定右衛門
丑 九月 組頭 治左衛門
名主 惣吾
伊沢美作守知行所
百姓代 常蔵
組頭 庄右衛門
名主 安左衛門
小島源右衛門様
森惣蔵 様
(5) 差上げ申す一札の事
(6) 御料所分
(7) 同年十二月佐橋長門守様道中御奉行御召出減高被 仰付候
差上げ申す一札の事
篠田藤四郎当分御料所
伊沢美作守
天保十二丑年十二月九日 花房平左衛門 知行
坂本太郎十郎
野州那須郡湯津上村
惣代
組頭 音三郎
奥州道中大田原宿
助郷惣代
野州那須郡無栗屋村
名主 幾右衛門
道中
御奉行所
奥州道中大田原宿
役人惣代
年寄 彦右衛門
右の通佐橋長門守様において御裁許仰渡され候
(8) 恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
大草太郎左衛門御代官所
伊沢美作守
嘉永四年 坂本太郎十郎知行
亥二月 花房平左衛門
野州那須郡湯津上村
役人 惣代
御料所分
名主 随之進
道中
御奉行様
(9) 恐れ乍ら書付を以て申上げ奉り候
奥州道中大田原宿助郷 野州那須郡
湯津上村
一勤高百九拾九石
嘉永五子年
人足数百四拾三人
一 触当度数 三拾九度
馬数五百弐疋
但高百石ニ付平均
人足数 七拾壱人八分五厘余
馬 弐百五拾弐疋弐分六厘余
同六丑年
人足数百八拾三人
一 触当度数 三拾九度
馬数 四百七拾六疋
内馬五疋不参引
高百石ニ付平均
人足数 九拾人九分五厘余
馬数 弐百三拾六疋六分八厘余
安政元寅年
人足数百四拾四人
一 触当度数 四拾六度
馬数 六百壱疋
内廿三疋不参引
高百石ニ付平均
人足数 七拾弐人三分六厘余
馬数 弐百九拾疋四分五厘余
同二卯年
人足数百四拾七人
一 触当度数 四拾三度
馬数 五百九拾四疋
内馬四拾疋不参引
高百石ニ付平均
人足数 七拾三人八分七厘余
馬数 弐百四拾八疋三分九厘余
坂本久之丞知行所
名主 弥左衛門
安政三辰年 花房平左衛門知行所
二月 名主 治左衛門
伊沢美作守知行所
名主 安左衛門
当支配所
百姓代 徳右衛門
与頭 音三郎
大竹左馬太郎様
御役所
御料所分兼帯名主
郡中取締役
同州同郡鹿畑村
随之進
(10) 大竹左馬太郎支配所
(12)
(13) 差出し申す一札の事
増助郷弐拾七ケ村
一勤高弐千百弐拾五石
但し高百石に付金弐拾五両弐分也
惣代給打込
此賃銀五百四拾壱両三分弐朱
慶応四辰年正月
土屋村 名主 元右衛門 東房村 同 弥左衛門
小田村 同 八郎兵衛 寺崎村 組頭 八郎右衛門
東泉村 同 四郎平 喜佐見村 庄屋 市左衛門
田野原村 同 七左衛門 片又村 同 源蔵
平の村 庄屋 惣左衛門 倉掛村 組頭 喜平
立石村 同 市郎平 塩田村 組頭 七左衛門
下長井村 同 勘治 西太田村 名主 六右衛門
幸岡村 同 新五右衛門 下太田村 同 平七
舘野川村 同 六左衛門 荒井村 同 六兵衛
境井村 同 利右衛門 上太田村 同 忠兵衛
道下村 同 治右衛門 小泉村 同 喜平
上沢村 同 藤太郎 湯津上村 同 房之進
佐貫村 同 治右衛門 下塩原村 庄屋 邦三郎
庄兵衛殿
三右衛門殿
助左衛門殿
□□□衛殿
(14) 慶応四年
大田原宿道中役人数覚帳
辰八月吉日 組頭 与右衛門 認メ
喜左衛門
二月廿四日 六月二十一日 十月十九日
一人足 壱人 一壱人 後口 一壱人
三月朔日 六月二十三日 八月廿七日 十月廿三日
一人足 壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月四日 六月廿七日 九月二日 〃 廿八日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月十二日 七月八日 九月七日 十一月六日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月拾八日 七月十六日 九月十日 〃 十日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月廿八日 七月廿二日 九月十一日 〃 十六日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
閏四月五日 七月廿八日 九月十三日 〃 廿七日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
五月朔日 八月十四日 〃 十六日
一壱人増 一壱人 一壱人 〆跡口廿人
五月十七日 〃 十八日 先口
一壱人 壱人 一壱人 〆弐拾七人
五月廿四日 八月十日 〃 廿四日 二口
一壱人 一壱人 一壱人 〆四拾七人
六月朔日 閏四月廿五日 十月二日 増込
一壱人 一壱人増 一壱人 賃金六両弐朱
六月六日 八月十四日 十月六日
一壱人 一壱人 一壱人 分二
六月十三日 八月十九日 十月十一日
一壱人 一壱人 一壱人
六月十九日 十月十五日
一壱人 〆弐拾七人 一壱人
(15) 覚
一天明五巳年、奥州道中佐久山宿助郷同郡卯田川村より、差替村相願われ候節も、貴殿にお頼み申上げ、お役所様へお願い下され候処、水戸様御威光を以て早速御見捨てに相成り、誠に有難き仕合に存じ奉り候
一山口鉄五郎様御代官所、同郡浄法寺村の儀は、前々より佐久山宿助郷に御座候処、去る戌(文化十一年)の七月より、私共村方代助郷に仰せ付けられ、右宿より当触れ次第、人馬差出し申し候処、誠に人少困窮の村方、別して佐久山宿迄里数三里半余、殊に、錆川・箒川二つ瀬場の継ぎ宿喜連川までは三里八丁、同所より湯津上村へ五里半、都合道法十二里半余の、往き返り仕り候儀故、如何様にも人馬継送りの儀相勤め兼ね、拠(よんどころ)なく近村より雇人馬仕り、漸く相勤め申し候処、誠に前書申上げ候通り、荒地五歩(分)以上に相当り、居躰宜しからず、人少窮村に御座候故、必至と差詰り、一村退転に相成り候より外之無き様に存じ奉り候、直又、水戸黄門公様御寄附遊ばされ候田畑・荒地高も、歩銭割合相掛り、弥増し難渋至極仕り、小前一統歎げかわ敷き儀に存じ奉り候得共、小給所困窮の村に御座候故、右道中役助情(精)手段行届き兼ね、極難渋仕り候に付き、何共恐入り奉り候御儀に御座候得共、笠石大権現の御縁を以て、金弐百両御拝借願上げ奉り候、尚又御返納の儀は、当卯年より来る子年迄、拾ケ年御借居り、尤も御利足の儀は壱ケ年壱割の割合を以て、年々十二月十日限り、急度御上納仕る可く候、来る亥十二月に至り候はば、元利共取揃え急度御上納仕る可く候、縦い年季中、風損旱損如何様の変事出来候共、お願いがま敷儀、決して申上げ奉らず、遅滞無く急度御返納仕る可く候、何卒格別の御慈悲を以て、右願の通り仰付けられ下し置かれ候はば、極難渋の百姓取続き誠に水戸様御威光と、偏に有難き仕合に存じ奉り候、以上
坂本亀太郎知行所
野州那須郡湯津上村
名主 庄蔵
文政二年 伊沢吉次郎知行所
卯二月 日 同州同郡同所
名主 源三右衛門
水戸様御領
小口村
久左衛門殿
(2) 恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
一野州那須郡湯津上村に往古より之有り候那須国造の碑石は、元禄四未年 水戸御先代様御建立遊ばされ、右国造碑堂の儀は、貴殿御先祖久左衛門殿御願主にて、御堂等普請成就仕り、田畑等御寄附遊ばされ、其の分年々御順(巡)見様御出役之(これ)有り候節は、道・橋普請掃除等仕り、村役人共御案内仕り来り申し候、尚又御修理の砌は、人馬差出し申し候、此の以後共に御順見様並びに御修理の節は、御差支無く人馬差出し、御用相勤め申す可く候
一天明五巳年、同州同郡佐久山宿定助郷宇田川村より、当村差替村相願われ候に付、右国造碑堂御建立の故を以て、貴殿へ相願い、御役所様迄御出訴下され候所 水戸様御威光を以て、早速御免除に仰付けられ、有難き仕合に存じ奉り候
一文化十一戌年、同州同郡浄法寺村より差替村相願われ、御見分御出役様御廻村之(これ)有り候に付、貴殿に相願い、水戸御役所様へ御願い下され候所、其の内御奉行所より御召出にて、文化十一戌年より文政七申年迄拾ケ年の間、右代助郷是非無く相勤め罷在り候所、文政七年申四月二十九日 水戸御役所様より、久左衛門殿を以て仰せ下され候は、右願の趣公辺へも追々申立て候所、一旦御奉行所より年限を以て仰付けられ候事故、先ず相勤め申す可き旨仰せ付けられ、猶亦年明け候ても、引続き仰せ付けられ候訳には之無く候趣、恐れ奉り候、然る所年明けの砌、浄法寺村より跡勤めの儀願い出で候趣、去る六月中申来り候に付、又々貴殿へ相願い 水戸御役所様へお願い下され候所、先達も御達し之有り候通り跡勤めの儀仰せ付けられ候訳には之無き趣、此段浄法寺村相断り候様、仰聞かせられ候間、其の旨相断り候所、御除きに相成り申し候、此の以後、何方より差村に相願われ候節は、早速願出で候様仰せ聞かせられ、是迄も、水戸様御威光を以て御免許相成り、難渋の百姓相助かり、偏に有難き仕合に存じ奉り候、最早此の後何方より差村に相願われ候ても、仰せ付けられ候儀は之有る間敷く、恐れ乍ら存じ奉り候、然る所此の度、田口五郎左衛門御代官所、同郡大沢村より差村相願われ、当八月十日村柄御見分御出役御廻村之有り候得ば、近々御奉行所に御召出し仰せ付けられ候事も、計り難く存じ奉り候間、又候貴殿に相願い、水戸様御役所へ御願い下され、此の度の差村代助郷御除きに相成り候様、願い上げ奉り候、右の段御聞き済み成し下し置かれ、御免許に相成り候はば、偏に御慈悲と重々有難き仕合に存じ奉り候、以上
田口五郎左衛門御代官所
野州那須郡湯津上村
名主 源五右衛門
文政十三年 坂本亀太郎知行所
寅 八月 同村 名主 忠右衛門
伊沢助三郎知行所
同村 名主 長左衛門
花房平左衛門知行所
同村 名主 半之助
水戸御領
小口村 大森佐平次様
同村 大金久左衛門様
(3) 恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
奥州道中大田原宿増助郷、野州那須郡湯津上村惣代、川崎平左衛門御代官所分名主、随之進申上げ奉り候、当村の儀は、御料私領四給入会い、八百八拾五石三斗九升六合にて、先年は佐久山宿代助郷相勤め罷り候処、天保九戍年御繰替えに相成り、右高の内百九拾九石大田原宿増助郷に仰付けられ、四給割合、四拾七石弐斗三升御料所分、高六拾石三斗五升弐合伊沢美作守知行分、高弐百六拾八石六斗六升九合花房平左衛門知行分、高七拾弐石七斗四升五合坂本太郎十郎御知行へ割付け相勤め候処、右の内太郎十郎様知行高(ママ)、去る子春中より皆潰れに相成り、御伝馬役の儀は、宿方より四給一口に触当て来り候へ共、一体当村の儀は、何れも素々困窮人少にて、往古より仰付けられ之(これ)無き程の村方儀、三給にて勤む可き分も、近来の違作続き病難旁々、中々以て勤め続け兼ね候程の仕合に御座候処、太郎十郎様御知行分高七拾弐石余の分迄、余荷相勤め候様成り行き候ては、何分百姓相続相成り難く、潰れに及ぶ可き外御座無く候、必至と難渋仕り候に付、右太郎十郎様御知行所分高の分は、惣助郷にて余荷相勤め候様、取斗い受け度旨、宿方役人共へ申談じ候得共、御奉行様御沙汰之無く候ては、取斗い兼ね候段申し取り合い申さず、誠に以て難渋至極仕り候間、余儀無く此の段願上げ奉り候、何卒御慈悲を以て、前書七拾弐石の分、惣助郷にて余荷相勤め候様、仰付け下し置かれ度、願上げ奉り候、己上
川崎平右衛門御代官所
伊沢美作守
知行所
天保十二丑年 花房平左衛門
閏 正月 野州那須郡湯津上村
役人 惣代
川崎平右衛門御代官所
名主 随之進
御奉行所様
其後九月御見分之有り
右御奉行所へ差上げ候下書へ御下書
下され 継添を以て願上げ奉り候
左に
前書の通り当五丑閏正月中
御奉行所へ願上げ奉り候処、右願は御取上げに相成らず候得共、今般外御用序、村柄御糺しの為御越し成され、一同有難き仕合に存じ奉り候、村方難渋の次第は、前断の通り申上げ候処、其の後弥増し困窮に陥り、何分にも取続け難く、此の儘相過ぎ候ては、一村皆潰れに相成る可くは、斗り難く存じ奉り候間、恐入り候御儀に御座候得共、増助郷高御免除 仰付けられ下し置かれ候様、願上げ奉り候、之に仍て継添を以て此段申上げ奉り候、已上
右 湯津上村惣代
藤四郎御料所
丑九月二十七日 名主 随之進
美作守知行所分
名主 安左衛門
小島源右衛門 殿
森惣蔵 殿
(4)
奥州道中大田原宿助郷、野州那須郡湯津上村御料所並びに、伊沢美作守、花房平左衛門知行所一同申上げ奉り候、私共三給村高五百六拾壱石七斗三升御座候て、百姓出情罷在り候所、宝暦度病難、天明年中凶作にて餓死或は欠落退転仕り、連々人少困窮罷在り候所、天保六未年佐久山宿へ代助郷に仰付けられ、其の後同九戌年大田原宿増助郷に操合に相成り候間、相勤め候得共近年度々の凶作之有り、追々困窮に落入り、別して巳申両年の凶作にては、餓死に及ふ可き程の儀、草葉の類品々麁喰(そしよく)仕り候間、悉く疲衰に及び、農業相成り難く候折柄、疫病流行仕り死失出来、弥増し人少相募り、就中御料所の儀は、高弐百拾石壱斗三升弐合御座候て、往古家数廿九軒、人別百三拾人余御座候所、近年纔(わずか)に九軒、人別弐拾人内外にて、右の内も独身或は出奉公稼ぎ引去り候へば、四軒に相成り、何れにも困窮相募り、音三郎、儀兵衛、久次右三人、拠(よんどころ)無く年替与頭(くみかしら)百姓代相勤め、幸助儀は潰式取立て百姓にて、村定扶仕り居り候間、右四人にて御用村用往来助郷相勤め居り候故、農業仕る可き儀相成り難く、右領の外弐給も同様、困窮人少に相成り、何様にも百姓相続け相成らず候所、合給坂本太郎十郎様御知行所百姓、別紙申上げ候通り、残らず引払と相成り、今般御見分遊ばされ候通り、高三百弐拾三石余の田畑、皆荒れ罷成り候故、相互に持合田畑の儀に付、私共分も追々手余り荒地出来候、既に当村は、御料所分の難場御察しの上、先年古山善吉様御支配の節、荒地の分十ケ年高内引九ケ年御手宛定免仰付けられ候程の、村方へ入交り居り候私領の儀故、御料所に相増し大難村に御座候、別して往古より、助郷仰付けられず、免除に相成り候程の薄地に御座候て、近年右助郷仰付けられ候間、如何様とも取続くべき手段御座無く候、併し乍ら、当分差村見立て休役願上げる可き気力、極貧の村方に候故行届かず、自然退転仕り候共顕然其の儘に罷在り、歎げかわ敷く存じ奉り候、折節今般村柄御糺しと御越し遊ばされ候所へ、願上げ奉り候は恐入り候儀に御座候得共、何卒右大田原宿へ相勤め候増助郷、惣高御免除に相成り候様、成し下し置かれ度、此の段願上げ奉り候、左も御座無く候へば、御見分成し下され候通り、一円荒地出来、片押し百姓相潰れ、亡村に相成る可しと、歎けかわ敷く存し奉り候、右の段格別の御慈悲を以て、御聞済み成し下し置かれ候はば、一村相続き罷成り、有難き仕合に存じ奉り候、己上
野州那須郡湯津上村
花房平左衛門知行所
百姓代 長重
組頭 治左衛門
名主 惣吾
伊沢美作守知行所
天保十二丑年 百姓代 常蔵
九月 組頭 元右衛門
名主 安左衛門
篠田藤四郎当分御料所
百姓代 儀兵衛
組頭 音三郎
右村名主
鹿畑村 随之進
小島源右衛門様
森惣蔵様
右御見分の節差上げ候
覚
伊沢美作守知行所
那須郡湯津上村
一高弐百六拾八石五斗三升三合
百弐拾三石弐斗弐升三合 生高
内
百四拾五石三斗壱升 荒高
一家数 拾五軒
一人別 六拾壱人 内 男三拾弐人 女弐拾九人 馬三疋
男三拾弐人の内
四人 六拾歳以上
五人 拾五歳以下
四人 足弱病人
四人 村役人
残 拾五人
花房平左衛門知行所
那須郡湯津上村
一高八拾三石五升九合
拾石 無地高
内
拾石 荒高
六拾三石五升九合 生高
一家数 拾軒
一人別 三拾六人 内 男拾七(ママ)人
女拾八人
男拾七人の内
三人 拾五歳以下
三人 足弱病人
三人 出奉公
三人 村役人
残 六人
右の通り取調べ差上げ奉り候通り、少しも相違御座無く候、以上
右村
花房平左衛門知行所
百姓代 定右衛門
丑 九月 組頭 治左衛門
名主 惣吾
伊沢美作守知行所
百姓代 常蔵
組頭 庄右衛門
名主 安左衛門
小島源右衛門様
森惣蔵 様
(5) 差上げ申す一札の事
私共村方、奥州道中大田原宿助郷余荷勤めの儀、願上げ奉り候所、願に依て御沙汰に及ばる可き筋には之無く候段、御利害(理解)を受け、右願書御下げ相成候得共、今般外用序に村柄御見分の為御越し成され候に付、御逗留中御賄の儀は、御定めの木銭米代渡し成され候間、所有合の品を以て、一汁一菜に相極め、御地走が間敷儀仕らず、村入用多く懸けざる様仕る可き事
一村柄御見分の節、少しも偽りなく正路に御案内致し、村の困窮の趣逸々個条を以て申上げ、御見分御吟味相済み候上にて、申落し之無き様仕る可き事
一御見分の節村役人の外は、無用の者罷り出でず、腰の物等帯び申す間敷き事
一御旅宿へ、無用の者出入り仕らせ間敷く、各様は申すに及ばず小物衆に至る迄、内意等申上げず、万一心得違い、聊の品にても賄路が間敷き儀、猶之有らば、御咎め仰付けられ候間、急度相慎み申す可き事
一御見分御吟味中、不法の者之有るに於ては、是又御咎め仰付けられ候間、相慎み申す可き事
但し、御旅宿最寄り出火の節は、早速馳け付け、御用書物等御差図次第、取除き申上ぐべき事
右仰渡しの趣、一同承知恐れ奉り候、若し右相背き候はば、御咎め仰付けらるべく候、仍て御請証文差上げ申し候件の如し
天保十二丑 篠田藤四郎当分御料所
九月 伊沢美作守
花房平左衛門 知行所
坂本太郎十郎
野州那須郡湯津上村役人惣代
藤四郎当分御料所
名主 随之進
美作守知行所
名主 安左衛門
丑九月廿五日朝五ツ時黒羽より御先触
廿六日暮六ツ時御着、廿八日御出立、福原へ御通行
福原村より御書付にて仰渡さる
覚
一壱ケ年分の人馬、何程に遣い払い相成り候や
但し宿方の触高は何程、正人馬は何程と内訳致す可く候
一天保六未年中の家数何軒、人数何人に候や
右の通り取調べ、宿村継ぎに致し、下総国結城郡大木町、自分共御用先へ早々相届けらる可き事
九月廿九日 森惣蔵
小島源右衛門
湯津上村
役人
右に付、取調べ差上げ候
九月 伊沢美作守
花房平左衛門 知行所
坂本太郎十郎
野州那須郡湯津上村役人惣代
藤四郎当分御料所
名主 随之進
美作守知行所
名主 安左衛門
丑九月廿五日朝五ツ時黒羽より御先触
廿六日暮六ツ時御着、廿八日御出立、福原へ御通行
福原村より御書付にて仰渡さる
覚
一壱ケ年分の人馬、何程に遣い払い相成り候や
但し宿方の触高は何程、正人馬は何程と内訳致す可く候
一天保六未年中の家数何軒、人数何人に候や
右の通り取調べ、宿村継ぎに致し、下総国結城郡大木町、自分共御用先へ早々相届けらる可き事
九月廿九日 森惣蔵
小島源右衛門
湯津上村
役人
右に付、取調べ差上げ候
(6) 御料所分
一家数 八軒
一人別 弐拾四人 内 男拾五人 女九人
男拾五人の内
三人 六拾以上
弐人 拾五以下
弐人 奉公人
弐人 病身者
四人 役人
残分 二人
一家数 拾三軒
一人別 五拾人 内 男弐拾五人 女弐拾五人
男弐拾五人の内
四人 六拾以上
五人 拾五以下
四人 奉公人
壱人 病身者
五人 役人、定扶
残分 四人
伊沢分
一家数 拾六軒
一人別 六拾弐人 内 男三拾弐人 女弐拾七人
男三拾弐人の内
八人 六拾以上
五人 拾五以下
三人 奉公人
四人 病身者
四人 役人
壱人 定扶
残分 七人
花房分
一家数 六軒
一人別 弐拾人 内 男拾弐人 女八人
男拾弐人の内
壱人 六拾以上
三人 十五以下
壱人 奉公人
壱人 病身者
四人 役人
残分 弐人
右者、天保六未年人別御糺しに付、取調べ差上げ奉り候通り、少しも相違御座無く候、以上
丑 九月 四給
小島源右衛門様
森惣蔵様
恐れ乍ら書付を以て申上げ奉り候
奥州道中大田原宿増助郷、野州那須郡湯津上村役人一同、申上げ奉り候は、天保六未年人別並びに、助郷宿方より当触れ村方勤め正人馬取調べ書上げ候様仰付けられ、畏れ奉り候得共、別紙の通り極く人少の村方、当触れ人馬相揃え難く、宿方差支えに相成り候所、助郷手馴れ候者より、買上人馬致し候へば、宿方差支え之無く、村方も農業相成り、双方弁利の趣に候間、宿役並びに助郷惣代へ相談の上、臨時御用向其の外御尊骸等相除き、壱ケ年分高百石に付、金九両弐分にて買上げ、世話方相頼み候得共、困窮の村方に御座候間、右賃銀過分の儀故、時々調達相成らず、正人馬相勤め候には人馬之無く、甚だ当惑仕り候、今般勤め方御尋ねに付、別紙の通り壱ケ年当触れ人馬勤高遣払書上げ奉り候所、相違御座無く候、以上
野州那須郡
天保十二丑年 湯津上村
九月廿九日 四給役人
小島源右衛門様
森惣蔵様
一人別 弐拾四人 内 男拾五人 女九人
男拾五人の内
三人 六拾以上
弐人 拾五以下
弐人 奉公人
弐人 病身者
四人 役人
残分 二人
一家数 拾三軒
一人別 五拾人 内 男弐拾五人 女弐拾五人
男弐拾五人の内
四人 六拾以上
五人 拾五以下
四人 奉公人
壱人 病身者
五人 役人、定扶
残分 四人
伊沢分
一家数 拾六軒
一人別 六拾弐人 内 男三拾弐人 女弐拾七人
男三拾弐人の内
八人 六拾以上
五人 拾五以下
三人 奉公人
四人 病身者
四人 役人
壱人 定扶
残分 七人
花房分
一家数 六軒
一人別 弐拾人 内 男拾弐人 女八人
男拾弐人の内
壱人 六拾以上
三人 十五以下
壱人 奉公人
壱人 病身者
四人 役人
残分 弐人
右者、天保六未年人別御糺しに付、取調べ差上げ奉り候通り、少しも相違御座無く候、以上
丑 九月 四給
小島源右衛門様
森惣蔵様
恐れ乍ら書付を以て申上げ奉り候
奥州道中大田原宿増助郷、野州那須郡湯津上村役人一同、申上げ奉り候は、天保六未年人別並びに、助郷宿方より当触れ村方勤め正人馬取調べ書上げ候様仰付けられ、畏れ奉り候得共、別紙の通り極く人少の村方、当触れ人馬相揃え難く、宿方差支えに相成り候所、助郷手馴れ候者より、買上人馬致し候へば、宿方差支え之無く、村方も農業相成り、双方弁利の趣に候間、宿役並びに助郷惣代へ相談の上、臨時御用向其の外御尊骸等相除き、壱ケ年分高百石に付、金九両弐分にて買上げ、世話方相頼み候得共、困窮の村方に御座候間、右賃銀過分の儀故、時々調達相成らず、正人馬相勤め候には人馬之無く、甚だ当惑仕り候、今般勤め方御尋ねに付、別紙の通り壱ケ年当触れ人馬勤高遣払書上げ奉り候所、相違御座無く候、以上
野州那須郡
天保十二丑年 湯津上村
九月廿九日 四給役人
小島源右衛門様
森惣蔵様
(7) 同年十二月佐橋長門守様道中御奉行御召出減高被 仰付候
差上げ申す一札の事
奥州道中大田原宿増助郷野州湯津上村の儀、品々困窮申立て、先達て休役願い奉り候処、願に依て御沙汰に及ばる可き筋に御座無く候段、御利(理)解の趣相弁え、願下げ仕り候処、今般御用序でに、御代官北条権之助様、森親之助様両御手附御手代衆差越され、村柄御糺しの上、猶又当御奉行所より召出され、再応御吟味の上、湯津上村困窮の段相違御座無く候に付、同村助郷高百九拾九石の内、六拾石是迄の通り相勤め、百三拾九石来る寅正月より来る亥十二月迄、拾ケ年休役御付けられ、右の分惣助郷にて余荷相勤む可き旨仰渡され、一同承知畏れ奉り候、若し相背き候はば、御利(咎)仰付けらるへく候、仍て御請証文差上げ申す処件の如し
篠田藤四郎当分御料所
伊沢美作守
天保十二丑年十二月九日 花房平左衛門 知行
坂本太郎十郎
野州那須郡湯津上村
惣代
組頭 音三郎
奥州道中大田原宿
助郷惣代
野州那須郡無栗屋村
名主 幾右衛門
道中
御奉行所
前書仰渡されの趣、私儀も罷り出で承知奉り 仍て奥書を以て申上候 以上
奥州道中大田原宿
役人惣代
年寄 彦右衛門
右の通佐橋長門守様において御裁許仰渡され候
(8) 恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
野州那須郡湯津上村、大草太郎左衛門御代官所並びに伊沢美作守、坂本太郎十郎、花房平左衛門、右知行所村役人惣代、御料所名主随之進申上げ奉り候、当村の儀四給合八百八拾九石三斗九升六合、家数往古百五拾軒余御座候処、連々困窮人少に相成り、文政度の頃迄拾七八軒にて可成百姓相続け罷在候、尤も悉く薄地難場に付、奥州道中筋宿方より、代助郷に度々御調べ御座候得共、御見分の上難村にお見留之有り、御免除に相成り居り候処、天保六未年佐久山宿へ、高三百六拾弐石五斗三升弐合代助郷に仰付けられ、拠無く相勤め罷在候得共、右宿方へは村方より道法凡そ四里之有り、宿方より喜連川宿へ三里御伝馬相勤め候と、往返十二里余に相成り、下り御継立て大田原宿へ相勤め候へば、凡九里に相成り、壱度の役を払い候に出入り二日宛相懸り候間、何様農業仕り兼ね、追々困窮相募り候に付、川崎平右衛門様御代官所の砌、右の始末願い奉り候所、其の後道中御奉行様へ仰立てられ成し下され、天保九戌年大田原宿へ、高百九拾九石増助郷に御繰替えに相成り相勤め候処、凶作後退転死潰れ多分に出来、四給にて家数弐拾九軒に相成り、右の内出奉公稼ぎの者等拾八軒之有り、無難の者纔(わずか)に拾壱軒にて、御用・村用・助郷人馬勤め候儀相成らず、余儀無く篠田藤四郎様御支配の節、右の段直又道中御奉行様へ願上げ奉り候処、小島源右衛門様、森惣蔵様御越し遊ばされ、村柄御見分御吟味の上、助郷高百九拾九石の内、百三拾九石天保十三寅年より、当亥十二月迄拾ケ年、惣助郷へ余荷仰付けられ、残高六拾石、右宿方へ相勤め罷在り候処、近年兎角作毛宜しからず、別して一両年は存外の違作にて、必至貧窮に陥いり、難儀罷在り候場合、当暮は右余荷高御年季明けに相成候間、前書高百九拾九石来る子正月より猶又相勤め候様相成り、無人の村方如何仕る可きやと当惑罷在り候、右に付、恐れ乍ら拠無く今般願上げ奉り候は、奥州御大名様廿万石己上の御方様御通行の節、村方八百八拾五石三斗九升六合の内、無地高三拾三石四斗弐升五合相除き、跡皆高百石に付人足弐人ずつ右宿方へ相勤め候様、願上げ奉り候、此段何卒厚き御慈悲を以て御聞済み、願の通り大助郷に仰付けられ、成し下し置かれ候はば、既に亡村も覚束なき躰の村方、百姓相続相成る可しと、有難き仕合に存じ奉り候 以上
大草太郎左衛門御代官所
伊沢美作守
嘉永四年 坂本太郎十郎知行
亥二月 花房平左衛門
野州那須郡湯津上村
役人 惣代
御料所分
名主 随之進
道中
御奉行様
(9) 恐れ乍ら書付を以て申上げ奉り候
奥州道中大田原宿助郷 野州那須郡
湯津上村
一勤高百九拾九石
嘉永五子年
人足数百四拾三人
一 触当度数 三拾九度
馬数五百弐疋
但高百石ニ付平均
人足数 七拾壱人八分五厘余
馬 弐百五拾弐疋弐分六厘余
同六丑年
人足数百八拾三人
一 触当度数 三拾九度
馬数 四百七拾六疋
内馬五疋不参引
高百石ニ付平均
人足数 九拾人九分五厘余
馬数 弐百三拾六疋六分八厘余
安政元寅年
人足数百四拾四人
一 触当度数 四拾六度
馬数 六百壱疋
内廿三疋不参引
高百石ニ付平均
人足数 七拾弐人三分六厘余
馬数 弐百九拾疋四分五厘余
同二卯年
人足数百四拾七人
一 触当度数 四拾三度
馬数 五百九拾四疋
内馬四拾疋不参引
高百石ニ付平均
人足数 七拾三人八分七厘余
馬数 弐百四拾八疋三分九厘余
右の通り奥州道中大田原宿へ助郷人馬差出候処、相違御座無く候、已上
坂本久之丞知行所
名主 弥左衛門
安政三辰年 花房平左衛門知行所
二月 名主 治左衛門
伊沢美作守知行所
名主 安左衛門
当支配所
百姓代 徳右衛門
与頭 音三郎
大竹左馬太郎様
御役所
前書の通り相違御座無く候、給々一同人少に付百姓行届かず、自然困窮に陥いり、亡村の程覚束なく、歎かわ敷く、此の末御料所分兼帯行届き難く候間、何卒其の御筋へ、窮村の始末仰立てられ、御慈悲の御沙汰、偏に願上げ奉り候
御料所分兼帯名主
郡中取締役
同州同郡鹿畑村
随之進
(10) 大竹左馬太郎支配所
野州那須郡湯津上村
一村高弐百拾石壱斗三升八合
高廿三石四斗弐升五合 無地高引
内
高百四拾三石五斗五升 前々川欠並びに手余荒地拾ケ年引
残高 四拾三石壱斗六升三合
家数 八軒
一
人別 四拾四人
内訳
男弐拾弐人
内 拾五人 十五歳以下六十歳以上並びに病身者村役人定扶其の他出奉公稼の者
残 七人
女弐拾弐人 馬五疋 内老馬三疋
伊沢美作守知行所
同州同郡 同村
一村高弐百六拾八石五斗三升三合
内高百拾壱石弐斗七合 前々川欠並びに手余り荒地引
残高百五拾七石五斗六合
家数 拾弐軒
一
人別 四拾五人
内訳
男弐拾壱人
内 拾七人 十五歳己下六十歳己上、病身者並びに村役、其の他出奉公稼の者引
残 四人
女廿四人 馬三疋 内老馬壱疋
坂本金之丞知行所
同州同郡 同村
一村高三百弐拾三石六斗六升六合
内高弐百六拾七石四斗三升五合 前々手余り荒地引
残高 五拾六石弐斗壱合
家数 六軒
一
人別 弐拾壱人
内訳
男拾三人
内 九人 十五歳己下六十歳己上、並びに村役、出奉公稼の者引
残 四人
女 八人 馬弐疋 内老馬壱疋
花房平左衛門知行所
同州同郡 同村
一村高八拾三石五升九合
内高拾石 無地高
三拾四石弐斗壱升 荒地高引
残高 三拾八石八斗四升九合
家数 四軒
一
人別 拾弐人
内訳
男 七人
内五人 村役人、病身者
残弐人
女 五人 馬弐疋 老馬に御座候
右寄
村高八百八拾五石三斗九升六合
内高五百八拾九石六斗四升七合 無地高並川欠其外手余荒地引
残高 弐百九拾五石七斗四升九合
家数三拾軒
人別百弐拾弐人
男 六拾三人
内 四拾六人 十五歳己下六十歳以上並びに病身者村役人出奉公稼の者
残拾七人
女 五拾九人 馬拾弐疋 内七疋老馬に御座候
右の通りに御座候 以上
安政三辰 五月
右村役人惣代
伊沢美作守知行所
名主 安左衛門
御料所分兼帯名主
鹿畑村 随之進
山口蔵次郎様
梅沢九十郎様
一村高弐百拾石壱斗三升八合
高廿三石四斗弐升五合 無地高引
内
高百四拾三石五斗五升 前々川欠並びに手余荒地拾ケ年引
残高 四拾三石壱斗六升三合
家数 八軒
一
人別 四拾四人
内訳
男弐拾弐人
内 拾五人 十五歳以下六十歳以上並びに病身者村役人定扶其の他出奉公稼の者
残 七人
女弐拾弐人 馬五疋 内老馬三疋
伊沢美作守知行所
同州同郡 同村
一村高弐百六拾八石五斗三升三合
内高百拾壱石弐斗七合 前々川欠並びに手余り荒地引
残高百五拾七石五斗六合
家数 拾弐軒
一
人別 四拾五人
内訳
男弐拾壱人
内 拾七人 十五歳己下六十歳己上、病身者並びに村役、其の他出奉公稼の者引
残 四人
女廿四人 馬三疋 内老馬壱疋
坂本金之丞知行所
同州同郡 同村
一村高三百弐拾三石六斗六升六合
内高弐百六拾七石四斗三升五合 前々手余り荒地引
残高 五拾六石弐斗壱合
家数 六軒
一
人別 弐拾壱人
内訳
男拾三人
内 九人 十五歳己下六十歳己上、並びに村役、出奉公稼の者引
残 四人
女 八人 馬弐疋 内老馬壱疋
花房平左衛門知行所
同州同郡 同村
一村高八拾三石五升九合
内高拾石 無地高
三拾四石弐斗壱升 荒地高引
残高 三拾八石八斗四升九合
家数 四軒
一
人別 拾弐人
内訳
男 七人
内五人 村役人、病身者
残弐人
女 五人 馬弐疋 老馬に御座候
右寄
村高八百八拾五石三斗九升六合
内高五百八拾九石六斗四升七合 無地高並川欠其外手余荒地引
残高 弐百九拾五石七斗四升九合
家数三拾軒
人別百弐拾弐人
男 六拾三人
内 四拾六人 十五歳己下六十歳以上並びに病身者村役人出奉公稼の者
残拾七人
女 五拾九人 馬拾弐疋 内七疋老馬に御座候
右の通りに御座候 以上
安政三辰 五月
右村役人惣代
伊沢美作守知行所
名主 安左衛門
御料所分兼帯名主
鹿畑村 随之進
山口蔵次郎様
梅沢九十郎様
(11) 五月廿四日御見分に相成り候趣、黒羽町役人油屋秀蔵殿より内通之有り候間、用意いたし候処、俄に、見合せに相成り待居り罷り在り候
六月朔日暮六ツ時、小船戸村より御用書到来
(イ) 左ニ
(ロ) 馬弐疋
因幡
辰四月
加賀 右 宿々
村々
問屋
年寄
名主
(ハ) 覚
一人足四人 但駕籠弐挺
一軽尻馬 壱疋
論所地改手代
辰五月廿三日 山口蔵次郎
同 手附
梅沢九十郎
(ニ) 辰五月廿四日 朝六ツ時 鍋懸宿出立
野州那須郡
黒磯村
同日休 百村
鴫内村
同日泊 湯宮村
木綿畑村
廿五日休 唐杉村
北弥六村
前弥六村
西沓掛村
東杳懸村
上厚崎村
下厚崎村
上大塚新田村
山中新田村
三本木村
同日泊 東小屋村
大原間村
沼野田和村
下大塚新田村
木曽畑中
廿六日休 大田原
沢村
同日泊 矢板
高内
塩谷郡
原荻目村
金枝田村
廿七日休 川崎反町村
精進内村
塚原村
安沢
同日泊 喜連川
鴻野山
野州那須郡
田野倉村
大金村
廿八日休 高瀬村
曲田村
向田村
滝村
同日泊 酒主村
上境村
廿九日休 大木須村
小木須村
興野村
中山村
同日泊 大桶村
白久村
谷田村
吉田村
六月朔日休 小川村
戸田村
三輪村
恩田村
薬利村
六月朔日泊 浄法寺村
佐良土村
矢倉村
六月朔日泊 大久保村
亀山村
六月二日休 寺内村
下滝村
上滝村
小船渡村
湯津上村
倉骨村
同日泊 黒羽
鍋懸宿着
(イ) 左ニ
(ロ) 馬弐疋
右は論所地改手代、山口蔵次郎、梅沢九十郎、下野・陸奥国へ差遣間、道中往返並彼地御用中とも書面馬差出、賃銭受取之、可継送もの也
因幡
辰四月
加賀 右 宿々
村々
問屋
年寄
名主
(ハ) 覚
一人足四人 但駕籠弐挺
一軽尻馬 壱疋
右は奥州道中鍋懸宿、明廿四日六時出立、村々見分として罷越候条、得其意、書面の人馬差出、御用外宿村にては御定の賃銭受取之継立、且見分受候村々は兼て申渡候通相心得、村境へ罷出居案内いたし、尤願の筋も有之候はは、書面を以て其節可申立候 且亦休泊にては、上下四人御定の木銭・米代相渡候間、所有合の品を以一汁一菜に相賄、馳走ケ間敷儀被致間敷候 先触早々継送り、留村より鍋懸宿可相届候、以上
論所地改手代
辰五月廿三日 山口蔵次郎
同 手附
梅沢九十郎
(ニ) 辰五月廿四日 朝六ツ時 鍋懸宿出立
野州那須郡
黒磯村
同日休 百村
鴫内村
同日泊 湯宮村
木綿畑村
廿五日休 唐杉村
北弥六村
前弥六村
西沓掛村
東杳懸村
上厚崎村
下厚崎村
上大塚新田村
山中新田村
三本木村
同日泊 東小屋村
大原間村
沼野田和村
下大塚新田村
木曽畑中
廿六日休 大田原
沢村
同日泊 矢板
高内
塩谷郡
原荻目村
金枝田村
廿七日休 川崎反町村
精進内村
塚原村
安沢
同日泊 喜連川
鴻野山
野州那須郡
田野倉村
大金村
廿八日休 高瀬村
曲田村
向田村
滝村
同日泊 酒主村
上境村
廿九日休 大木須村
小木須村
興野村
中山村
同日泊 大桶村
白久村
谷田村
吉田村
六月朔日休 小川村
戸田村
三輪村
恩田村
薬利村
六月朔日泊 浄法寺村
佐良土村
矢倉村
六月朔日泊 大久保村
亀山村
六月二日休 寺内村
下滝村
上滝村
小船渡村
湯津上村
倉骨村
同日泊 黒羽
鍋懸宿着
(12)
右の御用状、六月朔日暮六ツ時、小船渡村より相届き、安左衛門儀大田原宿伝馬役才料に相詰め、留主中給々相集まり相談の上、御用書早速倉骨村へ相送り、拙者儀も伝馬勤めの者の咄に、御出役之有る様子承り、之に依って夜中立帰り、鹿畑にて迎えの者に逢い、早々帰宅の所、御休越物用意行届、夫に付浄法寺村肴求めに遣わしあゆ抔求め、おくわし才相求め、風呂心懸け、西の根宗助、御料所覚左衛門と佐良土村へ伺いに出る、寺内村へ鹿畑随之進様、金平、入山音三郎出る、安左衛門御本陣に差控え、右小船渡境へ罷出で御案内仕り、暫く御腰懸にて御休足、御酒上る、何角御調べ相済み御出立、宮沢より地蔵堂を通り、赤坂よりとふろふ松通りにて御案内、地蔵堂辺にて薄地の様子御覧遊ばされ、夫より西の根前にて村柄御見流し成され、難村御察し之有り、倉骨境迄給役人御送り申し候、雨降りに付早々御暇申上げ帰る、夜中安左衛門、宗助、治左衛門黒羽御泊りへ、御見分の御見舞御礼申上げ、首尾能く相済み帰り、其節仰聞かせられ候は、鍋懸宿へ両人斗罷り出ず可き旨に付、六月六日安左衛門、西の根弥左衛門、鹿畑随之進罷出で、本陣助之丞御泊りへ罷り出で届け申上候処、差出書へ年を書き差上げ申す可く渡され候左に
大草太郎左衛門御代官所
野州那須郡湯津上村
兼帯名主 随之進
当辰六十才
伊沢美作守知行所
同州同郡 同村
名主 安左衛門
当辰四十七才
坂本金之丞知行所
同州同郡 同村
名主 弥左衛門
当辰二十七才
右差出書上る
御呼出之有り、願面御出役様御認め下し置かれ候て、御読み聞かせ下され候のみ、前々差上げ候通りの御文言拝見は相成らず、矢張り六十石勤めか、惣高へ廿万石以上の御大名様御通行の節、百石弐人の割合を以て、相勤め度き願に御書認め下され、拙者三人の印形、向宛名は山口蔵次郎殿、梅沢九十郎殿と之有り、外に難儀困窮は村々一同の儀、如何様仰付けられ候共、違背仕る間敷きの請書差上げ、御用済みに相成り帰宅致し候
大草太郎左衛門御代官所
野州那須郡湯津上村
兼帯名主 随之進
当辰六十才
伊沢美作守知行所
同州同郡 同村
名主 安左衛門
当辰四十七才
坂本金之丞知行所
同州同郡 同村
名主 弥左衛門
当辰二十七才
右差出書上る
御呼出之有り、願面御出役様御認め下し置かれ候て、御読み聞かせ下され候のみ、前々差上げ候通りの御文言拝見は相成らず、矢張り六十石勤めか、惣高へ廿万石以上の御大名様御通行の節、百石弐人の割合を以て、相勤め度き願に御書認め下され、拙者三人の印形、向宛名は山口蔵次郎殿、梅沢九十郎殿と之有り、外に難儀困窮は村々一同の儀、如何様仰付けられ候共、違背仕る間敷きの請書差上げ、御用済みに相成り帰宅致し候
(13) 差出し申す一札の事
増助郷弐拾七ケ村
一勤高弐千百弐拾五石
但し高百石に付金弐拾五両弐分也
惣代給打込
此賃銀五百四拾壱両三分弐朱
右者、拙者共村々遠村に付、書面の賃銀正、三、七、十、四ケ月十日限り、四度に相渡し申し候対談にて、当辰の壱ケ年人馬繰出し御継立て向き、貴殿方へ相頼み申す処、相違御座無く候、尤も御所替御尊骸 御大名様再度御通行、御変革御家様御引越、御奥様御隠居様御姫君様非常御人数御繰り出し、御往返御通行臨時の儀は、其の時々御談事の上、賃銀出金仕らず候、然る上は、右賃銀の儀は日限の通り、聊かも差支えなく相渡し申し候、後日の為一札差出し申す処件の如し
慶応四辰年正月
土屋村 名主 元右衛門 東房村 同 弥左衛門
小田村 同 八郎兵衛 寺崎村 組頭 八郎右衛門
東泉村 同 四郎平 喜佐見村 庄屋 市左衛門
田野原村 同 七左衛門 片又村 同 源蔵
平の村 庄屋 惣左衛門 倉掛村 組頭 喜平
立石村 同 市郎平 塩田村 組頭 七左衛門
下長井村 同 勘治 西太田村 名主 六右衛門
幸岡村 同 新五右衛門 下太田村 同 平七
舘野川村 同 六左衛門 荒井村 同 六兵衛
境井村 同 利右衛門 上太田村 同 忠兵衛
道下村 同 治右衛門 小泉村 同 喜平
上沢村 同 藤太郎 湯津上村 同 房之進
佐貫村 同 治右衛門 下塩原村 庄屋 邦三郎
庄兵衛殿
三右衛門殿
助左衛門殿
□□□衛殿
(14) 慶応四年
大田原宿道中役人数覚帳
辰八月吉日 組頭 与右衛門 認メ
喜左衛門
二月廿四日 六月二十一日 十月十九日
一人足 壱人 一壱人 後口 一壱人
三月朔日 六月二十三日 八月廿七日 十月廿三日
一人足 壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月四日 六月廿七日 九月二日 〃 廿八日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月十二日 七月八日 九月七日 十一月六日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月拾八日 七月十六日 九月十日 〃 十日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
三月廿八日 七月廿二日 九月十一日 〃 十六日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
閏四月五日 七月廿八日 九月十三日 〃 廿七日
一壱人 一壱人 一壱人 一壱人
五月朔日 八月十四日 〃 十六日
一壱人増 一壱人 一壱人 〆跡口廿人
五月十七日 〃 十八日 先口
一壱人 壱人 一壱人 〆弐拾七人
五月廿四日 八月十日 〃 廿四日 二口
一壱人 一壱人 一壱人 〆四拾七人
六月朔日 閏四月廿五日 十月二日 増込
一壱人 一壱人増 一壱人 賃金六両弐朱
六月六日 八月十四日 十月六日
一壱人 一壱人 一壱人 分二
六月十三日 八月十九日 十月十一日
一壱人 一壱人 一壱人
六月十九日 十月十五日
一壱人 〆弐拾七人 一壱人
(15) 覚
一 人足 拾五人
此割合 内 六人 西の根
内 五人 下郷
内 三人 御料所
内 壱人 花房
右者、諸家様御荷物御通行に付、書面の人足明五日正暁六ツ時、御差出御申附下さる可き様、願上げ奉り候
子四月四日 年番
江崎庄三郎
深沢惣左衛門様
佐藤儀平様
永山房之進様
此割合 内 六人 西の根
内 五人 下郷
内 三人 御料所
内 壱人 花房
右者、諸家様御荷物御通行に付、書面の人足明五日正暁六ツ時、御差出御申附下さる可き様、願上げ奉り候
子四月四日 年番
江崎庄三郎
深沢惣左衛門様
佐藤儀平様
永山房之進様
(本項の史料はすべて永山正樹家文書)