巻川用水の争論

323 ~ 329
用水の争いについては、古来よりしばしば各地にくり返されたが、これは巻川の水問題についての記録である。
 但し、村内資料(須藤庫一文書)は途中より破損断絶しているので、後半のつづきは、同問題の大田原市史より引用させていただいた。
 この件は、延享二年(一七四五)に、一度解決になったが、その後更に問題が起り、延享四年解決となった。
 次の史料は延享二年双方納得の上一応の解決を見たものと、延享四年のものである。
  (一)  差上申一札之事
一、先達テ下奥沢村外七ケ村より願上候用水堰堀筋出入、去ル廿五日御裁許被仰付候趣、双方奉畏候。夫ニ付明宿村堰下より八間(一四・一八メートル)之所悪水除ケ堀と荒井村申上候処、此度御吟味之上八ケ村用水堀筋ニ相決メ候、明宿村ハ荒井村相給之儀ニ候間、右堰留取払候テハ下村々用水通路滞候間、右堰取払候様仕度旨、且荒井村より仕立候新堰ひくめ新堀潰候節双方立合候様仕度、并ビニ荒井村エ如前々中之堀より水引取候様被仰付候間、此以後右堀口広ゲ不申候様ニ仕度旨八ケ村之者共奉願上候ニ付、今日双方被召出明宿村堰下ニテ堰留候テハ、下村々エ水不行届候之間、右堰早々可取払候、且、新堰ひくめ新堀潰候節双方立会可申候、荒井村エ水引取候堀口以来広ケ不申候様可仕旨、荒井村エ被仰渡遂一承知奉畏候、用水之儀ニ候間双方致和融出入候様可仕旨被仰渡双方奉畏候、為後証一札差上申処仍如件

            野州那須郡鹿畑村 名主
  延享二丑年六月廿七日   訴訟人   次左衛門
            同郡新宿村 名主  利右衛門
           同郡下奥沢村 名主  次郎右衛門
                  百姓代 六右衛門
            同郡倉骨村 名主  太郎平
           同郡上蛭田村 名主  彦次郎
           同郡下蛭田村 名主  十右衛門
           同郡 蛭畑村 名主  仁左衛門
           同郡佐良土村 名主  次郎左衛門
           同郡 荒井村 名主  権兵衛
              相手  同   勝右衛門
  御奉行所
  (二)  差上申一札之事
一、下野国那須郡下奥沢、鹿畑、倉骨、新宿、上蛭田、下蛭田、蛭畑佐良土、八ケ村訴上候ハ、沼野田和、木曽、寺方三ケ村出水船山村ニテ落合、夫ヨリ用水堀筋有之往古ヨリ用水ニ引来候処、去ル子二月同郡荒井村ニテ高六尺余ニ新堰築立、新堀を掘り堰込候ニ付用水不足仕候、荒井村ハ戸野内村出水を、岡沢堀ヨリ槇川越ニ箱樋を以テ引来、用水不足無之候へ共、右箱樋修復を厭ヒ、新堰新堀相仕立候間相止候様ニ訴上之

一、同国同郡荒井村答上候ハ、荒井村用水ハ前々船山堀ヨリ引来リ、荒井、明宿、寺方、松原、吉際、竹之内、舟山七ケ村用水ニ限候間去春荒井村ニテ堰修復堀浚ヒ仕候を、新堰新堀と申立候、八ケ村ハ箒川、蛇飛川、中川、を堰上、町井沢と申沢山儀出水を溜置、用水十分ニ引請候、扨又、沼野田和、木曽、寺方三ケ村出水八ケ村エ引来候段申上候得共、沼野田和村水ハ夏ノ内ナラデハ出水無之、木曽村ハ出水少ク寺方村ハ水筋違候故、右三ケ村出水ハ不足之用水ニテ、殊ニ舟山堀エ不落合候ヘバ、旁訴訟方用水ニテハ無之候、荒井村用水ハ前々ヨリ岡沢水引来候得共、真木川(まきがわ)満水之節、箱樋押流シ定水ニテ無之候故、舟山堀用水引取不申候テハ、田地及其所ニ候旨答上之候、右出入絵図面ニテハ御決難遊思召、御代官堀江清次郎様、大塚彦六様両御手代被遣場所御改之処、舟山村新堀新堰之儀堀長八百間余ノ内、三百三拾間余ハ荒井村エ古来ヨリ引来候岡沢用水、真木川満水ニテ箱樋押流シ候節ハ及難儀候故、去子二月右三百三拾間余堀廻之残四百七拾間余古堀床浚候、………

(須藤庫一家文書)

(村内史料以上にて断絶、以下解説まで同一事件につき、大田原市史より引用す)

………右堀廻し之分新堀ニ相決候故埋潰并論候上之堰高分量に御拵被遊、去ル丑年六月御裁許有之双方御請証文差上事済候所、荒井村之もの共船山堀残水を同村内字阿連のより荒井中堰之井筋エ落度と申義ニ付猶又双方及界論候ニ付御代官、大草太郎左衛門様、泉本儀左衛門様両御手代被差遣再応場所御糺明之所訴訟方申上候沼野田和、木曽、寺方三ケ村之出水船山村ニテ落合夫より八ケ村用水引来旨申上之相手方ニテハ、右井筋船山堀之儀は荒井、明宿、寺方、竹之内、松原、吉際、船山用水限候所、近年出水少ク寺方、竹之内、松原、吉際、船山五ケ村田方三拾町歩余畑成出来候旨、相手方雖申上之候、右五ケ村田方之儀ハ前々木綿畑用水ニテ養来候所四十ケ年以前上ケ口悪敷難引取ニ付畑ニ成致段無相違荒井村は右町歩之外ニ候、之ハ木綿畑水之由縁茂無之且岡沢用水之儀真木川(巻川)越ニ箱樋を以引取故、不常之用水と荒井村申上候得共水先丈夫ニテ古来より荒井村相続之用水路ニ無紛答候故ニ八ケ村は川々を堰上其外所々出水有之旨相手方申上ニ付、場所御改之所箒川さひ川中川より之堰水難之候、八ケ村之田方弐百町歩余之内弐拾町歩余之段下リエ計引用勿論池之御前、町井沢、丹波沼、西沢、前之沢、糸沢、だこ沼、二本松、鷹ノ巣沢等之出水有之候得共土地之高候、或ハ領越之違ニテ水乗兼候田場有之、旁々以船山堀之用水無之候テハ、八ケ村田地相続成兼候段訴訟方申趣無紛扨又明宿村堰より往還道迄八間之所、中郷エ通候本堀筋ニ無紛相手方申分難立且又訴訟方の者共之儀茂荒井村ハ前々より、岡沢出水引来舟山堀より之用水路無之所、新堀を堀水未岡沢堀へ流捨往古より、水筋有之様ニ申成候ニ付、荒井村エ対シ新堀堰と心得候旨最初申上候得共八百間余之所、不残新堀と訴上候段ハ訴訟方心得違答候、又此度荒井舟山申上候は最初論候上之堰場ハ前々荒井舟山組合堰ニテ舟山之残水同村阿連のより、荒井中堰より之井筋中程エ堀筋有之故を以古来之通り、水落度旨申上候得共訴訟方より申上候ハ、此上舟山村ニテ田作致候ニ付テハ上之堰高何程堰上候共、残水を舟山村内字きりの木田より舟山堀江落し候得ば中郷エノ順水有之候得共荒井中堰之井筋エ落通テハ段下リ之地所故是又捨水ニ相成難儀之旨申上候ニ付遂吟味候所相手方申立候阿連のハ不残畑場にて字久保畑横際より長弐百四十間余之内四十間の堀形を以て荒井エノ堀筋と申上候得共、弐百間余ハ悉畑寄ニて堀形一切無之、上ハ去々丑秋荒井村より浚度と申上候儀無謂、舟山村きりの木田ハ田請之地所有之当時芝之内五十間余之堀形有之上ハ、前々水落候儀無紛、其上論堰之儀も荒井舟山組合堰と申証拠決シテ無之旁以阿連のより舟山之残水引取度と申上候段相手方申分難立答候、
扨又荒井村中之堰并明宿村堰之儀者両村手洗水ニテ用水時ニハ不遣堰場之旨訴訟方申上候得共、是又証拠一切無之ニ付申分難立候、依之仰渡候ハ船山堀訴訟方八ケ村之用水ニ無之并明宿堰より往還へ八間之所悪水吐ニ堀候地之儀、且上之堰荒井舟山組合堰ニテ、舟山村内字阿連のより荒井中堰より之井筋中程エ残水落度と申事等、相手方申分難立并荒井中之堰明宿堰之儀者両村手洗水之由、訴訟方雖申上候、是又申分難相立ニ付上之堰高高分量之儀者舟山村内堀筋ハ水乗候程を考舟山村勝手ニ堤上残水之儀ハ他村ハ不洩不残字きりの木田芝間之内五十間余之古堀を掘足し舟山堀中堰之上へ落し且舟山村内右堀筋当時畑寄之所壱畝歩余も右掘足堀之敷地ニ相成リテ訴訟方八ケ村并荒井村都合九ケ村より地代永壱貫文舟山村エ相渡し勿論舟山村之儀者悪水吐之儀ニ付右堀足し堀敷地之年貢ハ以来舟山村納之尤荒井村ハ中之堤より古来之通り用水引取、堰高之儀ハ此度再地改御手代中御改之節双方立合打置候土手杭際へ同並ニ石ニテ地杭打添堰枕木之儀茂石ニテ仕立右地杭頭より堰枕木石上場迄壱尺弐寸三分低ニ荒井村より仕立之明宿村堰之義も是又右改之節打置候土手地杭エ石ニテ地杭打添枕木茂石ニテ仕立地杭頭より堰枕木石上場迄壱尺九寸六分低ニ明宿村より仕立勿論上中明宿三ケ所之堰共双方村々立合無異論仕立之并舟山村内きりの木田より中堰上之堀筋浚候人夫入用等は双方并舟山村より出夫水通り不差支様堀立以来双方致和融及異論間敷旨ニ仰渡候趣双方并舟山明宿一同逸々奉承知聊以違背不仕被仰渡之趣急度相守可申候、若此上ニ茂相背及出入候ハバ何分之御科ニも可被仰付候

  為後証双方并舟山明宿弐ケ村共一同連判差上申所仍如件
      延享四卯年(一七四七)四月廿五日
          木村雲八御代官所
             野州那須郡鹿畑村 名主  以左衛門
          久世金五郎知行
               同郡下奥沢村 名主 次郎右衛門代
                      百姓  六右衛門
          同人知行
               同郡佐良土村 名主  次郎左衛門
          松野孫左衛門知行
                同郡新宿村 名主  久右衛門
          倉橋三左衛門知行
               同郡上蛭田村 名主  喜惣右衛門
          浅井吉次郎知行
               同郡下蛭田村 名主  元右衛門
          花房平左衛門知行
                同郡蛭畑村 名主  忠蔵
          大田原出雲守領分
             同郡荒井村
                  相手方 名主  権兵衛
                      〃   勝兵衛
          同人領分
                同郡舟山村 名主  六兵衛
                      組頭  弥左衛門
          同人領分
                同郡明宿村 名主  甚兵衛
                      組頭  彦兵衛
   御評定所
(『大田原市史』富池、印南覚四郎文書)

 大田原領荒井村の者が、巻川の水を堰きとめ、自分達の村に引入れたため、下流下奥沢、鹿畑、倉骨、新宿、上蛭田、下蛭田、蛭畑、佐良土の村人たちが、奉行所に訴え出た争論である。
 争いは、延享元年(一七四四)より同四年(一七四七)四月までかかって示談解決になった。八ケ村の訴えの内容は、沼野田和、木曽、寺方三ケ村の出水が船山村で落ち合い、一つになって巻川となり、それを八ケ村の用水にしていた。ところが、去る子年(延享元年二月)荒井村では、高さ六尺(一・八一メートル)余の新堰を築き新堀を掘って水を引き入れたので水不足となった。
 荒井村は、戸野内村からの出水の岡沢堀より槇川(熊川のこと)越に箱樋で引用していて水不足はない筈であるから、新堰をとり外して貰いたいというのである。
 評定所から回答を求められた荒井村では、荒井村用水は以前より船山堀から引用、荒井、明宿、寺方、松原、吉際、竹之内、舟山七ケ村で用いている。去る春荒井村にて、従来の堰を修復し堀を浚ったのを八ケ村では、新堰新堀と云っているが、八ケ村では箒川、蛇尾川、中川から水を引入れ、更に町井沢(奥沢と上奥沢の間)の出水を溜めおいて十分である。
 沼野田和、木曽、寺方の出水を八ケ村へ引いているというが、この水は夏少なく、木曽村でも水少々で、寺方村は水筋が違い、船山村へは水は落ちていない。八ケ村の方へは水は行っていない。
 荒井村の用水は前々から岡沢水を引いているのだが、真木川(まきがわ)洪水の節は箱樋押し流されて定水とはなっていない。舟山堀の水を使用しなくては、田作りをつづけることはできないと申立てた。
 評定所では、絵図面だけでは決しかねて、代官堀江清次郎、大塚彦六の両名を派遣し場所改めの結果、子の年(延享元年)に「船山村地内四百七十間余の古堀は堀浚いをし、三百三十間余堀り廻らしたことは、荒井村の言い分は正しいとは考えられず、これは新堀と認められるので埋めつぶすこととし、税負担田地に必要なだけの堰を作り引水すること」と丑の年(延享二年)に裁決があり、双方とも請書を出して落着した。
 ところが荒井村では、船山堀の残り水を同村字阿連のから荒井中堰の川筋へ落したいと申入れたので、再び争論となった。
 代官所は、大草太郎左衛門、泉本儀左衛門両手代をつかわし、再調査を行なったところ、原告側八ケ村は、沼野田和、木曽、寺方三ケ村の出水が船山村で落ち合い、それから八ケ村の用水として引いてきたと主張し、相手方は、右川筋船山堀の水は、荒井、明宿、寺方、竹之内、松原、吉際、船山用水であり、近年出水が少なくなり、寺方、竹之内、松原、吉際、船山五ケ村の田三拾町歩余が畑となってしまったと言っているが、右五ケ村の田は前々から木綿畑用水を用いてきたのに、四十年以前に水揚げ場所が悪くなり、そのため畑になったのである。荒井村はその外のもので、木綿畑の水に関係はなく、岡沢堀の水を真木川に箱樋で引いていたが、これは不定の用水と、荒井村ではいっているが、ここは湧水十分にあり、昔から使用していることに相違ない。その外八ケ村では出水の場所があると荒井村方ではいっているが、場所を調べたところ、箒川、さび川、中川より堰をあげ水を引くなどは全くできない。
 八ケ村の田弐百町歩余のうち、弐拾町歩余少なめに引用、また池の御前、町井沢、丹波沼、西沢、前之沢、糸沢、だこ沼、二本松、鷹ノ巣沢等出水があるが、そこからは八ケ村地内は土地が高く、または他領越しのため水を引くことはできない田所であって、船山堀用水がなくては、八ケ村の田を続けることができない。
 原告側のいうところに間違いなく、又明宿村への水筋は明宿堰からの水であり、相手方の言い分は通らない。
 なお、荒井村は、前々から岡沢出水を使用しており、船山堀を引き入れた用水路の古堀跡はなく、新堀を堀ってその捨て水を岡沢堀へ流し捨てにした昔からの水筋があるというのに対し、八ケ村の方で八百余間の堀跡全部が新堀だといっているのは、心得違いであると答えた。
 また、この度荒井村、舟山村の申し上げているのは、ここは前々から荒井との組合堰で船山の残り水を同村の阿連のから、荒井の中堰へ引いた堀筋があり、そのため古来からの通り水を落したいと申しあげたが、八ケ村側は、船山村で田を作るために堰上げ引水したものは、同村きりの木田から残水を再び船山堀へ落し、荒井村へ引き入れるのは捨て水にはならぬと主張、そこで更に調査したところ、相手方のいう阿連のは、全部畑地字久保畑横際より弐百四拾間余りのうち、四拾間の堀形をもって荒井への堀筋だといっているが、弐百間余りは全部畑地で堀形は一切なく、去る丑年(延享二年)荒井村から堀浚いしたいといったことは理由のないことである。
 また船山村きりの木田は、田として税を納めた(田請)地所があり、当時芝地であったところにはたしかに堀形があり、前々には水を落していたことに相違ない。その上、荒井と船山の組合堰などの証拠なぞ決してなく、さらには阿連のから船山の残水を引取りたい等の相手の言い分は立ちがたいと答えた。一方、八ケ村側で荒井村中の堰並びに明宿村については、これは両村の手洗水で水田用水に使ってはいないと主張しているが、これについては何らの証拠もなく、この申し分は立ちがたい。
 これによって仰せ渡しは、船山堀は八ケ村の用水ではなく、また明宿堰から往還(奥州街道)へ八間の所悪水吐に掘った土地とその上の堰は、荒井、船山組合堰で船山村阿連のから、荒井中堰よりの川筋へ残水を落したいとの言い分は立てがたい、また荒井中の堰と明宿堰の水は、両村の手洗水であるとの八ケ村側の言い分も成り立たぬ故、税負担田地に必要な水は船山村内の堀筋水より引き入れ方を考え、船山村で自由に堰上げ、残水は他村へは出さず、船山村きりの木田芝地のうち、五十間余の古堀を掘り足し、船山堀中堰へ落し、その上、船山村内右堀筋畑寄りの所、壱畝歩余を掘り足し、堀の敷地として訴訟方八ケ村と荒井村の九ケ村から地代永壱貫文を船山村へ渡すように。また船山村では、これは悪水を吐くこと故、この堀敷の年貢は以後は船山村で納めること、また荒井村は中の堰から昔の通り用水を引き入れ、堰の高さは今度場所改めの際双方立合で打って置いた土手杭のそばへ石で地杭を打ち、また堰枕木も石で仕立て、高さは枕木石上まで一尺二寸三分とし、荒井村にこれを作ること、明宿村堰も同様にし、高さは一尺九寸六分として明宿村で作ること、なお、明宿上、下三ケ所堰とも双方立会の上、承知で作ること、船山村きりの木田から中堰上堀浚い人夫及び費用は双方及び船山村から人夫を出し、流れに差し支えないようにすること、以上の条件で今後は仲よくし、争を起こさないことと申し付けられた。双方並びに舟山、明宿一同早速承知し、今後この申し渡しを固く守り、もし背いた場合はどのような科(とが)をもおうけする旨の書類双方並びに舟山、明宿二ケ村共一同連判の上差上げ申します、というものである。
 以上によって、問題は一応解決し、八ケ村側が大体正しいことが判る。但しこの示談書は八ケ村の主張に対し、あいまいに近い条件であり、荒井村に対しては正しくないことを判然とさせていない。
 幕府は八ケ村の訴えをうけると、代官所から手代を派遣し、実地調査を行ない、原告側の正しいことを認めたが、これを知った大田原藩では出張役人を警護すると称して一五人の藩士達が、抜身の槍を持って現場に馳せつけて見分役人を威嚇したといわれている。このため幕府役人達は、前記のような示談解決となったものであらうと大田原市史では結んでいる。
(解説『大田原市史』より)